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—彼の伏せた横顔—
闇色の繭 俺の世界が奪われるなら
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「……衝立の陰から見えた兄は、私にその眼を、一度も向けませんでした。
検察側の厳しい追及を浴びながらも、弁護士は最後まで、兄の弁護、社会へ兄への信頼を強く乞い、尽くしてくれました。
それでも危うい均衡を呑みこんだまま、すべての弁論を終えて、兄の最終陳述を迎えました。
最終陳述は、それまで沈黙や受動、裁判に非協力的だった兄の、兄個人の思いを、質問に遮られず存分に発言することが許される、最後で唯一の機会です。
私も、その場に出廷していました。私の訴えをいくら兄が顧みなくても、もう構いませんでした。
だって、結局のところ、私は解っていませんでしたから。兄の『闇』を。
兄がもう自暴自棄になっているのなら、自分のためではなく、私のために生きるちからを拓いて欲しいと、そう訴えたつもりでしたが、それは、やはりきっと、的外れだったのです。
……法廷で最後に聞いた、ついに明かした兄の言葉から、伝わりました。
どんなに目を凝らしても、手を伸ばしても遠く、兄がその奥に被せ続けていた暗闇のなかのこころが知りたくて、その場にいました」
法廷が見える。見据えるは裁判官。四方には俺を審らかに射そうとする無数のひとの目と、忘れてはならない、まだ俺に信頼と祈りを寄せてくれている、大切なひとたちがいる。
だけど、それがいつしか静寂から無音へといろを変えてひいていき、証言台に立つ俺だけが浮かび上がっていく感覚に浸される。
すべての罪禍を曝けだされ、残るのは、俺ひとりのみ。
相対するのは、俺の罪と、俺というどうしても曲がらない犯した俺のこころ。
それを、誰へでもなく俺自身に向けて、胸のうちからいつしか発露していた。
透。その光景のなかに、お前も立っていたんだな。
証言台に召し出された兄は、手に先生から託されたと見られる原稿を携えていました。
壇上に登り、それを僅かに掌のなかで顧みたのですが、すぐにその腕を、地上から取り零すように紙ごと振り降ろし、
もうその眼のなかに、おさまることはありませんでした。
『……俺のしたことで、経済や社会的な損失、俺と係わりを持っているがため、耐えがたい災厄や苦しみをもたらして仕舞ったことについては、謝ります。……謝って済むものじゃない。
俺の差し出せるもの、生命も身体も、寸分も惜しむもの、惜しめる価値のものはありませんので、それを以てすべてを償います。…………それで、終わりにして欲しい。
……皆んなが俺を社会に還らせるため、こんな俺でも、まだ繋がりを信じて結びつけてくれようとしているひとたちがいるのは、知っています。
……けれど、俺にそうする価値は一切なく、その手を、その光を、どうか俺から棄てて手放してくれることを希むのを、今、伝えたい。
俺にとっての世界は、黒い繭でした。
温かくて、闇くて埃くさくて、湿っていて、でも、 どうしようもなく気持ちが悦い。
だけれど、それは世のなかの摂理とは、……どうやら違うらしい。
世間って何ですか。社会って何ですか。繋がりって、何ですか。
生きていくためには、それらを掻い潜って、俺の抱える闇を亡きものとして、穢い呪われものだと封をして、いづれそこから這って、引き摺り出されることを示唆している。
俺には、それがひどく、とっても苦痛なんです。
……こんなことを言うと、その繭を用意した人間が諸悪だとかいう矢が飛んでくるんだけど、
それは、そのまま俺の動脈に突き刺さります。
確かに、それが芽生えや要因の一部ではあるかも知れないけど、——だけど親父は、別に俺を 縛ってはいなかった。
外の世界だって、見せてくれました。事実、俺も知っていました。
眩しいな、綺麗だなと想って見ていた。愉しいだろうなあ。しあわせって、ああいうものなんだろうなあと。
あまりにも外の世界があたたかできらきらしているから、不安もあった。このままで良いのかと。
だから薄暗い書斎のなかで、親父の椅子で、いつものように親父を胎で狭く揺すりながら、訊いたんです。そうしたら、
『透は何処へでも、思うがままに、自由に生きて良いんだよ。だけど、よく憶えていてご覧。
もし、お前が苦しくて、お前の喉に誰も舌を届けてやれなくて、お前の奥が、埋ずまらなくて渇きに堪えられないのなら、
いつでもここに還っておいで。
父さんはいつまでも、 お前のことを愛しているんだから』。
確かに外の世界は美しい。でも、何か違うし、圧倒的に濁って覆い隠してくれる、幕が足りない。
だから俺は還った。俺が潜りこんだんです。そしていつも、とても安堵した。
ああ悦かった。俺には、この黒い繭が在る。
別に皆んな、死にものぐるいで生きてるのは知ってます。
俺が特別底辺でも高尚でもない。
ただ、俺がこの"世界"で生きていくためには、棄てられたへどろみたいにどうにも混じり合えなくて、浮上が不可能なくらい、薄弱なんだ。
俺の世界が奪われるなら、何だって許せなかったんです。
たとえそれが誰であっても、……綺麗な世界で大事に生きてるものでも。
