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—彼の伏せた横顔—
ひとひらの予感
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互いに晴れ晴れと、端然と伸ばされた右掌を交換し合い、俺の解かれた感情を見届けると、
園山は惜しみのない一瞥を残し、精悍な官服の肩を翻して踵を返し、もう、振り返らなかった。
規則正しい歩幅でその背が、足早に門のうち、もう遥かと思える薄墨の巨塔へと向かい遠ざかっていく。
彼らしい、未練を残さない訣別が清々しく、もう一度この身を屈め、その後ろ影が見えなくなるまで一礼を向けた。
ひとりになり、辺りには春の透けるような空気だけがやわりともたれる。
俺も、行かなければ。
先の沿道には、迎え入れるように桃色の綿のような連なりが、河さながらに遠目まで続いていて、万感に似た期待に胸が染みる。
そこで、なすべきことがようやく出来ると、俺は歩を進めてそこへ向かおうとして行くと、
やがて、右手の長い鈍色の塀を背に一本の桜の幹へ相対した、ひとりの立ち姿が眼に入った。
空を覆うような、満つに花開いた桜の天辺を見上げているのか、
しろい、生成色のバテンレースの花刺繍を施した日傘が、柔らかな春の陽光を帯びるように浮かびあがり、うちにある顔を覆って傾いでいる。
その下からは淡い灰、錫色の着物の半身がほっそりと伸びていた。
気づいて、近づくにつれ、歩を緩めてそれを止めた。
日傘の主は、数歩先の存在に気づいたのか、傘をやや浮かせ、こちらへそっと振り向いた。
覆いが晴れて、そのなかの顔かたちが露わになる。
黒髪を頸の後ろでゆったりと纏め、楚々とした印象がまず胸を訴えたが、その相貌は静かで確かな品が備わっており、
歳の頃は、三十代の半ばといったところだろうか。
錫色の着物の上に、真綿をこまかな雨のようにして丁寧に紬いだような、白百合色のショールを羽織り、
帯は着物と同系の明るい白銅色、その中央を、辺りに満ちた桜にも想わせる、撫子色の帯締めで留め、その挿した彩りが無彩のなかで目を惹いた。
裾から覗く白足袋、着物と同色の草履におさめられた白魚のような爪先が、
それでもこの不浄の地に、ひそやかな意思を持つようにして足を着けている。
もう一度、淡灰の衿の上の貌に視線が戻る。
不純を感じさせない、黒い絹糸のような流れる前髪の、
その下の、何かを訴えかける、切れ長で、黒い泉を湛えたような、少し目尻が垂れた瞳。
憶えがあるようなかたちの唇は、素のいろを透かした紅梅の化粧を今はうっすらと施していて、つぼみが息づくようにその奥が微かに開かれていた。
そして白い、白い鳥を想わせるほそく儚げな、柳のような輪郭を流す頸が、衣紋のうちへひとつの情景のようにして吸い込まれていく。
予感が、降りる。花弁が降るように。
だがその一筋が胸を通っていくも、密なかたちをまだ掴みとることは出来なくて、
眼の前の、抗いがたい正午夢のような人物を凝視しながら、
俺はその柔らかなひかりに優しく撃たれたように、身動きひとつとれずにいた。
春の陽気を労わるように、傘を収め、側面を向けていた立姿がこちらへ静かに直る。
向き直って、伏せた瞳、頤のかたちが露わになったので、それを目に映すままに俺は立ち尽くす。
桜の貝殻さながらの耳の下、白い頸筋に、かつて見ていた左側と対をなすように、右の清楚な柔肌へ、
ちいさな、だけど一度見つけるとそれがこころの奥から離れることのできない、
黒くつつましやかな、 『種』が植わっているのを。
その種の上、俺を見上げるひかりを返照する水面のような瞳が緩み、
そして、何かをことほぐようにして、
その女は微笑った。
「——…………高階、朔"先生"でいらっしゃいますか……?」
鈴の鳥が囁くような、澄んだ音が春の気をふるわせる。
先生……? とその敬称にうちで首を傾げるも、否定を返さないかたちで肯定を示す。
「永きに渡る、お務め、本当にお疲れ様でございます」
まずは労いを、と真摯さを滲ませる声音が口上し、華奢なこうべも続いて深々と垂れる。
顔を上げるようにとの声かけも出来ず、再び仰向いた面輪にただ、問いかけた。
「…………貴女は」
「私、夏八木と申します」
「……」
「旧姓を、…………天川。——天川、楓と申します」
『……楓には、ひとりきりにさせて、悪かったと思ってる』
——天川の…………!
