塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—その外へ—

外気

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 その境を踏み超えて、地に足を着けた時、
顔をあげるまでもなく、四面が、音がするように拓けた外気の海原となって、五感へ瞬息に吸いこまれていった気がして、
 ああ、そうか。
 大袈裟じゃなく、世界はそうだったなと。

 久しく、永くその無限を知らなかったのではというほど意識の外に押しやられていて、でも瞬時になつかしい、いとおしい、
拡がる世界の郷愁にさそわれた。

 高く、塀のない世界。
 道路。路傍の樹。地下へ繋がる入り口。塵がなすりつけられた柱でさえ見入ってしまいそうな慕わしさが感じられる。
 当たり前のように、ひとびとが住まう個々の色と凹凸でなされた、密林のような住居群が彼方の視線のすえに拡がる。
 その背を包み、慈しむように潤沢な水面を湛え、太陽の恵みを閃かせて流れる、海のような河川。

 そして、ひそかに空気いきを吸った。
 胸のうちで、深く深く、その粒子を細胞の隅々まで行き巡らせたくて、その味が追憶の喉にふれて、安堵の息をついた。

 数十年振りに塀の外から見た空は、高く、蒼は果てなく拡がっていた。
 空気は、澄んでこの萎んだ肺を満たしてもあり余り、こわいほどだった。
 ご丁寧に、沿道は桃色の綿のような桜並木が、門出のように幾重にも連なっている。

 照れ臭さは、それだけじゃなかった。
 ともすれば、相変わらずの意気揚々、視線を合わせようとすれば、得意満面、漲る精気が光をなす黒い眼が、制帽のうちから見上げてくるので、
眩しいやら気恥ずかしいやら、どう応えるのが正解か、巡ってくるのはどうしてか可笑しさで、それを隠すように俺は何度目かの吹き出しを拳で押さえた。


 出立の儀礼も済ませ、所長、山下看守部長、僅かでも見知りのあった刑務官、所員たち。
 枷で繋がれたと思っていたこの地で、こんなにも見送ってくれるひとたちがいたのかと、感激と、可能な限りの謝辞を、深い礼をもって応えて、玄関口を後にした。

 門への並木を踏みしめるように歩めば、外への開放に繋がる黒い門が、着実に眼前へと迫ってくる。
 その鉄錆がつぶさに視認できた柵の手前、俺の足は進みをとどめた。

 心に残る掛かりは、正直あった。
 だがそれよりも、この柵とその先を隔つ、その境を踏み越えることに、ここへ来てやおらに、躊躇いが生じている。
 何十年も、このうちで過ごしてきた月日の濃縮された陰が、背を覆う半身に、皮膚のように附着していることに気づく。
 それを、捨て去る訳じゃない。だが、ひとつの区切りとして降ろして、この先の大海のなかへ、身を投じなければならない。そこに、やはり未開の臆しを見出してしまったのだろうか。

 ここを踏み越えないことには始まらない。現実に、何度もこの瞬間を夢見てきたのに。
 踏み越える自体は何ら造作もない。超えたとして、瞬間に何が変わる訳もなく、苦難を味わうのは、きっとこれよりずっと先だ。
 ——心の掛かりは、また後で手段を考えれば良い。いくつもの鼓舞を胸に強いて、息を吸い、俺は足を踏み出そうとした。


「高階っ!」

 駆けてくる音がすると思った。
 だがもう振り返ったら、目線のすぐ下、よく見知った煌めきの眼差しと、左腕を掴まれた感触に捕らわれた。

「よお」
 射るようで、超えられない鉄線があると知っているのに、こころを解いて、紺碧のひさしのしたからいつも芯に迫っていたような黒い眼が、独特の不遜とも想える笑みとともに、見上げてくる。
 駆けてきたから、落ちそうになる制帽を後頭で押さえていた。

「最後にして最重要の詰め、忘れてるんじゃないのか?」
 
「園山先せ……っ!」

「先生はもういい」

 あっさりと言い、園山は俺の腕の掌を解いた。
 半身を向き直り、心の『掛かり』の半分だった人物の、いっときではあるが離れていた、変わらずの佇まいに懐かしさと、心残りの融解に笑みが漏れる。

「お久しぶりです……」
「……うん」
「出所式にも、いらっしゃらなかったので……」

 もう、会えないんじゃないかと思って……という俺の呟きは、一笑に伏すというような吐息に吹かれた。
 園山の目線が俺の靴先に移る。俺が、うちと外との境を越えるのを、踏み留まっていたことを直ぐに察したようだ。
 嘆息が漏れる。やれやれ、と首を振って嘆かわしいと言わんばかりに。
 再びまごつきの表情に出戻りする俺の、背を門扉に対して向き直らせた。

「ほれ」

 何の苦もなく、ぽん、と至って気軽な片掌の力で、背を押される。

「あ」

 まだ、枷でも嵌っているのではと重みに捕らわれていた足が、実にさくりと、一切の感慨も生まれず、
境の柵を越えて、その先の地面に踏みこんだ。

 振り返れば、してやったり、誇らしげに腕を組む満面の笑みが、門のうちから傲然と見送っている。

 何年も、その地の住者であったと縛られていた俺の身体は、こうもあっさり、塀のうちからその外へと出ていた。
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