塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

文字の大きさ
上 下
19 / 97
—歌—

むせ返る、大気

しおりを挟む
 戸外へ抜けた瞬間の、『外』を肌へ体感したときの充足は、もう忘れかけているが、昔自由に手に入れていた時よりも、ずっと濃密で、渇望を浸してきっとあまりある。

 塀のうちの外界であるのに。
 その先には、もっともっと先まで続く、見果てぬ夢のように茫洋にきらめく、世界かなたが連なっている筈なのに。

 コンクリートに囲われた大気でも、すぐには遮断している俺の感覚に侵入はいりこみ、否応なく刹那にその『存在』をしらしめ、先触れもなく俺を陰鬱に苛んだ。

 春。むせ返る、春。
 生気に溢れて、花は熟して、草木は新緑の臭気を発奮して撒布する。

 あれほど待ち望んでいたのに。
 生ける者、誰しもが待ち焦がれて、その息吹にふれれば、綻んで、生きる希望をことほぐ喜びに、目を見合わせて笑いあう筈なのに。

 生ける者。生きているもの。

 俺は、生きているんだろうか。 生きていて、良いのだろうか。

 もっと生きたくて、本当は、その恵みを誰しもと同じに、当たり前に持っていたものが、
つい先ほどまでその息吹を、少しも驕ってなんかいない、ささやかに温めていたのに、
今この、むせ返るような春のかたまりに、それが跡形もなく吹き荒ばれ風塵と化していく幻影が俺を蝕む。

 この大気を、春を、享受する筈だったのに。

 吐きそうだ。
 強烈な生を爛熟させ、躍動が滴るような春のうねる風を受けながら、俺は口許を覆った。


 意志を持たない思考のまま、休憩へ向かっていた。格子越しから、
『よお、さくよ。お前の若い女房やつ、吊るされちまったんだってな。
子供みてえなつらしてたのに、可哀相かっわいそうになあ。ちったあ可愛がってやれたのか?
おてて繋いだいじらしい契りも、お上のお達しの前じゃあ、ひとたまりもないってね、』

 下卑た哄笑が耳をなぶったが、
『あんたなんか、じきよっ!』ひろさんの金切り声と、諍う声が背後でこだまして、
やめろ廣さん、看守おやじにどやされる、そんな言葉が胸中にあったが、口外へは浮かばず、そのまま廊下を脱した。


 今し方の光景も、無味な送風のように背後へ溶け去って行く。
 心象をなくし、ただ歩いていた。
 前も見えていない。四方も視界に入っていない。だけど、歩いていた。

 だって、 約束していたんだから。


「——…………、」

 ほの明るい蔭が差した気がして、俺は頭上を見上げた。

 薄紅。白。淡いすもも色。
 花弁が、ふわりという音に包まれて、慎ましやかな雌芯も覗かせ、開いている。

 黒い樹肌ばかりだと思っていた。
 なのにもう、今眼前に聳え立っている幹は、
遂に至高の召し物が完成したといわんばかりに、含羞を滲ませつつも、誇らしく淑やかにその腕を広げ、
清らなる、厳かな品格を吐息ひとつ洩らさず、だのに見るものの感応を突く、あまやかな淡紅の艶姿を、惜しげもなくそこに披露めている。

 桜だ。
 天空を、一面桃色の大河で流しこんだように、埋め尽くされた、桜。
 あれだけ、焦らすように蕾が綻ぶのを惜しんでいたその花が、
まさに今を咲き誇れよと、開花の宴に眦を染まらせ、満開のたけなわに、匂いたつようなほろ酔いを魅せている。


「…………何なん、だよ……っ」

 厳かで、楚々として、静謐で。だのに可憐で。
 何の秘すべきものも、躊躇いも汚濁も持ちあわせない。

 待っていたのに。
 待っていたその姿の、ただ花は、美しい紐を解かせただけなのに。

 それすらもなのか。 だから、なのか。
 言い知れぬ怨恨に近い、激情が湧いてきて、俺は強かにその幹を拳でった。


 何故なんだ。 何故、今なんだ。
 解っている。俺たちにはなから時間なんて、当たり前に安寧できる生なんて、始めから享受などされていない。
 花は、咲いただけだ。
 そこに、手前勝手で甘えた夢想を見出し、押しつけていただけだ。