声もなく、目を見開く俺を、どこかもう見知りを得た表情で彼女ははにかんだ。
「……そのご様子だと、兄のことを憶えておいでで、私のことも、少なくともお聞き及びのようですね……」
「勿論です……、勿論…………!」
「……今は、最早昔語りとなってしまうかも知れません。ですがこの瞬間を、 私は待ち希んでおりました」
兄のことで少々、お話を宜しいでしょうか。
たおやかだが、この空のように澄んで手折れない響きが彼女の唇から漏れた。
傍らの桜のひとひらが、またひらりと翻る。
園山は惜しみのない一瞥を残し、精悍な官服の肩を翻して踵を返し、もう、振り返らなかった。
規則正しい歩幅でその背が、足早に門のうち、もう遥かと思える薄墨の巨塔へと向かい遠ざかっていく。
彼らしい、未練を残さない訣別が清々しく、もう一度この身を屈め、その後ろ影が見えなくなるまで一礼を向けた。
ひとりになり、辺りには春の透けるような空気だけがやわりともたれる。
俺も、行かなければ。
先の沿道には、迎え入れるように桃色の綿のような連なりが、河さながらに遠目まで続いていて、万感に似た期待に胸が染みる。
そこで、なすべきことがようやく出来ると、俺は歩を進めてそこへ向かおうとして行くと、
やがて、右手の長い鈍色の塀を背に一本の桜の幹へ相対した、ひとりの立ち姿が眼に入った。
空を覆うような、満つに花開いた桜の天辺を見上げているのか、
しろい、生成色のバテンレースの花刺繍を施した日傘が、柔らかな春の陽光を帯びるように浮かびあがり、うちにある顔を覆って傾いでいる。
その下からは淡い灰、錫色の着物の半身がほっそりと伸びていた。
気づいて、近づくにつれ、歩を緩めてそれを止めた。
日傘の主は、数歩先の存在に気づいたのか、傘をやや浮かせ、こちらへそっと振り向いた。
覆いが晴れて、そのなかの顔かたちが露わになる。
黒髪を頸の後ろでゆったりと纏め、楚々とした印象がまず胸を訴えたが、その相貌は静かで確かな品が備わっており、
歳の頃は、三十代の半ばといったところだろうか。
錫色の着物の上に、真綿をこまかな雨のようにして丁寧に紬いだような、白百合色のショールを羽織り、
帯は着物と同系の明るい白銅色、その中央を、辺りに満ちた桜にも想わせる、撫子色の帯締めで留め、その挿した彩りが無彩のなかで目を惹いた。
裾から覗く白足袋、着物と同色の草履におさめられた白魚のような爪先が、
それでもこの不浄の地に、ひそやかな意思を持つようにして足を着けている。
もう一度、淡灰の衿の上の貌に視線が戻る。
不純を感じさせない、黒い絹糸のような流れる前髪の、
その下の、何かを訴えかける、切れ長で、黒い泉を湛えたような、少し目尻が垂れた瞳。
憶えがあるようなかたちの唇は、素のいろを透かした紅梅の化粧を今はうっすらと施していて、つぼみが息づくようにその奥が微かに開かれていた。
そして白い、白い鳥を想わせるほそく儚げな、柳のような輪郭を流す頸が、衣紋のうちへひとつの情景のようにして吸い込まれていく。
予感が、降りる。花弁が降るように。
だがその一筋が胸を通っていくも、密なかたちをまだ掴みとることは出来なくて、
眼の前の、抗いがたい正午夢のような人物を凝視しながら、
俺はその柔らかなひかりに優しく撃たれたように、身動きひとつとれずにいた。
春の陽気を労わるように、傘を収め、側面を向けていた立姿がこちらへ静かに直る。
向き直って、伏せた瞳、頤のかたちが露わになったので、それを目に映すままに俺は立ち尽くす。
桜の貝殻さながらの耳の下、白い頸筋に、かつて見ていた左側と対をなすように、右の清楚な柔肌へ、
ちいさな、だけど一度見つけるとそれがこころの奥から離れることのできない、
黒くつつましやかな、 『種』が植わっているのを。
その種の上、俺を見上げるひかりを返照する水面のような瞳が緩み、
そして、何かをことほぐようにして、
その女は微笑った。
「——…………高階、朔"先生"でいらっしゃいますか……?」
鈴の鳥が囁くような、澄んだ音が春の気をふるわせる。
先生……? とその敬称にうちで首を傾げるも、否定を返さないかたちで肯定を示す。
「永きに渡る、お務め、本当にお疲れ様でございます」
まずは労いを、と真摯さを滲ませる声音が口上し、華奢なこうべも続いて深々と垂れる。
顔を上げるようにとの声かけも出来ず、再び仰向いた面輪にただ、問いかけた。
「…………貴女は」
「私、夏八木と申します」
「……」
「旧姓を、…………天川。——天川、楓と申します」
『……楓には、ひとりきりにさせて、悪かったと思ってる』
——天川の…………!
声もなく、目を見開く俺を、どこかもう見知りを得た表情で彼女ははにかんだ。
「……そのご様子だと、兄のことを憶えておいでで、私のことも、少なくともお聞き及びのようですね……」
「勿論です……、勿論…………!」
「……今は、最早昔語りとなってしまうかも知れません。ですがこの瞬間を、 私は待ち希んでおりました」
兄のことで少々、お話を宜しいでしょうか。
たおやかだが、この空のように澄んで手折れない響きが彼女の唇から漏れた。
傍らの桜のひとひらが、またひらりと翻る。
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