病めるときも健やかなるときも、お前だけは絶対許さないからなマジで

あだち

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第二章 長い長い初夜

13 決裂

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 “十二年前のこと”はただでさえ、父からも他言無用と言い含められていた。
 そうでなくても、今までもこれからも滅多なことではけして引っ張り出さないと決めていた話題だった。

 表情の削げ落ちたリカルドの底知れない視線に耐えられず、フェリータは地面を見つめた。
 リカルドは時々、本当に時々こういう顔をする。見るものを圧迫する、窒息させようとする冷たい眼差しをその目に帯びる。

 それがフェリータには何より恐ろしかった。

「……だって、なにもかも急すぎますもの。オルテンシア様と仲のいいロレンツィオと、そ、そんなに親しいそぶりも見せたことなかったのに」

 つっかえながら、問いかけになんとか答える。責められるいわれはないはずなのに、と理不尽なものを感じていても、そこまで言葉にはならなかった。

「……脅されてはいないよ。ご心配、どうもありがとう。ロレンツィオは学院で話す機会が多かったから、君より早く人となりを知ることができただけ。いい人だよ、口は悪いけど」

 学院。十五歳以上の男子が入学資格を持つ四年制の男子高等学院。二歳差のロレンツィオとリカルドは、リカルドが飛び級したことによって同じタイミングでの卒業だった。

「ずるい、学院でのことなんてわたくしには知りようもないのに、こんな事態になってからあの男をいい人呼ばわりする材料にするなんて。……わたくしがこの結婚を受け入れれば、もうオルテンシア様に心変わりしたことを責められませんものね」

「もしかして忘れちゃったのかな。ロレンツィオと結婚することになったのは君の独断飛び込みの結果だけど」

 当てこすったフェリータに対し、それは実にスマートで、大きな一撃だった。
 リカルドが言ったことに何も間違いはない。だがフェリータには、突き放されているようにしか聞こえなかった。

 自分のあの行動が身勝手と勘違いによるものだとしても、その望むところがなんだったのか、目の前の男にわからないはずもないのに。

「……なぜそんなことを言うの。リカルド、わたくしのこと、愛してくれてた?」

 聞いてから背筋が冷えた。耳の奥でどくん、どくんと心臓が嫌な音を立てるのが聞こえた。

 今までの記憶が、フェリータに『そんなこと当たり前だ』と思わせていた。リカルドはいつもフェリータのそばにいて、誰よりも彼女を優先してくれて、優しかった。彼との結婚を当たり前のように考えていたのは、周囲のお膳立て以上に、互いの信頼と愛情が根底にあったからこそだった。

 ――だからこそ聞いてしまって、恐ろしくなった。もしこれで、『別に愛してなんてなかったよ』なんて言われたら、もうフェリータは立ち直れない。この世の何も、信じられない。

 そんなだから、「もちろん。今もだよ」と言う言葉に、フェリータは凍っていた体中の血が一気に解けて巡るのを感じ、胸の内が喜びに満たされた。
 小走りでリカルドの元へ駆け寄ると、男の衣服を掴んで顔を見上げ、子どものように頑是なく問いかける。

「い、今もオルテンシア様より、わたくしのことが好き?」

「うん」

「ロレンツィオより、わたくしに心を許してる?」

「うん」

「なら、なら、今からでもわたくしたちが一緒になる方法、考えてくださる?」

「いやそうはならないでしょ」

 撃沈した。

「大事なのはフェリータだけど、僕もうあの人と結婚するって決めたからね」

 そのうえ、リカルドは自身の腕を掴んだまま固まったフェリータの手を、丁寧に開かせて袖から離させた。

「さぁ、いい加減戻ろう。そろそろ捜索隊が出されてもおかしくない」

 子どもに言い含めるような言葉に、フェリータは首を振る。
 どうしてそんな残酷なことを言うのだ。あの場に戻ったら引き離されてしまうのに。
 だけどリカルドはもういつもどおりの微笑みを取り戻していた。優しく笑って、フェリータの必死さには絶対に答えてくれない。

