塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—春の景色—

透きとおった晴れの

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「私のゆく末など、すっかり託しきったつもりでいたのか、兄は夢枕に立つなどということもありませんでしたが、
いま、そちらをお渡し出来て、私も永い胸の関が降りた気がします……。
……兄を喪くして、私しか兄を想う、憶えているものはいないんじゃないかという暗示から、躍起になっていた部分があったのですが、
たとえ血の繋がりはなくとも、それを超えて、想いを結び続けて下さる方がいるのだと、
兄の手紙を受け取ったきわの高階さんのお顔を拝見して、それを、見定められた気がするんです……。
近ごろ、よくそういったことを考えるのです。たとえ、血のえにしを通わない、ひとと他人ひととであったとしても、繋がりあえるのだと……」

 向かいの漣に目を遣っていた楓は、その煌めきを頬半分に宿しながらも、はたと俺に向き直り、表情を改めた。

「お目にかかったばかりの身で、私と兄のことばかり、お話しして……。
高階さん、差し支えなければ……、…………奥様は?」

「……昨年の、暮れに。折りから、病と向き合っていまして。……ひと足先に、娘の許へ旅立ちました」

 楓の面輪は、息を詰めただけに留まらなかった。
 何かの想起が身のうちを巡って、それを落としこみきれないままに俺への返答を先立たせたような、そういった面持ちだった。
「……そう、でしたか……」

「ご心痛、察するに余りあります…………」

 言葉の通り、流した黒い前髪のわきに、悲壮な翳りの眉根を寄せていたが、やがて上向いたおもてのそこへ、波状のひかりが挿す。

「ですが、高階さんのことですから……。ご家族をただ深い悲しみのみの象徴としては、見送られていないのでしょうね……」
「……娘に関しては、正直にあまりにも無垢なまま、未来を見ずに生を閉じてしまったため、悔恨と、苦悶の根を断ち切ることは出来ません。……そこを何度も妻とぶつけ合って、ふたりの間にずっとともにいるのだと、約束を確認し合いました。
……妻は。そうですね、ひたすら耐え難い悲運ばかりに見舞われた、押しつけられた不遇をと、少しでも憐れみの目を向けるものなら、——確実に頬を張られます。それほど、自分の意思で立っていた女性ですから。
わかれは、どうしようもなく辛いです。だけど、そこで止めにはしたくない。
いつか、ふたりと向き合う時に見るのは、互いに笑顔なのだと、
それを、想像の夢にするつもりはなく、いま、こうしてここに立っています」

 ひかりの波間に浸されていても、楓が浮かべているものは、俺をも包みこむような微笑みであることが、滲むようにれた。

「…………お嬢様と、奥様のことを。 愛して、信じてらっしゃるのですね」

 落としこむように俯いたすえ、また私的なことを……、と付け加え、淡灰の着物の胸に掌を添えながら、そこにしまう何かをまた明かすかのように、彼女は唇を開いた。

「……わたくし、残念ながら主人との間に、子供を授かることが出来ませんでして。……主人と相談して、迎え入れることを決めたんです。
誰かを親として生まれてきた筈なのに、誰しもが当たり前に享受し得るべき情愛を、与えられない子供たちが沢山います。
生死を問わない何らかの離別や、……実親が罪を犯してしまった場合など。
生まれてきたことに、誤りがあったなんて、そんなこと、どんな子供にも当て嵌まってはいけません。
生まれてきたこと。兄だって、きっとそうであったし、私にだって、その意味があるのか、見つけたかったし、
あるんだと、に伝えたかった。
血縁が重んじられるこの国では、他児たじ養子の事例はほんの一部ですが、よく考えて、その"子"のことをひたむきに見つめて、見極めて決めました。
……両親が罪を犯して、もう養育の権利を得るのは難しいだろうという、こころをざしていた子です」

 これは本当に偶然で、名前を聞いて驚いたんです。
 呟きのように囁いて、楓は果てのしれないその空を仰いだ。

きとおった晴れと書いて、透晴すばるというんです。
きっと、両親がこめた願いのままに、その風景を繰り返し見ることが叶う子にしてあげたい。
まもなく七つになります。互いに、感情をありのままに見せるのが苦手で、よくぶつかり合っていますが、
生きることに不器用で、傷ついても、進んで行ける道はあるのだと、手をとって一緒に知っていきたい。
……控えめで、ひどく不器用だったかも知れないけど、その想いは透きとおって雄弁だった『伯父』がいたことも、少しずつ伝えていきたいです」

 高階さんにとって、その不器用な兄が、ご家族からほんの少しその『場所』を分けて貰って、
"繋がり"続けられる存在の、仲間入りが果たせたなら、と願うばかりです。

 空から視線をほどいて、なお刷けたように爽快に溶ける雲、抜けるように拡がる蒼空。
 そして優しい雨のように時折零れる桜のひとひらに包まれた楓の瞳が、俺をとらえた。

「貴方がこの地へ戻って来て下さったこと。みな、もが待ち希んで、願っていました。
お嬢様も、奥様も。 兄も。私も。まだ未ぬ方々も。
解き放たれたのに、この世界があまりにもひろすぎて、負われているものの、どんなにかおおきく苦しいものかと嘆かれますけど、
それだけは、どうか忘れないで頂きたいです」


 お身体を、何より御大事に。
 どうぞ永く、おこころ晴れやかに、お健やかに。
 貴方が還られたこの地が、きっと必然であることを。

 春の陽気。潔白さを失わずに拡がる蒼の幕。その清浄な空気に浸されるも種々に満ち満ちた外界の群。
 清廉と。混在と。だのにそこに薫る、昔しから変わらぬ深く優艶な香気がそれらを内奥する。
 その空気のなかに、楓の言葉が、音と、言の葉を失わずして、まさに傍らの白桃の花弁さながらに、静やかに降りて、はらり、と溶けた。

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