塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—ゆるしの壁—

未来図

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 こころのなかで、ふと、誰もいない空間で立ち竦んでいる自分の後ろ姿が見えたとしても。

 生きていれば。この心臓が、望まなくとも脈っていれば。
 時間はひとしく、変わりなく過ぎてゆく。
 見えない酸素の粒子が、生物を生かすため絶え間なく流動しているように。
 生きていれば。立ち留まっていても、振り返って、また脚を前に踏み出そうとしても。

 狭い洗面鏡に、背を屈めて自分の顔を映す。
 口角が上がる場面は確実に獲られたのに、鼻の両脇から、いつの間にか消えないままの線が引かれていることに気づく。
 硬い髪に、色素の一切含まれないものを見つけることが増えてきて、
生きる希望、意志を、時折見失いそうになっても、この身体は生かされていて、
当然のように実は纏わりついていた生や時が、得がたいもの、取り戻しがつかない尊いものであることを、もう、後は老いへ向かって下降していくだけの身体であるのに、それを無知のように、遅れて知る。


 もう、季節がいくつ繰り返されてきたのか、数えるのをやめてしまった。
 陽まりの笑顔が心の中だけでしか再生出来なくなった瞬間から。
 じかの千景を、アクリル越しでしか確かめることが出来ないという諦めを認めた時から。
 天川の、話しだすのに少し躊躇う、ひたむきな視線を、もう受けとめることの出来なくなった、あの朝から。

 それでも時は過ぎる。光は差す。
 仮釈放へ向けた審理の気配が周囲で見え始め、保護観察官による、予備面接がなされた。

 このまま、滞りなく進めば、翌年の春にはこの塀の外に出られるかも知れないという、未来図が、
ずっと夢想だと思っていたそれの、一挙に具体性を帯びた鮮やかさが迫ってきて、目の前に現れた。

 面会に来た千景に、落ち着いて、急ぎすぎないように、ただそういう事実であるんだと、湧き上がりそうな胸を抑えて、伝えた。
 千景は、少し間があって、泣き笑いのような吐息を漏らして聞き返し、落としこむと、
まるで少女のように顔をくしゃくしゃにし、瞳に、煌めきが滲んでいた、だけどそれを覆い隠す破顔を見せて立ち上がり、口を覆って、跳ねた。

 俺も立って、手を伸ばして、アクリル添いに二人分の掌の温度が重なって、 跳ねた。
 五十路いそじ過ぎた大人二人、いい年して、跳ねた。


「部屋が振動している。落ち着いてくれ」
 脇の机に着いていた園山から、俺達の喜びが少しだけ退けた頃合いに、声がかかる。
 机に眼を伏せ、その口許は拳で隠されていたが、端から上がった口角の顔が覗いていた。

 二人、湧き上がる喜びを抑えに抑えて、互いの姿が見えなくなるまで顔を見届けて、別れた。
 面会室を出て、先を行く園山が振り返ると、思わず安堵の笑みを向けるように漏らしてしまった。

「まだ早い。気を緩めるなよ」
 園山はわざとのように顔をしかめてみせたが、元々上がり気味の口角の緩みを締めきれておらず、
右手を、差し出されたので、自然とこちらも腕を浮かせたら、
開いた右の掌に、彼の右掌が力強く拍ち込まれて、過ぎて爽快な響きが弾けるようで、
快活な痺れと心地良さに笑みを溢したら、眼だけはあきらかに笑んだ一瞥で応えて、園山はまた前を向いた。

 顧りみれば、夏物の濃紺のワンピースから覗いた腕、真横でふわりと髪が切り揃えられた顎や白い首筋が、少し、瘦せたのでは、という印象が掠めていたのだが、
膨らむ未来図への望みが鮮やかすぎて、俺はそれから、浅はかに目を逸らしていた、のかも知れない。

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