82 / 97
—ずっと—
静かの桜
しおりを挟む春の晴れの日にひとりが降り立つ。
錫色の着物。一礼をした白魚のような肢体が面を上げ、生成のバテンレースの傘に、透かされた陽とともにその背が覆われる。
微笑みが黒いまとめ髪、右頸の黒子と流線上に溶けて、
きよらかに歌を詠み、かけがえのない存在をまたひとつ、この空のように透きとおり護るべきものを得たその女の影は、
拡がる彼方、外界の現世の地平のなかへと、
音もない、春の息吹きに包まれた朧ろなる精のようにして、やがて消えた。
ひとりが満ちる。
この世界は、雑多と混在にこんなにも満ち溢れているのに。
今の俺に残されているのは、
春の陽気。渡る薄蒼と白雲の天。足裏に感じるすり減らされたアスファルトの歩道。傍らにはもう戻ることはない、あまたの罪科をうちに閉じこめた鈍色の長塀。
こんなにも自分以外の物質と繋がってさえいるのに、『俺』という個の存在に、いやがおうにも浸らされている、
与えられることすら惜しまれ、ついに解放を許された『孤』という有限の見えない時間。
永年、待ち続けていたのはこの瞬間なのかと、五感に痺れるように受け容れようとして束の間、留まる。
いや、ひとりでは ないんだ。
そして、本当に待ち望んでいたのは、"いま"この瞬間じゃない。
それを手に入れるため、俺はただ一番に見ようと思っていたものをこの眼におさめるために、
他の雑多を視界から払って、踵を返した。
近づくにつれ、音はしない。地を踏みしめる音を俺の耳は拾おうとはしない。
ただ、それが発するどんな気配も、零さずこの五感に注ぎ入れようと澄ましている。
やがて、聞こえた。 春の息吹が。
音はしない。鼓膜を拍つのは静寂の心音ばかりだ。
だが頭上から、顔を覗かせるいくつもの花冠が、優しく唇をふるわせる声音が辺りに満ち満ちている。
視界も、染まった。
淡桃の、世界がそれと変わってしまったかと錯覚を覚えるほどの、満天の薄紅。
真っ先にこの身体へ呼気のように吸いこまれたのは、香気だった。
春の、恥じらいの素肌を晒すようにして溢れる、艶然を含みながらも、
純潔、楚々、昔からの奥ゆかしさを忘れない、やさしく雅びやかを落とす、ため息のような薫り。
肢体は雄々と黒々しくそびえるのに、纏う花々は可憐で、
この国で生まれた、この国を生きている。それを想い起こさせてふるえる、
きよくて雄大な、白と紅とが溶けあってひらく、ただ唯一の、尊き花。
桜。
胸に、生きた熱をこめて綴られた、幾つもの言葉が詰められた手紙を当てて抱きながら、
一本の桜の樹と、俺は邂逅した。
眼を閉じ、肺の内奥までその酸素を吸いこむ。
解き放たれて、やっと初めてふれた、外界の無垢な息吹を沁みこませるかのように。
ずっと予期していた、馥郁たる春の爛漫に満ちあふれた薫り。
瞼を、憧憬に誘われるように開く。紛うことのない、桃色一色の天辺。
この景色だ。いま、この瞬間にそれがある。
枷をつけられた塀から放たれた、その時に見ると求めていた必然は、これなんだ。
いま、そのなかに俺は在る。
そして、ここに立つこの俺は、 ——やっぱりひとりじゃない。
「——…………やっ、とふたりきりになれたなあ」
傍らに、その気配を。俺は確かに、感じていた。
透、有難う。
透。凄いなあ。
透。綺麗だなあ。
透、凄いよなあ、桜。
透、ほら、こんなにたくさん。
有難う。 一緒に見てくれて、有難う。
俺にこの景色を、見させてくれて有難う。
『桜、一緒に見よう』
遠い昔。『生きていて良いのかな』。
呟いたお前の、見上げた瞳にひかりがわなないた。
『——…………憶えていますか。……二十年前の。"今日"、だったんです』
『…………勿論です』
別れ際の、楓の呟きと眼差しが交錯する。
お前が春の澄んだ空に溶けて、俺が桜の樹の根に崩れ落ちて、世界を憎んだあの朝から、
二十年もの月日を呑みこんで、必然かと、やはり手繰り寄せられたのかとひそかにふるえた同じ日に、遂にこの塀を脱ると知ったときから、決めていたんだ。
絶対、お前も連れて行くんだと。
あのしみったれた監獄なんかに留めて閉じこめておいたりなんかしない。絶対、お前も連れて一緒に出るんだと、
そしてこの景色を、一緒に、何よりも先に一番に見るんだと、
絶対絶対に、そうすると決めていたんだ。
3
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
泣き虫な俺と泣かせたいお前
ことわ子
BL
大学生の八次直生(やつぎすなお)と伊場凛乃介(いばりんのすけ)は幼馴染で腐れ縁。
アパートも隣同士で同じ大学に通っている。
直生にはある秘密があり、嫌々ながらも凛乃介を頼る日々を送っていた。
そんなある日、直生は凛乃介のある現場に遭遇する。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
怯える猫は威嚇が過ぎる
涼暮つき
BL
柴嵜暁人(しばさきあきひと)は
あることがきっかけで以前勤めていた会社を辞め
現在の職場に転職した。
新しい職場で以前の職場の人間とは毛色の違う
上司の葉山龍平(はやまりゅうへい)と出会う。
なにかと自分を気に掛けてくれる葉山や
先輩の竹内のことを信頼しはじめるが、
以前の職場で上司にされたあることを
今の職場の人間に知られたくなくて
打ち解けることを拒む。
それでも変わらず気に掛けてくれる葉山を意識するようになる。
もう誰も好きにならない
そう決めたはずなのに。
好きになってはいけない──。
ノンケの葉山に対して次第に膨らんでいく気持ちに戸惑い
葉山と距離をおこうとするが──?
ホテルを舞台に繰り広げられる
しっとり切ない大人のメンズラブ。
※以前外部URLで公開していたものを
掲載しなおしました。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
黄色い水仙を君に贈る
えんがわ
BL
──────────
「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」
「ああ、そうだな」
「っ……ばいばい……」
俺は……ただっ……
「うわああああああああ!」
君に愛して欲しかっただけなのに……
獣人ハ甘ヤカシ、甘ヤカサレル
希紫瑠音
BL
エメは街でパン屋を開いている。生地をこねる作業も、オーブンで焼いているときのにおいも大好きだ。
お客さんの笑顔を見るのも好きだ。おいしかったという言葉を聞くと幸せになる。
そんな彼には大切な人がいた。自分とは違う種族の年上の男性で、医者をしているライナーだ。
今だ番がいないのは自分のせいなのではないかと、彼から離れようとするが――。
エメがライナーのことでモダモダとしております。じれじれ・両想い・歳の差。
※は性的描写あり。*は※よりゆるめ。
<登場人物>
◇エメ
・20歳。小さなパン屋の店主。見た目は秋田犬。面倒見がよく、ライナーことが放っておけない
◇ライナー
・32歳。医者。祖父と共に獣人の国へ。エメが生まれてくるときに立ち合っている。
<その他>
◆ジェラール…虎。エメの幼馴染。いい奴
◆ニコラ…人の子。看護師さん
◆ギー…双子の兄
◆ルネ…双子の弟
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる