塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—ゆるしの壁—

夏の空へ

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 廣さんが寝んだ部屋を退て、少し進んだ廊下の途中、先ほどまでの柔和な口調から、硬質に音を落とした園山の声が、前方からかけられた。

「蛯原の容態は、どうなんだ」
 園山の歩幅が緩やかに落ちたから、後に続いてその隣に並ぶ。

「……持病の糖尿病は元からですが、このところ合併症の進みが著しいようで……。視力は、大分落ちているようです。特に腎臓が酷くて、ここでも週に数回透析を受けていますが、進行を留められるものでもないですし、いっときの、緩和というか……。
でも今日は塞いだ言葉が多かったんですが、園山先生が来て、やっぱり大分華やいでいました。患ってるのを、忘れてしまうくらい……」
「うん……。お前には、本音を見せているんだろう。
もうすぐ、刑期も明けるのにな。明けたところで、待つ家族もなく、残るのは病に蝕まれた身体のみ、というのがな……」
「……」
「受刑者にも、高齢者が増えている。……拘置所ここで生涯を終えたい、出所しても戻って来たいなんて奴もいて、蛯原のような奴も、見ていると……。
俺達の職務は、罪を犯した者を更生へ導き、叶うなら、滞りなく社会へすものだと自負しているが、果たしてそれが最上なのかと、問いたくなる局面もあるな……」
「……」
「こんなことをまたお前に漏らしていると、折角の金線が銀に戻る……」

 自嘲気味に俯く園山の制帽にも、金線が煌めいて、その輝きは簡単に損なわれるものではないと、煌めきと伏せられた彼の眼を見守りながら、視線を送る。

「……だが、どんな境遇であろうと、そこにいる奴の『最良』をはかることが、俺達の任であるのに変わりはない」

 もう前を見据えた園山の眼差しは、変わらず駿馬のそれのように、しなやかでひたむきだった。

「蛯原のケア、負担のない範囲で頼む。あいつは何だかんだ、お前に傍にいられるのが、嬉しいようだからな」
「はい……。……どうも、俺は廣さんの、もう居ない『初めての男』に似ているらしくて……」
「…………それ、俺も言われたぞ」
「……え……!?」
「うっかり二人きりになった時、『……収史しゅうじさんを見ていると、昔あたしを救おうとしてくれた、苦学生だった初めてのあの人のことを想い出すの……』とか、どこで下の名前を憶えたのか、いやあ、あの時は拝命以来の危機を覚えたよ」
「…………っ」
「料理係のヤンなんかも、『園山先生助けて下さい、廣さんと調理場で二人になると、"あたしの初めての男も、異国情緒漂う男だった……"とかおかしなこと言って寄って来る、私の故郷くに、台湾は姦通罪がある、妻が待ってるのに、これ以上疑いを重ねる訳にはいかないよ!』って、あいつは生真面目な奴だからな、説き伏せるのにまあ苦労した」
「…………何者なんですか、『初めての男』は……」
「若いからと言って、天川にはそういうのはなかったようだなあ。…………何というか、同種……? さしづめ、むさ苦しいキャットファイトとでもいうのか……」
「え……。あの二人、何かを巡って争っていたんですか……」

 天川は、あんなに大人しくて、人に闘争心を抱きそうにないのにな……と思い返していたら、
園山が、まるで呆れた珍獣を見るような眼でこちらを見上げていたので、
「えっ?」と思わず訊かれてもないのに問い返していた。

「……天川のことは、よく想い出すよ……」

「今でも、迷った時は、あいつに問いかけてる。
あいつが居たから、俺のこの仕事の指針を、見つけることが出来たからな……」
「……」
「聞いても、返事は返ってこないし、あいつも迷惑だろうがな」

 彼方を見つめ、憂うように笑う園山の横顔はでも柔らかで、彼の中にも変わらず天川の存在があることは、嬉しかった。

「……蛯原は、最近も新人の奥寺を紹介した際、『まあ、無垢な瞳が、初めてのあの人を思い起こさせるわ……』って、持て余した未亡人のような眼が、未だ健在だったからな」
「……まだまだ、『初めての男』のところには、行きそうにないですね……」
「だろう? まあ、引き続き、宜しく頼む」

 小気味よく肩を叩かれたお陰で、脱力した俺の体が、さらに廊下で傾いだ。



 おおらかな入道雲が、空一面に湧き立つようだった。
 晴れた日に、洗濯物を干して、青空を背に風に翻るのが爽快で好きだと廣さんは言っていた。

 青空が見たいと、言われた訳じゃなかった。
 もう、暫く声は聞けていなかった。
 誰ともなく、窓を開けて盛夏の気配をはらんだ南風を、病室の中へ迎え入れていた。

 男に尽くし、男に翻弄されてきた廣さんは、望み通り、脛に傷持つ男たちに見守られながら、塀の内に身を収めたまま、男たちの世話からそっと降りて、
翌年の穏やかな夏の午后、初めての『あの人』のもとへ、静かに旅立っていった。

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