「大丈夫、僕たちの関係はたとえ別々に結婚しても変わらないし、フランチェスカともすぐ仲直りできる。それに君の結婚した男は、きみが思ってるよりずっといい男だよ」

 本当に、この人は何を言ってるのだ。
 フェリータの知らないところでロレンツィオと親交があったからにせよ、自分がすでに別の女、それも王女と婚約しているからにせよ、明らかに結婚を嫌がっているフェリータを慰めもせずにひたすらそちら側に向かせようとするのはなぜだ。今も愛しているといったのに。

 まさか。

「……リカルド。一年前、あの人が初対面のわたくしになんて言って魔術比べすることになったか、覚えていますわよね?」

「うん」

 なんのためらいもない肯定。
 嫌な予感に喉が渇いていくのをおして確かめる。

「……それでもリカルドは、あの人を“いい人”っておっしゃるの?」

「うん」

「それは誰にとってのいい人なの? ……リ、『リカルドが体よくわたくしを追い払うのに都合のいい人』って意味では、ないわよね?」

 期待した。渇望した。
 そんな邪険にする気持ちはないと否定してくれるのを期待した。
 嫌な予感に押しつぶされそうな心を救い出して落ち着かせてくれる、甘くて優しい言葉を渇望した。

 フェリータの知るリカルドはそういう男だったのに。

「ちょっと、そうかも」

 月の光が冷たい。

 銀髪の下の、緑の目が笑っている。
 フェリータの絶望を見て、笑っている。



 ***

 宴会は、フェリータが抜けた後もまったく問題なく盛り上がり続けていた。

 いつの間にかテーブルの間にチェス台まで広げられ、勝負する二人の周りを男女問わず何人もの客人が囲んでああでもないこうでもないと騒いでいる。

 中心になっているのは新郎側の招待客たちだったが、ぺルラ家側の親戚縁者にも元来勝負好きは多い。その性質を抑えられなかった面々が、一歩遠いところから盤上を興味深げに覗き込んでいる。

「やったーっ、あたしの勝ち! さぁ言いなさい坊ちゃん、今日のゲストの中で誰が一番好みかな!?」

 突如その中央で勝ち鬨を上げたのはぺルラ伯爵夫人だった。野次馬からも歓声と悲鳴と、高らかな拍手が沸き起こる。
 勝負にあたって当人同士でほほえましい賭けをしていたようだが、見物人同士でも賭けごとが行われたらしい。

 歓声にこたえて手を振るジーナ・ぺルラの正面に座り、周囲にはやし立てられて頭を抱えていたのは先ほど庭から撤退したヴァレンティノだった。

「ロレンツィオの友人たちにすっごい勢いで馴染んでるなジーナ様。伯爵は、ああアドリアーナ様と一緒か。……フランチェスカは休憩室行ったのか、もしかして先帰ったのかな」

 ヴァレンティノとジーナが座席から退くと、次の対戦者が周囲の酔っ払いたちに引っ張られて座らされている。
 フェリータと会場の入り口付近に立ち、苦笑していたリカルドに、すぐにギャラリーが気づいた。

「来いよリカルド! 飛び級卒業の大天才と本日の主役で今日一番の大勝負だ、敗者は拒否権なしの恋バナ暴露な!」

「え、チェス? あー、……フェリータ?」

 戸惑うリカルドを置き去りにして、フェリータは人垣へと進んだ。

 彼を置いて先を歩くなど、今までの自分には考えられなかった。
 けれどもう状況が違う。フェリータの心地よかった人生は何もかも違う形になってきている。

 平穏は壊れた。
 幼馴染みは優しくなくなり、眼差しのぬくもりは冷めた。
 生まれ育った家には帰れなくなり、名前まで変わってしまった。結婚式のドレスも、自分だけの特別なものを大好きな人のために用意するはずだったのに、温めていた将来像は泡と消えた。

