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—彼の伏せた横顔—
研がれる兄
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「悲しかったです。……正直、父の兄への愛の深さ、兄を見ていた優しい眼差し、だけどそれだけには留まらないその奥に沈む複雑な澱みを思ったら、解らなくは、なかったのです……。
そしてそれを静かに受け止める、兄の伏せた瞳と控えめに緩む口許……。
もともとは、愛情しか、なかったと思うのです。
父も、兄も、母も。 憎しみからは生まれていなかった。
だけどそれがいつしか、捻れて、癒着して、露わになって、憎悪の塊りになり、
互いをばらばらに引き裂いて、噴き出した情念にまみれた姿で横たわっている……。
怖ろしいことです。父と息子が、ゆるされないかたちで睦みあって、母は父に愛憎をぶつけ、兄は母に憎悪をぶつけ、そして最後には、兄自らの手で、全てをお仕舞いにしてしまった……。
世間から見たら、なんと悍ましい姿であることでしょう。
その蓋をしていた闇が、公と、公正の法廷の場でひかりの下に曝されて、私の家族が、嫌悪と糾弾の目を浴びることは、確かに苦しいものでした。
けれども、他者から得るそれより、
父と、母と、兄が、本当は、互いを深く愛していた筈なのに、愛し過ぎたがゆえ、
それを埋め尽くす激情にこころを毀され、目の前の生命を奪うことまでに目が眩み、
こんなかたちで終わりを迎えて仕舞ったことが、 私は何より、悲しかった。
そして、そのなかに、私は立ってさえもいなくて、白日の下、兄はひとりで"私たち"の闇と罪の審判を受けて、私はそこからも外されていて、
そして何一つ、最も近い場所で兄や両親の息遣いを感じていた筈なのに、その『生身』の感情を、解ってもいなかった」
喩えば、ひとの道理を著しく外れた罪を聞いて、俺でも疑わずに厭悪を抱くような事件がある。
だが、端から見れば忌まわしさと誹謗の芽しか生まない所業でも、その直ぐ傍に立つ者が抱えている感情とは、このように哀しみを押しころした懊悩であるのかも知れない。
俺も、娘が喪われたとはいえ、救命を職務とする者が無抵抗な人間の生命を獲る"まで"するのかと、浴びるほどに貶められた。
そして今、楓の悲嘆を聞いて、天川や彼女に覚えるのはあさましさや厭わしさなどではなく、
最早取り返しのきかない、 沈むような惜しみとやるせなさだけだった。
「……裁判は、私たちには難航というかたちで進んでいきました。主な争点は兄の刑事責任能力と明確な殺意の有無……。
弁護士は、兄が幼少期から父に偏執的な情操を注がれ、健全な心身の喪失を訴えましたが、そこを、立証するのが難しかった……。
兄は社会通念上、外れた生活はしておらず異性との交遊関係もある。父は『保護者』としての責を成しており、内外ともに、『虐待』の痕跡は見られませんでした……。
父は、程度の差はあれ、溺れるような愛情を、なんらの他意はなく、兄の心身に零れることのないよう注ぎこんでいた、だけだったのです……。
……よって、兄の責任能力は完全にあり、顕然な殺意を以って凶行に及んでいる。
事件自体も、完全に『家庭』という密室で行われていて、断定した事実を提示することが、とても難しいものでした。
その場に唯一いた兄の証言によるものが大きくとも、母がどれほど兄の人格を否定した言葉を吐いたかは最早言質は取れず、父の兄に対する言動は、兄の"虚言"とも取れるとの指摘もありました。
そして兄は、先生の助言を翻し、自身の弁明の場で度々黙秘を通しました。
黙秘は両刃の剣です。沈黙は審理での心証を悪くし、兄はその刃を、自分の喉許にのみ当てているようでした。……まるで、どこか誰も手が届かないところへ、自ら希んで行こうとしているかのように…………」
「…………」
「このままでは、兄は重い刑罰を受けてしまうかも知れない。先生の表情は重苦しいものでした。
私は、兄に会いに行くことを決めました。……先生からは、兄は私の面会を一切拒否していることを伝えられていました。
……それもあるけれど、私も兄に会いに行くことは、正直に、怖かった。怖ろしい過ちを犯したひとになってしまった、というのもあるかも知れないけど、 嫌われている、と思ったのです。
今も、これまでも、私一人でぬくぬくと、何の罪も闇からも拭い払われて、こちら側で過ごしている。
父と母が喪われた、奪われた、というのも勿論重大だけど、色々と巨きなものが押し寄せすぎていて、でも私には、今生きている兄のことが、やはりとても大事でした。
体は元気にしていると伝え聞いていたけれど、先生も、『君のことを疎んじている訳じゃない。君のことを大事に想っているからこそ、顔向け出来ない、という負い目が強いんだ。
君の顔を見て、前向きに闘おう、ここに戻って来ようという気持ちになれるんじゃないかな』と賛成してくれました。『……もっと、僕たちを信じてくれたら良いんだけど』とも」
「……」
「先生の繰り返しの後押しがあって、兄は私の面会を承諾してくれました。……当時は少年刑務所に収監されていて、付き添ってくれた先生たちには外して貰って、私一人で、面会室で兄を待ちました」
