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—この世のきれい—
世界に、私とそのひとの間に
しおりを挟む香の薫りがつよく差してきたのは、束の間で、その空間に身体ごと瞬時に浸かってしまったからなのか、慣れるように直ぐ忘れました。
無風である筈なのに、あの煙が時折揺蕩うように振れさまようのは、何故なのか。
燃焼には、酸素が必要であるから、ひとの呼気を、精命を、だれかがもとめて、愛しんで、せめてその名残りを唇に掬いとるために、浮遊している証なのではないだろうか。
それだから、その室自体、一目で霞のような膜に蔽われている、という視覚を得たのですが、
そこだけ、何ものにも纏われていない無色の空洞のような謐けさが沈んでいたので、
ああ、あんなところに寝ているのかと、直ぐ判ったのです。
枕飾りの台に、黒蜜のような潤沢を放つ香炉が置かれ、紫の華奢な棒からほそく濃やかな紫煙が、真っ直ぐ天へ向かってたなびいている。
それは、やはりそのひとを包もうとはしない。
やっと直の兄に会えると聞いたから、何年かぶりだろう。澱んで無数の傷の入った邪魔な障壁が遂に払われた状態で、
私とこのひととの間にあるものは、何もない。空気だけ。
でもまだその無数に拡がる酸素やら、甘ったるい香の練りこまれた粒子やらが存在するのかと気づくと、ああ、邪魔だなあと、
世界に、私とこのひとだけが存在すれば良いのにと、
思いながらも、ああ、やっぱりこんな皆んながいるところで寝ているのかと、
そう覚えるほど、覗きこんだそのひとの姿は、とても自然な状態でした。
銀とも映える艶を帯びた純白、絹を思わせる布地に、これは芙蓉か。唐草、波などの流麗な絵様が施された櫃の枕許、小窓が開いていて、
沢山の花々にその貌を囲まれて、そんなところで、兄は眠っていました。
白の大百合、菊。合わせたように濃淡を揃えた紫の蘭、カーネーション。
吸いこめば、咽るほどの甘やかな薫りの因は、敷き詰められたこれらにもあるのだなと察しました。
眠っている。起きるかなと思って、私が来たのだからと、
眉に掛かった前髪を上げてあげたら、何もしなくても涼しく透かれている、ここも綺麗なんだなと知った兄の額と眉間がうぶに覗きました。
頬に、ふれる。
包むまではない、たどるような指で。でも、 まだ温かった。
頸は、白い包帯が覆って巻かれていたけれど、何か傷を負っているのかとは、判らないほど綺麗に整えられていました。
耳の下に、つつしみの証拠であるような兄の黒子が、変わらずひっそりとした表情で浮かべられている。
少し手を伸ばして、兄の胸許に指をふれました。
服の上からでも、やっぱり温かみが返ってくる。
やめろよと、そろそろ言われそうで、でも兄の温度を確かめられて安堵したので、櫃から手を退きました。 ——起きない。
本当に、見ればただ眠っているだけの状態です。
けれど、この残存している貌というものは、どんな小さな児であっても、刹那に悟りいたる厳然とした事実だと思うのです。
当たり前のように、それこそ身体のなかを巡る血液のように享受していた『生』という漲り、躍動。
それがあるかないのか、たったそれだけで、その貌というものとの間に何の阻みはないのに、全く違う次元、階層に在るものだと、
もはや歪みを起して収拾のきかない、回帰不能の断層のような、分離。
そういえば、ふれた皮膚から当然生じる柔らかな弾み、胸からは、証である筈の鼓動が、どんなにか閑かなものでも、待っていて返ってはこなかった。
諦めたように、兄を顧みる。
また、 "この"貌なのか。
私は、またこの貌を、見なければならないのか。
あなたも、この貌をして 私を置いていくの。
再び、兄にふれたようとしたこの掌を、兄の真似をして、私も透明なふりをして、
透明な掌を兄に掲げて、透明になった兄のこころに潜るようにして、問いかける。
お兄ちゃん。
桜、見なかったの?
あんなに 昨日、
そのひとと見るって、 楽しみにしてたのに。
どんなのだったのか。桜を見て、どんな歌を、詠んだのか。
歌だけじゃなくて、少しくらいは、
そのひとと進展あったのかって、聞こうと思ってたのに。
見なかったの?
桜、 見れなかったの…………。
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