俺の世界が奪われるなら、奪うなら、そいつは完全に消えて仕舞って良かったんだ。
きっとそれは、いつか必ず起きる必然なんだ。
そして消えて仕舞っていいの筆頭に、当然俺自身も含まれている』
検察側の厳しい追及を浴びながらも、弁護士は最後まで、兄の弁護、社会へ兄への信頼を強く乞い、尽くしてくれました。
それでも危うい均衡を呑みこんだまま、すべての弁論を終えて、兄の最終陳述を迎えました。
最終陳述は、それまで沈黙や受動、裁判に非協力的だった兄の、兄個人の思いを、質問に遮られず存分に発言することが許される、最後で唯一の機会です。
私も、その場に出廷していました。私の訴えをいくら兄が顧みなくても、もう構いませんでした。
だって、結局のところ、私は解っていませんでしたから。兄の『闇』を。
兄がもう自暴自棄になっているのなら、自分のためではなく、私のために生きるちからを拓いて欲しいと、そう訴えたつもりでしたが、それは、やはりきっと、的外れだったのです。
……法廷で最後に聞いた、ついに明かした兄の言葉から、伝わりました。
どんなに目を凝らしても、手を伸ばしても遠く、兄がその奥に被せ続けていた暗闇のなかのこころが知りたくて、その場にいました」
法廷が見える。見据えるは裁判官。四方には俺を審らかに射そうとする無数のひとの目と、忘れてはならない、まだ俺に信頼と祈りを寄せてくれている、大切なひとたちがいる。
だけど、それがいつしか静寂から無音へといろを変えてひいていき、証言台に立つ俺だけが浮かび上がっていく感覚に浸される。
すべての罪禍を曝けだされ、残るのは、俺ひとりのみ。
相対するのは、俺の罪と、俺というどうしても曲がらない犯した俺のこころ。
それを、誰へでもなく俺自身に向けて、胸のうちからいつしか発露していた。
透。その光景のなかに、お前も立っていたんだな。
証言台に召し出された兄は、手に先生から託されたと見られる原稿を携えていました。
壇上に登り、それを僅かに掌のなかで顧みたのですが、すぐにその腕を、地上から取り零すように紙ごと振り降ろし、
もうその眼のなかに、おさまることはありませんでした。
『……俺のしたことで、経済や社会的な損失、俺と係わりを持っているがため、耐えがたい災厄や苦しみをもたらして仕舞ったことについては、謝ります。……謝って済むものじゃない。
俺の差し出せるもの、生命も身体も、寸分も惜しむもの、惜しめる価値のものはありませんので、それを以てすべてを償います。…………それで、終わりにして欲しい。
……皆んなが俺を社会に還らせるため、こんな俺でも、まだ繋がりを信じて結びつけてくれようとしているひとたちがいるのは、知っています。
……けれど、俺にそうする価値は一切なく、その手を、その光を、どうか俺から棄てて手放してくれることを希むのを、今、伝えたい。
俺にとっての世界は、黒い繭でした。
温かくて、闇くて埃くさくて、湿っていて、でも、 どうしようもなく気持ちが悦い。
だけれど、それは世のなかの摂理とは、……どうやら違うらしい。
世間って何ですか。社会って何ですか。繋がりって、何ですか。
生きていくためには、それらを掻い潜って、俺の抱える闇を亡きものとして、穢い呪われものだと封をして、いづれそこから這って、引き摺り出されることを示唆している。
俺には、それがひどく、とっても苦痛なんです。
……こんなことを言うと、その繭を用意した人間が諸悪だとかいう矢が飛んでくるんだけど、
それは、そのまま俺の動脈に突き刺さります。
確かに、それが芽生えや要因の一部ではあるかも知れないけど、——だけど親父は、別に俺を 縛ってはいなかった。
外の世界だって、見せてくれました。事実、俺も知っていました。
眩しいな、綺麗だなと想って見ていた。愉しいだろうなあ。しあわせって、ああいうものなんだろうなあと。
あまりにも外の世界があたたかできらきらしているから、不安もあった。このままで良いのかと。
だから薄暗い書斎のなかで、親父の椅子で、いつものように親父を胎で狭く揺すりながら、訊いたんです。そうしたら、
『透は何処へでも、思うがままに、自由に生きて良いんだよ。だけど、よく憶えていてご覧。
もし、お前が苦しくて、お前の喉に誰も舌を届けてやれなくて、お前の奥が、埋ずまらなくて渇きに堪えられないのなら、
いつでもここに還っておいで。
父さんはいつまでも、 お前のことを愛しているんだから』。
確かに外の世界は美しい。でも、何か違うし、圧倒的に濁って覆い隠してくれる、幕が足りない。
だから俺は還った。俺が潜りこんだんです。そしていつも、とても安堵した。
ああ悦かった。俺には、この黒い繭が在る。
別に皆んな、死にものぐるいで生きてるのは知ってます。
俺が特別底辺でも高尚でもない。
ただ、俺がこの"世界"で生きていくためには、棄てられたへどろみたいにどうにも混じり合えなくて、浮上が不可能なくらい、薄弱なんだ。
俺の世界が奪われるなら、何だって許せなかったんです。
たとえそれが誰であっても、……綺麗な世界で大事に生きてるものでも。
俺の世界が奪われるなら、奪うなら、そいつは完全に消えて仕舞って良かったんだ。
きっとそれは、いつか必ず起きる必然なんだ。
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