楓の瞳を通して、朧げだった天川の姿が俺の目の前にも現れてくるような気がして、俺もそれを待った。
「数ヶ月ぶりに会った兄は……」
兄は、ひどく研がれた表情をしていました。
そしてそれを静かに受け止める、兄の伏せた瞳と控えめに緩む口許……。
もともとは、愛情しか、なかったと思うのです。
父も、兄も、母も。 憎しみからは生まれていなかった。
だけどそれがいつしか、捻れて、癒着して、露わになって、憎悪の塊りになり、
互いをばらばらに引き裂いて、噴き出した情念にまみれた姿で横たわっている……。
怖ろしいことです。父と息子が、ゆるされないかたちで睦みあって、母は父に愛憎をぶつけ、兄は母に憎悪をぶつけ、そして最後には、兄自らの手で、全てをお仕舞いにしてしまった……。
世間から見たら、なんと悍ましい姿であることでしょう。
その蓋をしていた闇が、公と、公正の法廷の場でひかりの下に曝されて、私の家族が、嫌悪と糾弾の目を浴びることは、確かに苦しいものでした。
けれども、他者から得るそれより、
父と、母と、兄が、本当は、互いを深く愛していた筈なのに、愛し過ぎたがゆえ、
それを埋め尽くす激情にこころを毀され、目の前の生命を奪うことまでに目が眩み、
こんなかたちで終わりを迎えて仕舞ったことが、 私は何より、悲しかった。
そして、そのなかに、私は立ってさえもいなくて、白日の下、兄はひとりで"私たち"の闇と罪の審判を受けて、私はそこからも外されていて、
そして何一つ、最も近い場所で兄や両親の息遣いを感じていた筈なのに、その『生身』の感情を、解ってもいなかった」
喩えば、ひとの道理を著しく外れた罪を聞いて、俺でも疑わずに厭悪を抱くような事件がある。
だが、端から見れば忌まわしさと誹謗の芽しか生まない所業でも、その直ぐ傍に立つ者が抱えている感情とは、このように哀しみを押しころした懊悩であるのかも知れない。
俺も、娘が喪われたとはいえ、救命を職務とする者が無抵抗な人間の生命を獲る"まで"するのかと、浴びるほどに貶められた。
そして今、楓の悲嘆を聞いて、天川や彼女に覚えるのはあさましさや厭わしさなどではなく、
最早取り返しのきかない、 沈むような惜しみとやるせなさだけだった。
「……裁判は、私たちには難航というかたちで進んでいきました。主な争点は兄の刑事責任能力と明確な殺意の有無……。
弁護士は、兄が幼少期から父に偏執的な情操を注がれ、健全な心身の喪失を訴えましたが、そこを、立証するのが難しかった……。
兄は社会通念上、外れた生活はしておらず異性との交遊関係もある。父は『保護者』としての責を成しており、内外ともに、『虐待』の痕跡は見られませんでした……。
父は、程度の差はあれ、溺れるような愛情を、なんらの他意はなく、兄の心身に零れることのないよう注ぎこんでいた、だけだったのです……。
……よって、兄の責任能力は完全にあり、顕然な殺意を以って凶行に及んでいる。
事件自体も、完全に『家庭』という密室で行われていて、断定した事実を提示することが、とても難しいものでした。
その場に唯一いた兄の証言によるものが大きくとも、母がどれほど兄の人格を否定した言葉を吐いたかは最早言質は取れず、父の兄に対する言動は、兄の"虚言"とも取れるとの指摘もありました。
そして兄は、先生の助言を翻し、自身の弁明の場で度々黙秘を通しました。
黙秘は両刃の剣です。沈黙は審理での心証を悪くし、兄はその刃を、自分の喉許にのみ当てているようでした。……まるで、どこか誰も手が届かないところへ、自ら希んで行こうとしているかのように…………」
「…………」
「このままでは、兄は重い刑罰を受けてしまうかも知れない。先生の表情は重苦しいものでした。
私は、兄に会いに行くことを決めました。……先生からは、兄は私の面会を一切拒否していることを伝えられていました。
……それもあるけれど、私も兄に会いに行くことは、正直に、怖かった。怖ろしい過ちを犯したひとになってしまった、というのもあるかも知れないけど、 嫌われている、と思ったのです。
今も、これまでも、私一人でぬくぬくと、何の罪も闇からも拭い払われて、こちら側で過ごしている。
父と母が喪われた、奪われた、というのも勿論重大だけど、色々と巨きなものが押し寄せすぎていて、でも私には、今生きている兄のことが、やはりとても大事でした。
体は元気にしていると伝え聞いていたけれど、先生も、『君のことを疎んじている訳じゃない。君のことを大事に想っているからこそ、顔向け出来ない、という負い目が強いんだ。
君の顔を見て、前向きに闘おう、ここに戻って来ようという気持ちになれるんじゃないかな』と賛成してくれました。『……もっと、僕たちを信じてくれたら良いんだけど』とも」
「……」
「先生の繰り返しの後押しがあって、兄は私の面会を承諾してくれました。……当時は少年刑務所に収監されていて、付き添ってくれた先生たちには外して貰って、私一人で、面会室で兄を待ちました」
楓の瞳を通して、朧げだった天川の姿が俺の目の前にも現れてくるような気がして、俺もそれを待った。
「数ヶ月ぶりに会った兄は……」
兄は、ひどく研がれた表情をしていました。
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