銀に白鹿、春嵐

佐久間マリ

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反撃開始3

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 率から、先日の看病の礼をとしつこく言われていたので、東京出張の日の夜に食事をすることになった。

 予約の店は静かなイタリアンだった。照明がほどよく落とされた店内は、賑わっているのにうるささを感じない。



「一人暮らしで倒れるとマジでヤバいってことを痛感した」



 ピルスナーグラスでビールで乾杯して、率は一言目にそう言った。

 頬のあたりを見るに、少しやせたように思う。着ているタイトなスーツのせいだけではない。



「誰かいないの? 一緒に暮らしてくれる人」



「いないなー」



「率はもう自由なんだよ?」



 率は会話のテンポを一瞬ずらして、視線は春鹿から外して、口許だけで微笑み、

「俺はそんな自由が欲しくて春ちゃんと別れたわけじゃないよ」



 離婚は率が言い出したことだった。

 率がバイセクシャルであることはもっと以前に打ち明けられていて、当然ぎくしゃくした空気があったところも否めないが、それでもそれが離婚の決定打にはならないくらいには夫婦仲は上手く行っていた。

 

「浮気とか率に他に好きな人ができたとか、そういう理由だったらよかったのに」



「いや、よくはないでしょ」



「そりゃね、もしそうだったら私は悲しかっただろうけど、状況としてはわかりやすかったかなって」



「好きな人は、今もハルちゃんだよ」



 春鹿は黙る。



『俺は昔、男が好きでそういう関係だったこともある』



 それが今ではなく過去の話なのならば、一生騙し続けてくれればよかったのにと当時は思わなくもなかった。

 隠された事実を、傷ついてもすべて知りたいと思うか、嘘をつかれて隠されたままの方がいいと思うかは人それぞれだろう。

 知りたかったのか、知らないままでいたかったか。

 春鹿の答えはいまだ出ていない。



「離婚は俺のエゴだ」



「離婚って形を取ることで、実際は私に自由をくれたんだと解釈してるけど」



「春ちゃんに選ぶ自由を与えたっていう『体』を作っただけだよ。結婚してからカミングアウトしたのは明らかな後出しジャンケンで、その負い目から俺が解放されたかっただけ」



 結果、確かに率は楽になった。自分一人だけが、楽になった。



「別れてゼロになった上で、春ちゃんがまた俺を選んでくれる理想を思い描いてた。都合よく」



 食事の手はあまりすすまなかった。

 それは率も同じらしかった。



「別れたらゼロからスタートできるなんて、それもまた俺のエゴだし、春ちゃんの気持ちを無視した考えだ」



 率の心の中にはAとBの容れ物があると春鹿はイメージしている。

 春鹿にAは占領できても、Bは春鹿に埋めることのできない場所だ。

 Bの中を覗くこともBの輪郭に触れることさえ、春鹿には一生可能ではない。

 どれほど愛しても、永遠に不可能な場所。

 そのことが、春鹿に率を遠い存在に感じさせる。



 二杯目の飲み物が運ばれてきて、話題が変わる。



「こっちには帰ってこないの? 俺のところにとはいわないまでもせめて東京に。お義父さん、思ってたほど介助が必要なわけじゃなかったって言ってなかった?」



「うん。それは、大丈夫なんだけど」



「春ちゃんは白銀村のことが嫌いだと思ってたから」



「思ってたほど、嫌じゃなくなってたの」



「えー、東京住みって俺の強味だと思ってたのに」



 では、一生あの村で暮らすのか。

 そこまでのイメージができていないのも事実だ。



「……どっちにいるのが、本当の自分なのかな。自分らしいのかなって考える」



「どっちも春ちゃんだよ」



 住み慣れた東京と、生まれ育った地、白銀村。



「そりゃあ、居たいところ、住みたいところにいられるのが一番ベストだけど、例えば今回みたいに状況的に白銀村に住まなければならないってなっても、住めば都って例えは少し変だけど、置かれた場所で咲けばいい話で。そのとき、その場所に適応してる自分がベストでいいじゃん?」