 ――だけどひとつ、以前と何も変わっていないはずのものがある。
 誰といようと、どこにいようと、なんと呼ばれようと、この身で覚えただけは、衰えも変化もしていない。

 それを、今すぐ確かめたかった。

 酒と余興で異様な熱気に包まれていた宴会場が、フェリータの周囲から徐々に空気を変えていく。
 チェス台を囲っていた人々が恐れるように自然と道をあけていき、ほどなくしてフェリータは台の前に座っていた人物と直接相対することができた。

「リカルドは、チェスはあまり強くありませんの。代わりと言ってはなんですけれど、わたくしの挑戦を受けてくださるかしら、カヴァリエリ卿。――チェスなんかじゃなくて、魔術比べで」

 言うと、すぐさま会場の一角から父親が声を上げた。

「フェリータっ! 今度は何を考えて、」

「自分は“取引”したくせに、わたくしには駄目だと言うの? 本当にいい御身分ですこと」

 その反撃が思いもよらない冷ややかさだったためか、いつも娘と丁々発止の喧嘩を繰り広げる父親は喉に物を詰まらせたかのような音を出して黙った。

 そこへ、娘がとどめを刺す。

「そもそも、もう結婚していますのよ。他人の家の女に、いつまでも家長ぶって命令するのはおよしになって、ぺルラ伯爵」

 それまでの喧騒が嘘のように、場はしんと静まり返っていた。
 誰の顔からも笑みが消え、事の成り行きを固唾を飲んで見守っている。本当に母娘か、と誰かがひっそり呟いて、たしなめられた。

「さ、卿。勝負はお受けいただけますでしょうね?」

 台の前に立って催促する女に見下され、膝の上で手を組んだ屋敷の主がこれみよがしに嘆息する。

「……懐かしい言葉を持ち出しますね。それはすでにあなたの勝ちで決着がついてる」

「関係ないでしょう、一年も前のこと。それとも、二度同じ相手に負けるのは怖い?」 

 わざとらしい丁寧さでかわそうとしたロレンツィオを、フェリータは逃さない。
 祝宴の場とは思えないあからさまな敵意に、やがて男も同じだけ凍てついた瞳で低く応じた。

「何を賭ける? あなたの恋の話は聖書冒頭より有名だから興味がないんだが」

 おいやめろよ、と友人のうちの誰かが発した声は、滑稽なほど無力だった。

「わたくしが勝ったら、家督を渡しなさい。この家に関するすべての決定権を、わたくしが持ち、わたくしが支配する。……もしあなたが勝てたのなら、今後はあなたに逆らわない、従順な妻になりますわ」

 今度は隠居した先代カヴァリエリ当主とその妻が、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
 しかし彼らが何か言う前に、子であるロレンツィオが手を上げて制した。

「命と言ってこないだけ穏便だな」

 男は親を黙らせた右手をチェス台へと移動させた。手袋越しにつまんだ白の歩兵を、相手へ向けて放り投げる。

 それを受け止めて、フェリータも冷え切った瞳で吐き捨てた。

「幸せな男。こちらは命以上のものを賭けるというのに。……先攻後攻、前回敗者がお決めになって」

 ロレンツィオが促すように手のひらをフェリータに向けた。

 フェリータの赤い目がようやく男から駒へ移る。一瞥して、それが宙高く放られた。

 観衆の視線が、回転する駒とともにテーブルのはるか上へと移動する。シャンデリアの光に駒が飲まれ、誰もが目を細めた次の瞬間。

 ずんと降り立った『それ』の重みで、床がたわんだような錯覚に陥り。
 そして続いた、低く唸る獣の声に耳と目を疑った。




「――うわぁぁぁぁ!!」

 天井から降って着地した白銀の毛並みのライオンに、広間は怒号と悲鳴に包まれた。

 
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