塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

文字の大きさ
上 下
73 / 97
—この世のきれい—

世界に、私とそのひとの間に

しおりを挟む
 

 香の薫りがつよく差してきたのは、束の間で、その空間に身体ごと瞬時に浸かってしまったからなのか、慣れるように直ぐ忘れました。
 無風である筈なのに、あの煙が時折揺蕩うように振れさまようのは、何故なのか。
 燃焼には、酸素が必要であるから、ひとの呼気を、精命いのちを、だれかがもとめて、いとしんで、せめてその名残りを唇に掬いとるために、浮遊している証なのではないだろうか。
 それだから、そのへや自体、一目で霞のような膜におおわれている、という視覚を得たのですが、
そこだけ、何ものにも纏われていない無色の空洞のようなしづけさが沈んでいたので、
ああ、あんなところに寝ているのかと、直ぐ判ったのです。

 枕飾りの台に、黒蜜のような潤沢を放つ香炉が置かれ、紫の華奢な棒からほそくこまやかな紫煙が、真っ直ぐ天へ向かってたなびいている。
 それは、やはりそのひとを包もうとはしない。

 やっとじかの兄に会えると聞いたから、何年かぶりだろう。澱んで無数の傷の入った邪魔な障壁が遂に払われた状態で、
私とこのひととの間にあるものは、何もない。空気だけ。
 でもまだその無数に拡がる酸素やら、甘ったるい香の練りこまれた粒子やらが存在するのかと気づくと、ああ、邪魔だなあと、
世界に、私とこのひとだけが存在すれば良いのにと、
思いながらも、ああ、やっぱりこんな皆んながいるところで寝ているのかと、
そう覚えるほど、覗きこんだそのひとの姿は、とても自然な状態でした。

 銀とも映える艶を帯びた純白、絹を思わせる布地に、これは芙蓉か。唐草、波などの流麗な絵様が施されたひつの枕許、小窓が開いていて、
沢山の花々にその貌を囲まれて、そんなところで、兄は眠っていました。

 白の大百合、菊。合わせたように濃淡を揃えた紫の蘭、カーネーション。
 吸いこめば、むせるほどの甘やかな薫りのもとは、敷き詰められたこれらにもあるのだなと察しました。
 眠っている。起きるかなと思って、私が来たのだからと、
眉に掛かった前髪を上げてあげたら、何もしなくても涼しく透かれている、ここも綺麗なんだなと知った兄の額と眉間がうぶに覗きました。

 頬に、ふれる。
 包むまではない、たどるような指で。でも、 まだ温かった。
 くびは、白い包帯が覆って巻かれていたけれど、何か傷を負っているのかとは、判らないほど綺麗に整えられていました。
 耳の下に、つつしみの証拠であるような兄の黒子が、変わらずひっそりとした表情で浮かべられている。
 少し手を伸ばして、兄の胸許に指をふれました。
 服の上からでも、やっぱり温かみが返ってくる。
 やめろよと、そろそろ言われそうで、でも兄の温度を確かめられて安堵したので、櫃から手を退きました。 ——起きない。

 本当に、見ればただ眠っているだけの状態です。
 けれど、このしている貌というものは、どんな小さなであっても、刹那に悟りいたる厳然とした事実だと思うのです。
 当たり前のように、それこそ身体のなかを巡る血液みずのように享受していた『生』という漲り、躍動。
 それがあるかないのか、たったそれだけで、その貌というものとの間に何の阻みはないのに、全く違う次元、階層に在るものだと、
もはやひずみを起して収拾のきかない、回帰不能の断層のような、分離。
 そういえば、ふれた皮膚から当然生じる柔らかな弾み、胸からは、証である筈の鼓動が、どんなにか閑かなものでも、待っていて返ってはこなかった。

 諦めたように、兄を顧みる。
 また、 "この"貌なのか。
 私は、またこの貌を、見なければならないのか。

 あなたも、この貌をして 私を置いていくの。

 再び、兄にふれたようとしたこの掌を、兄の真似をして、私も透明なふりをして、
透明な掌を兄に掲げて、透明になった兄のこころにはいるようにして、問いかける。


 お兄ちゃん。

 桜、見なかったの?

 あんなに 昨日、
そのひとと見るって、 楽しみにしてたのに。

 どんなのだったのか。それを見て、どんな歌を、詠んだのか。
歌だけじゃなくて、少しくらいは、

そのひとと進展あったのかって、聞こうと思ってたのに。

 見なかったの?

 桜、 見れなかったの…………。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

年越しチン玉蕎麦!!

ミクリ21
BL
チン玉……もちろん、ナニのことです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

仕事ができる子は騎乗位も上手い

冲令子
BL
うっかりマッチングしてしまった会社の先輩後輩が、付き合うまでの話です。 後輩×先輩。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

ヤンキーDKの献身

ナムラケイ
BL
スパダリ高校生×こじらせ公務員のBLです。 ケンカ上等、金髪ヤンキー高校生の三沢空乃は、築51年のオンボロアパートで一人暮らしを始めることに。隣人の近間行人は、お堅い公務員かと思いきや、夜な夜な違う男と寝ているビッチ系ネコで…。 性描写があるものには、タイトルに★をつけています。 行人の兄が主人公の「戦闘機乗りの劣情」(完結済み)も掲載しています。

泣き虫な俺と泣かせたいお前

ことわ子
BL
大学生の八次直生(やつぎすなお)と伊場凛乃介(いばりんのすけ)は幼馴染で腐れ縁。 アパートも隣同士で同じ大学に通っている。 直生にはある秘密があり、嫌々ながらも凛乃介を頼る日々を送っていた。 そんなある日、直生は凛乃介のある現場に遭遇する。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

怯える猫は威嚇が過ぎる

涼暮つき
BL
柴嵜暁人(しばさきあきひと)は あることがきっかけで以前勤めていた会社を辞め 現在の職場に転職した。 新しい職場で以前の職場の人間とは毛色の違う 上司の葉山龍平(はやまりゅうへい)と出会う。 なにかと自分を気に掛けてくれる葉山や 先輩の竹内のことを信頼しはじめるが、 以前の職場で上司にされたあることを 今の職場の人間に知られたくなくて 打ち解けることを拒む。 それでも変わらず気に掛けてくれる葉山を意識するようになる。 もう誰も好きにならない そう決めたはずなのに。 好きになってはいけない──。 ノンケの葉山に対して次第に膨らんでいく気持ちに戸惑い 葉山と距離をおこうとするが──? ホテルを舞台に繰り広げられる しっとり切ない大人のメンズラブ。 ※以前外部URLで公開していたものを  掲載しなおしました。

処理中です...