塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—桜に還る—

想かうつつか、桜に還る

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 香気を道づれにして、乱舞する無数の花唇。
 大地の呼気が、彼方まで拡がり、きわへいきいて生へと還る。

 果てに永遠がきらめく、その両の腕で伸び続ける地平線。
 光とみずの螺旋が翻る水面みなも
 うずまくるように、けれどひとびとの営みを、確かに築いて寄り添うように連なりを繰り返していく、平かな街並み。
 そこに息づく、あまたの、そしてまた生まれている、
生まれてくることが約束されている、生命いのち
 
 おかあさん。
 子が駆けより、日傘の陰から差し出された母の手によってそれはひとつに繋がれ、
共に未来さきへと歩んでいく、伸びた道程みちのりのもうくるしみは見えない遥か。


 空。繋がっているのに、仰げばまるで地の底から覗く、それこそが瓶覗かめのぞきのかたちをした虚空だった。
 それでも、虚ろを攫っていく薄藍と白霞。
 ただ足を踏みしめるためだけの、簡素に舗装されたグラウンド。
 行きどまる、越えることを投げたくなるにまがいない黒い波が立ち塞がるような岩壁の長塀。
 薄墨の巨塔。乱れず前進していく作業服の隊列。
 ひかりに惹かれ、見えない太陽に焦がれて鉄柵の隙間から見上げた、囚人の目が凝らされる。

 名残りを惜しみ、はばからずに目許を拭う受刑者の、肩を穏やかに撫でさすって微笑む、官服の袖の金線が煌めく。
 それを背後から見守る、その後ろ姿から漏れるどんな教えや粒子も、いつまでも目に焼きつけていたいのに、
すっかり目前の囚人にかかりきりで、不貞腐れて腕組む刑務官の若い頬に、ふと薫風がなびいた気がして、
どこからなのか、密封された空間であるのに、不思議に想って視線を向ければ、
桜の花弁がひらと舞い降り、その目のなかにはにかむようにして揺蕩たゆたった。


 無数の檻を内奥して、断罪の棟をなすいわおのような巨群。
 その身のうちに、罪禍から切りとられ、清浄な外界への憧憬そのままに据えられたかのような、静閑な息吹に充ちては吐き、絶えることのない循環を繰り返す、庭園。

 ここは、不浄の地。
 無数の禍いに囲われて、自らも、ひとりはかけがえのない絶たれた未来いのちのため、ひとの生命それを奪い、
もうひとりは投げ出された渇望を制御出来ず、自らの源である存在をもろとも手に掛け、
ひとのみちを外れ、生命を以った断罪を突きつけられ、枷のいましめはついに解かれたが、
ゆるされはしない、ふたり。

 なのに、いま、いにしえからゆるしと純潔の百の花あめを降らせてきた大樹の御許みもとで、
それすらはばからずに永遠をも融解させるくちづけを交わし続ける、ふたり。

 互いの唇を素のきわまで明かしたふたりは、瞬きを散りばめる睫毛の境で、ようやく満ちたりた至福を浮かばせ、その視線で柔く絡ませあった。

 言葉は、いらない。
 もう、遺してきたから。

 飽くる訳もなく、また瞳を閉じれば、疼くような目の前のひとのはだかの愛しさを、また唇に溶かせることが出来るから。
 閉じて、ふれて、溶けあって、
身体を繋ぎあった腕の先の指にも、惜しむように結び目をつくって、
醒めない悠久の繰り返しを得たふたりを隠すように、

 これは、そうか、うつつか。
 大気の慈しみの風が舞い上がり、幾ひらもの桜貝が翔ぶ幕が仕立てられ、
やさしく猛々しい花あらしのなかに、ふたりの残姿が、
溶けて、春の薫香に朧いで、ゆるやかに円熟したときのみち果てに、還っていく……——。




 虹彩を刷いた陽光が、こんもりと春を透過させた樹木に注がれた。
 T拘置所の中ほどには、塔の狭間に箱庭のように据え置かれた、簡素な園庭がひっそりと佇んでいる。
 荒く舗装されたグラウンド。その外れには、いつのときからか穏やかに根を張り、変わらず静閑な面持ちを湛える、淡紅の花の大樹が、淑やかに厳かに、
目前の罪咎に眼を伏せながらも、その懐ろに憂いも、総ての想をまどろみのうちに内奥するようにして、
手を伸ばしながらも母のようないだきで、今日もそば立っている。

 木翳が差す土を焦がしたような茶の樹肌。
 人目の知れぬ、その場所には、遠い年月をくだったいつかの日に、
胸にこめられた想いを、とどめられなかった想いを、
届け。あのひとに届いて。伝えてと、
せめてもの祈りをと信じるひたむきさで、深く、濃く、
言の葉のうたいに託したその手跡が、幾たびの風雨、時の螺旋に舞われながらも、
その想いのつよさか、果ては大樹の御息のためか、
褪せは見せるが、いまもあからかな輪郭そのままに、大樹の肌に浮かばせ、なお切なる息吹きが見えて淡く昇るかのようだった。


さくら見る
くる日を待つも
すこしづつ
きみとの時間 惜しくなりけり

 彼が好きな、奥ゆかしい言葉で散りばめて。
 詠いのかしらに、にごりのないましろで透んだ想いを、隠して、綴じて。


 翳で閉ざされていた暗部に、風が白桃の梢を鳴らし、また三原色が撒かれて、ひかりが挿す。
 慎ましく刻まれた歌の傍らに、ふと、包みこむようにして、
おおらかでまた伸びやかな、一切の飾りたてを棄てた文字が、真新しい筆跡で、
ふるくに紡がれた歌を隣から、まるでその温かな腕にいだきこむようにして、返しの詠いで彫り綴られているのが、
陽光ひかりはくと、樹肌と緑葉のあん
そこへ花衣の薄ももが明滅して、まぎれて、溶けて。

 けれど永遠の証をたてるため、またあざやかに、麗らかな春の遠景へと重なり、
もう決して、なにものにも振り払われることのない
音と、想と、言の葉を。
 巡りくる幾春もの季節に遺し、ほどけはしない、かわしを結ぶ。


ときが満ち
おとづれる日を
るいげつの 風と化せよと 濡羽ぬればたまにと

おちる花
れんめんと降れ
ももいろの
だれも君との 間にいない






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