塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—春の景色—

ほの見えたにくしみ

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 もう、解放の未来さきが見えない鉄格子を掴むままの塀のうちであっても、
枷が外され、この大地に足を着けることを赦された鮮やかなひかり溢れる外であっても、
過去後ろを惜しむような涙は、流したくないと思っていた。

 だが、彼が旅立ったときのひかり、それを見守っていたひとたちのこころは、
いま、この時ついに知った、俺の卑小な"惜しむ"をはるかに超える、あまりにも尊くまばゆいもので、
そこへ傍らに、こんもりと重量のある質感で咲き誇る、華を極めて幾ひらの花弁を散らす、薄桃の花の大樹が掠めていて、
浅はかな滴りが眼の縁から、どうしようもなくいつしか滑り降りてゆく。
 惜しむもまばゆいもなく、ただ、ひとつだけの希みねがいから。

 会いたかった。
 いま一度。もう一度、彼に。

 ただ、あいたかった。


「——高階朔さん」

 俺を、ずっと以前から知っていたような、制服姿の聖女をとめから和服を纏う淑女おんなへと姿を遂げた、
楓の唇と伏せた瞳から、今際までの天川の辿ったみちをついに明かされた俺へ、あらためてその存在ひととして呼称し、見定めようとする一筋のひそやかな念が向けられる。

「…………はい」

「兄のことを…………。兄の、"人生"をといいますか……。……どうお思いですか」
「……」

「憐れな、ひたすら儚い……。もしくは、ひかりや生に向けての道程を鎖ざした、極めて脆弱な……。
……ご自身に寄せられていたものがあったのです。はなはだ憐憫の情を誘う、象徴のような存在、だったのではないですか……」

 まだ、俺は黙っていた。
 どんな抗いのひと欠片をのどに呑みこんでいたとしても。
 たとえ彼女が、彼女しか得られない天川の軌跡を残してくれたのだとしても、彼の大事な、肉親いもうとであったとしても。
 俺と天川かれの間にあるものは、誰にも渡すつもりはなかったし、——きっと俺だけが終生理解して知っている彼の黒い澱みも、存在している筈だったからだ。

わたくし、それだけは……。高階さん、せめて貴方には……。
貴方には、兄をそんな風に、非業の結晶として生涯の記憶に閉じこめられてしまうというのは………、」

 ずっとおくに燻らせ続けていたのだと見える、濃度の満ちた鬼火にも似る昏いひかりが、楓の瞳に揺らめき、初めてのいろをして俺そのものを捕らえた。


「どうにも、我慢ならないのです」

 それは、一種の『にくしみ』以外に外ならなかった。


「兄は、赦されない罪を確かに犯しました。自分の私念から、実の父と母を手に掛け、更生に生涯を捧げること、そして生まれ落ちたこの地で生き抜くことを、 放棄したこと……。
それが、この世界しゃかいに生ける者として、一番の罪であったと思うのです。
父の指を解けなかったこと。ひとの道を外れたに染まってしまったこと。
身のうちに溢れた災厄を撒いて、あろう事か己れの生命を以て、その罪禍も自分自身をも幕をひいて、散って仕舞った…………。——……過ちだらけの、生涯じんせいでした」
「……」

「……だけれど、それは。 それは、そんなに、ことなのでしょうか、」
「……、」

「怖ろしい罪禍であるのは、誰もが周知です。けれど、兄がこの社会で、を覚えていたのは、哀しいことに事実でした。……父の撒いた種から生じたのかも知れませんが。
兄という芽吹いた『芽』には、この眩しく、きよらかな混沌に溢れているこの世の中に根を張ることが、本当は苦痛で、きっと怖ろしかったのだと思うのです。
……誰だってそうです。この世に生まれ着いたからには、そこで生き延びることが義務ともいえます。
では何が何でも、がむしゃらに、正しく、強く、清く、ひかり溢れる方向を目指していかなければならないのでしょうか。
それはそうでしょう。そこまで追い詰められなくても、この世には自然に、素晴らしいものが沢山溢れています。
ひととの繋がり、温かさ……。生きているだけで、万物、全方向に、歓びや可能性、愉しみが砂のように敷き詰められている。
思いを巡らせば、そう、"ただ呼吸をする"だけで、この身の器官に清浄な『そと』の空気が満たされた感覚を知るだけで、
それだけであらゆる可能性を手に入れ前に進めるちからが生まれるんです。

"生きていれば"。
……知っています。そんなことは当然、兄だっていたんです。
では、その可能性を棄ててしまう、弱さ、醜さ、その時に乗り越えられなかったどうしようもない"苦しみ"というのは、そんなに、"認められない"ものなんでしょうか……!?」

 楓の瞳に宿っていた昏いひかりが、いつしか生きた質量を帯びた、しろく悲しい潤みで迫り上がってふるえる。

「認められない……、そうですね。兄の犯した罪によって、兄ばかりでなく、私へもあらゆる岐路で『認められない』現実を突きつけられました。
兄と同じ血を引いているだけで、私も、父母も、その身にどす黒い浄化不能なものが流れているという眼で捉えられてきました。——身内からでさえも。
でも、そんなことはどうだって良いんです。兄の抱えていた苦しみや恐怖に比べたら。
何も知らない私を、いつもひかりのなかに優しく押し出して、照らしてそれがずっと続くのを願ってくれていたのだから。
私の受けた傷みだなんて、どうだって良いんです。兄に比べたら、さしたる障りなんてないに等しい、とるに足らないものなんです!

そんなことより兄が抱えていた生きづらさ、兄を巣喰っていた黒い澱み、
兄が、兄が生きている時に、当たり前に振り撒いてくれた優しさ、恥じらうように生きていたすべての証し、
…………誰かへの想い、というのは……。
全部、全部脱落者の烙印を押される、無駄で切り棄てられるものだったのでしょうか……っ!」

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