塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—春の景色—

とお香

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「……どうやって生けていけばいいのかと、考えました」

 俺たちの傍らで咲く桜は、まさに開宴の頂きに達し、
崩れる気配のない薄桃の天辺を翳していたが、その陰にはかすかにでも、散華の予感を内奥していて、
ときは、確実に歩みの兆しを、ひとから取り払うようなことはしようとしないのだ。

「兄を喪って、半身をもがれるばかりの空虚に陥りましたけど、そのまま、蹲っているのは、嫌でした……。
こいしい、苦しい。兄の人生は、何だったのか。
兄は、幸せだったのか。兄の、生きた意味とは……。
そういった想いに圧し潰れされそうでしたけど、その塞ぎを、兄のだとしてしまうのは、嫌だったんです。
ですから、兄でしたら、私にどうして欲しいのかと。……兄はずっと、自分のことは顧みず私には何の怖れもない『生きる』を前提に重ねていたようですから、それをどのように遂げていけば良いのかを、考えました」

 楓の瞳に浮かんでいた潤みひかりが、この清楚な桜の香で満たされた大気に、いつしか溶けて放たれているようだった。

「行き到くさきは、どうしても……。——自分の思うまま、希むままに。
重いしがらみがついては廻りますけど、兄のために、兄の分まで、ではない。きっとそれは、兄は『希んで』はいない。
ただ私の、私の好ましいや愛おしいと想うものに従って、それをただ大事に見つめて、生きていこうと決めたんです」

 兄の分も……ではないけど、もう兄も常に道連れに、というのは内緒です、という悪戯じみた微笑みも付け加えて。

「そしてこれは……。ある方から教えて頂いたことでもあります」

 そう言って俺を見上げて、また含みのある微笑を瞳に浮かべていたので、思わず問うような視線でただ返す。

「……小さな頃、兄が絵本を真摯に沢山読んで聴かせてくれたので、物語りや文章、『言葉』というものが、昔から好きでした。
高校卒業後は、特にこの国の……。古来からその地に根づいて、言の葉の文化が花開いた場所で、その息吹きやつくり、いにしえの想いというものにふれながら、もっと深く学びたいと思って、
兄も応援してくれましたし、その方面の学術の場へ、進むことが出来ました」

 見ているか。きっと、見ているな。
 お前を喪っても、打ち拉がれるままでなく、お前の大事な楓さんは、流石はお前のいもうとだな。
 前方に見渡すばかりだったそのひかりのなかに、怖れず自らの足で踏み入れることを、叶えたんだから。
 上向いた楓のはれやかな顔から、そのひかりの欠片が、こちらにも注がれてくるようだった。

「大学で学んだ後は、言葉の豊かさ、かけがえのなさを、まだ未ぬわかいひとたちに伝えたくて、国語の教員に就くことが出来ました。
子どもたちの間や、大学へも周ってみて……。
伝える区切りがついたかなと思った時、……昔、言葉やこころを表現するなんて知らなかったひとが、文字や音に託して、ひとにしか出来ない、こころを開け放つおまじないのようなものを、教わったことがありましたけど……。
その、『歌』というもので、今度は私も自分のこころを、素直にひも解いてみたいと思って……、」


「今は、『とお』という雅号にて、歌人を名乗らせて頂いています」


「……………。——……えっ、」

 楓は、素知らぬような表情かおを見せて、頬を春風の穏やかな薫りのなかへ吹かせている。

「えっ、あのう……。 ——夏八木、とお香先生ですか…………?」
「はい、夏八木とお香と申します」

 ご存知でしたか、というささやかな声音の裏で、糸のような憶えがやがてするすると降りてくるようで、混乱する俺は間の抜けた返事を返すばかりだった。

「ご存知も何も……、」

 初めてと彼女と会った時、告げられた名。夏八木。
 夏八木とお香といえば、現代短歌という小さな水辺のなかに、新星をおとし煌めきを散りばめるようにして現れた、現代の『歌聖』と謳われる存在だ。
 美しい、日本古来の言葉の巧みな使いもさることながら、歌に遠い若者たちのこころも掴む、率直で透明感のある口語の語りかけは、数多くの人たちの情感に落ちて、『歌』というものの洒落、近さを波紋のように拡げたといって相違ない。
 字の余りも足らずも、その想念の解放のため寸分の隙なく用意されたかのような、こころを結晶にして閉じ込めたような歌は、万能でありながら誰よりも身近で、
添われて胸を振り返り、仰げばまた違う景色が見えるような、無二で無双の、稀少な瞬間かけらを切りとり続けるまさに輝石なのだ。

 凄いなあ。こんな歌が詠めたらなあと、新聞や歌界の書籍のみならず、メディアでも目にするたび憧れて、
そういえば、憧れのあまり何度か、とお香が選評を務める公募に恥ずかしげもなく名も伏せないで、房内から応募したことがあると、気まずい記憶を手繰ってそっとその目をうかがったら、
「うふふ」和服の清楚な女性ひとは柔和に笑んで、

「……お饅頭の、『もみじ可愛かわい』。
紅葉のような形をちいさなの手になぞらえて、食べるのを躊躇する、というお歌は、大変あたたかでこころ豊かなものでした」
「ああああ……、」
「ですが、私も歌に関しては妥協を許したくなく、中々ご縁を繋げることが出来なくて、……申し訳ありません」
「いえ、もう、そんな……、」

 だけど、送って頂いたのが嬉しくて、直のお手紙はいまも大事にとってあるんです。
 時折開いて、兄と一緒に見るように……という楓の囁きは、恥ずかしさの余り吹き飛ばしてしまいたいほどだった。
 どこかで、吹き出すようにさえずって春の鳥の飛び立ちの音が響いた。

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