 率らしい思考だ。率は無理やりにでも能動的に状況を動かすよりも、自然な流れに身を任せた結果こそが運命と考えるタイプだ。



 ちょうど遠い地元に思いをはせていたタイミングで、ヴ、とスマホが震えた。



「わ」



「どうしたの?」



「白銀、雪だって」



「お義父さんから?」



「……いや、友達」



「友達って幼馴染でしょ。あの簪を作ってくれた。ハルちゃんのインスタにいいねしてる彼だよね」



「やだ、なに、ストーカー?」



「今どきこのくらいのネットストーキングは普通だよ。三滝工房のインスタも見てたりして。三滝晴嵐くん、でしょ?」



「ほら、すごく降ってる。やば、積もるかも」



 春鹿はスルーして、メッセージに添付されていたムービーを率に見せた。

 真っ暗な村に降る雪をフラッシュ有りで撮っているから、深海のマリンスノーかのように大小の白の塊が上から下へ勢いよく落ちていく。



「雪国って一晩で何メートルとか積もるんでしょ?」



「いや、この時期、さすがにいきなりそんなに積もることはない、たぶん」



「新幹線とか止まる?」



「東北新幹線は雪には強いからね、それは大丈夫だろうけど。天気予報にも雪マークも出てないし。雪道の運転が怖い」



「帰れなくなっちゃえばいいのに」



 率が笑った。



 駅で率と別れた春鹿は、電車を待つ間に晴嵐にメッセージを送った。

 吹きさらしのホームに吹く風も冷たかったが、白銀の寒さとはまた種類が違う。

 首をすくめてスマホをポケットに突っ込むと同時に電話がかかってきた。



「まだ雪降ってる?」



『ああ、降ってら。こん雪ば、たげ積もるべ』



「えー。明日、運転して帰れるかな」



 東京の夜空に吐いた息は全く白くなかった。



『今朝、俺さ送っで行っでやるっづうのにおめさ勝手に行ったべ!』



「だって雪降るなんて予報で言ってた?」



『もうこん時期、降雪さ珍しいごとでね』



 確かに、この冬になってから雪が積もることは何度かあった。

 晴嵐が言うのは、これが長期の積雪が始まりを意味する根雪になるという意味だろう。



『昼のうぢに帰ってくるだば、おめさ運転でもなんとがなるばって、夜さなると無理だ』

 

「明日も出社しなきゃいけないし、頑張って早めに東京を出ても着くのは夕方だわ。だったらもう一泊して、明後日の朝に帰ろうかなー。あ、電車来たから、切るわ」



 春鹿は返事も待たず通話終了のアイコンをタップする。

 しんしんと音もなく雪が降り続いている限界集落が嘘のように、雪の気配などみじんもない乾いた都会の夜景を電車の窓から望む。



────何してんだろうな、私。

 

 窓に映った自分に向かって心の中で問う。

 自分に嫌気がさすより前に、手に握ったままだったスマホが震えた。

 メッセージだ。



『明日の夜に帰ってこい。迎えに行ってやるから着く時間知らせろ』



『できるだけ早めに東京出るようにする。明るいうちに帰るから大丈夫』



『雪道の運転ナメたら死ぬぞ』



『わかってるって』



 それでも次の日、連絡もせずに春鹿は最寄りの田町の駅まで帰った。

 時刻はまだ十八時だったが、日暮の早い季節、すでに暗かった。

 道は除雪はされているだろうし、雪道の運転に全く自信はないがゆっくり走れば大丈夫だろうと安易に考え、田町の駅を降りたちはじめて、現実を目の当たりにした。豪雪地帯を甘く見ていたことを思い知る。



「……やばい」



 雪こそ降っていないが、駅前に停めていた春鹿の車は雪に埋もれていて、そもそもパンプス履きの春鹿はそこまで辿り着くのさえ無理に思える。

 空気はまるで冷凍庫の中にいるような冷たさで、パンツスーツの下に分厚いタイツを履き込んでいたところで何の役にも立たず、雪の上に立っているわけでもないのにつま先の感覚はすでになかった。



「雪国、なめてた……」



 春鹿は早々に諦め、駅の改札口でスマホを開くと検索をかけた。

 市内に戻ればビジネスホテルがある。今夜はそこで一泊して、明日なんとかして帰ろう。陽が出てるうちなら車周辺の雪も融けるかもしれない。



 ウェブで空室状況を確認していると、

「おい、そこで何すてんだ?」



「わ! どうしたの!?」



 帽子にダウンコート、長靴姿の晴嵐が鼻を赤くして立っている。



「どうしだもこうしだも、おめ、なして連絡さしでこねえ!? しかも、その恰好、雪国ナメすぎだべ。見でる方が凍える」



「うん、雪国の本気、忘れてた……足の指、しもやけなりそう」



「こっだな雪、まだまだ本気でね」



「市内はここまでじゃなかったのに」



「おめの車の雪、今、寄せでやるがらそごで待っでろ」



 そう言うと駅舎の外に出て、ざくざくと雪の中を歩いて行く。



「寄せてって……え?」



 晴嵐は除雪された道に停めた軽トラからスコップを下ろし、またざくざくと進んで春鹿の車の周りの雪を払いはじめた。

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