塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—その外へ—

放たれる月

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 開放寮は、仮釈放を間近に控えた受刑者のみが居住を許される、塀のうちでの最後の時間を、来たる社会復帰への備え、心積もりを養うために与えられた、特別待遇を有する舎房だ。
 この舎房に来て、俺の制限区分は一種になった。
 受刑者は、自発および自律性を醸成するため、受刑生活・行動に対する制限を四種の区分で設けられている。
 数字が若いほど制限が緩和され、仮面接終了後から俺は二種になったが、一種の証である青いバッジを着けた者は、長い収監のなか噂に聞く限りで実際目にすることはなく、おそらく、開放寮ここに来た者と同義になるのだ。
 一種になり、居室に施錠が求められない、面会・移動時に刑務官の同行が伴わない、認められた場合にはなるが外部への電話連絡、外出も可能な身となった。

 驚いたのは、寮での居室に踏みいれて知った、想像以上の開かれた環境だった。
 これまでの三畳の独居房から、十畳はあるのではないかというリビング、光があまりにも差し込んでくるので、まず先に目が眩んだ。
 窓に、鉄格子がないのだ。強化ガラスの施工もなく、壁面そのままの透明な窓の先は、小ぶりで素朴な庭へと繋がっており、信じられなかった。しかも、出入りは自由なのだという。

 部屋には簡易なシステムキッチン、最新の乾燥機能付き洗濯機、冷蔵庫も備え付けられ、押し入れに布団や私物の収納も出来る。
 室外には共同のトイレ、浴場、娯楽室、食堂、テレフォンカードを購入して使用できる公衆電話など、日常生活で不自由のない設備が全て揃っていた。
 そこに刑務官の姿はなく、朝と就寝前の点呼、深夜の巡回が数度あるのみだ。
 そのうえ、当然のように居室の監視カメラは取り払われ、小型の液晶テレビが設置されており、起床後から消灯前まで自由に視聴が出来てしまう。
 新聞は毎日目を通し、社会情勢の変移は掴んでいるつもりだったが、規制のないテレビからの情報量はやはり甚大で鮮やか過ぎた。
 強烈なそれに脳が正直悲鳴をあげていたが、ニュースを中心に目を通すようにし、隔絶されたこれまでの自分と、社会との擦り合わせを行ない、少しでも遅れを取り戻そうと努めた。
 覆い隠せるべくもなく、つもりもなかったが、とがを受けた身と世間との想定以上であろう溝を目の当たりにすること、それが露わにされること、
そして無論覚悟しておかねばならない、忌避や侮蔑、冷淡な視線を思うと、やはり深層では怖ろしかった。

 今朝、起きて何も知らず過ごしていた今までの居住とは、雲泥ほどに違うまさに夢のような環境だが、あくまでここは始発地点にもなっていない、うちと外とを隔つ壁の不透明さを、少しでも融解しておかなければならない場所に過ぎない。
 無尽蔵に流れてくる音をやがて閉じ、眼もうちに籠め、俺はもう一度、直面している現実と繋がる、静寂の底へ意識を浸らせようとした。
 
 
 消灯前、初めての夜、恐る恐るのように軒先へ足を踏みいれた。
 じかの皮膚で、碧い芝生の幾つものささやかな尖りに触れたかった。

 夜陰が薫る、湿り気を帯びた春の宵風が頬を流れ、闇であるのに、ひかりの気配を厳かに気どり、頭上を見上げる。

 ずっと、朧月を追っているような心地だった。
 だが、今眼の前に在るのは、ひめた内腑まで扇状的な陰影を持って透けさせ、欠けを殆どなくした、燐光のように仄白いあたたかみを帯びる、円い月だった。

 真午まひるの白い月は見ていた。
 夜の逢瀬にいつか千景の隣で見た月。ベランダから抱き上げた陽まりが指したそれ。
 鉄格子の狭間、闇に浮かぶ月を乞い、眼を苦く凝らした先。
 二人で、見えない月を憂いて、慰めるように笑い合った。


「月だ…………」

 永年、夜に息づくその真の姿を捉えることすら忘れていて、いま、息苦しいほど鮮明にその存在を押し迫られて、
やがてこの地で出会い、別れていった人たちの顔が、とうと浮かんだ。
 
 きっと、皆んなこの景色を見たかったに違いない。
 檻のうちに留め置かれ、ここを出たかった者、出れないまま終わる者、数えきれないほど存在して、散っていった筈だ。


『昔の人は奥ゆかしいよなあ。夜空の月や、月が見えなくても、それを歌に詠んで、誰かを想ったりしたんだから』

『朔さんが、月になるから良いんでしょ』

 月は、ここにある。
 ずっと、そこにいたんだ。

 月の放つ光は、ずっと変わらず、冷えてもなお永劫の静けさに満ちて枯渇を厭うことはない。
 地に墜ちてそれを仰ぐ俺の涙の、なんと卑小で、温く泥臭いものなのか。
 けれど、ひととはそんなもので、それだからこそひとであるのだ。


 俺は、今見てる。皆んなと。

 天川、今俺は、 お前と見てる。

 ここで涙を流すのは、もう最後だ。
 もう染み出しては来ない頬に残された涙を拭い、縁添いの芝に俺は腰を降ろした。
 飽くるまで、共にその月の姿を眼に映しとり、ふたりのものにしようと。
 得られないと嘆いていた、胸に残る渇望を、きっと今この差してくる慈しみ深い透明な光も、残さず掬いだしてくれる筈だから。

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