 何が歌だ。何が桜の下で詠もうだ。
 何が一緒に、 だ。

 そんなのもの、そんなもの何の役にも立たなかった。
 少しでも彼の脚にしがみつく汚泥、孤独、虚ろを、掬い上げることが出来たのか。

 出来たのだとしても。
 だとしても、もう関係ない。 何の関係もない。

 天川は、たったひとりでいってしまった。

 ひとりで、勝手に連れて行かれて、
—— またあんな父親のもとに、差し出されなければいけないのか。


 見上げれば、叡智を識り、秀麗な憂いに眉根を寄せるような桜が見降ろしている。
 俺はその厳かな佇まいを睨みつけ、樹肌をさらに撲った。
 肌が抉られ、鋭い皮が掌外を刺す痛みが突き抜けたが、どうだって良かった。


 神みたいな顔をして見るなら。
 神ならば、連れて行け。

 早く俺も、連れて行け。
 天川のもとへ、連れて行け。
 陽まりも待ってる。ここで俺も、首をくくればいいのか。

 天川をひとりにさせるな。
 いつもはにかんで、じっとその黒い瞳のうちに澄んだ水面を湛えたまま、
想いを、純粋な想いを、いつだってきっと胸のうちに仕舞いこんでいた。

 ふざけるなよ、返せ。
 天川を、返せ。
 解き放てよ。あいつを穢れた足枷から。
 また救いのない闇の底に、あいつを閉じこめるな。

 早く俺を、
 あいつのところへ、
 闇に引き摺りこまれようとしているあいつの、

 あいつの元へ、 連れて行け…………、

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

年上の恋人は優しい上司

木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。 仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。 基本は受け視点(一人称)です。 一日一花BL企画 参加作品も含まれています。 表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!! 完結済みにいたしました。 6月13日、同人誌を発売しました。

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

新緑の少年

東城
BL
大雨の中、車で帰宅中の主人公は道に倒れている少年を発見する。 家に連れて帰り事情を聞くと、少年は母親を刺したと言う。 警察に連絡し同伴で県警に行くが、少年の身の上話に同情し主人公は少年を一時的に引き取ることに。 悪い子ではなく複雑な家庭環境で追い詰められての犯行だった。 日々の生活の中で交流を深める二人だが、ちょっとしたトラブルに見舞われてしまう。 少年と関わるうちに恋心のような慈愛のような不思議な感情に戸惑う主人公。 少年は主人公に対して、保護者のような気持ちを抱いていた。 ハッピーエンドの物語。

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】

紫紺(紗子)
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。 相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。 超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。 失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。 彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。 ※番外編を公開しました(10/21) 生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。 ※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。 ※4月18日、完結しました。ありがとうございました。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

歌舞伎役者に恋をしました。

野咲
BL
酒造メーカー御曹司×歌舞伎役者  酒造会社社長息子の葦嶋拓真は、実家が贔屓にしている上方の歌舞伎役者の宴席に同席させられ、そこで歌舞伎役者井筒綾之助と出会う。  はじめて見物した歌舞伎に退屈し、宴席にも馴染めずにいた拓真は、綾之助個人には興味を持った。  綾之助は最近注目されつつある若手役者だが、一般家庭出身であることもあり、歌舞伎名家の御曹司らからの嫌がらせなどを受けている。  拓真は綾之助と個人的に親しくなりたいと考えるが、拓真に失礼があってはいけないと考えた綾之助は一切個人的なお付き合いはできないと断って……? 綾之助の役者としての成長、そして二人の関係の変化を描きます。性描写はありますが、分量としてはかなり少ないです。(性描写ある章の頭に※を付けます) ムーンライトノベルズに「かきつばた、恋は初花」のタイトルで公開していたものを改稿しました。

処理中です...