塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—歌—

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 早朝の静けさのなかに、いつの間にか白い光が差すように畳の上に降りている。
 朝陽が昇る時間が早まっているのだと、数日前から気づいていた。
 窓ガラスの向こうの色は、穏やかさを含んだ爽快な蒼を既に一面に刷いていて、今日は、暖かな晴天を迎えられるだろうということを予期させた。

 早めの朝食を済ませ、フロアへ向かい、日課の清掃、朝食の配膳を終え、やがて下膳の段になり炊事場へ食器を運び入れていた。


高階たかしな、ちょっといいか」

 不意に背後から声がかかり、振り返った。
 刑務官の園山そのやまの、実直さと、精気が感じられる黒い眼と行き合う。

 園山は、俺と同じ時期にこの所へ配属された二十代半ばの新人で、若さゆえ、受刑者に対しても感情の昂りを見せてしまう未熟さがまだ窺えたが、配属以来、刑務官のなかでは比較的親近を含んだ態度で接してくれる、口が利きやすい看守だといえた。

 はい、と返事をしつつ、目の前の膳を片付けてしまおうと手早く動かしていると、

「すまない。そこはもう大丈夫だから、こちらへ来てくれないか」

 再度そう声がかかって、振り返った園山の目は、制帽の影に隠れ、笑んだようにかたどられた唇しか見えなかった。
 思わずそれを見つめていると、傍らで作業していたひろさんも、そちらを振り返った。


 炊事場から房が並ぶフロアへ繋がる、階段を無言の園山に続いて降りた。
 フロアが近づくにつれ、ふと、処遇部門の上席や、普段その一帯には所員とすれ違うことに気づく。能面のような表情で、段ボールを抱え去って行く姿。
 感情を圧した、水分が失せた氷室へ近づいていくような、圧迫が僅かな波動のようにして伝わり、辺りを占めていた、独特の冷気のなかに既に自分が身を置いていることを察した。

 心臓に冷えた滴りの線が、静かに流し込まれたような閃きが降りてくる。
 初めての経験ではないから、覚えて識った感覚だった。
 今朝、あそこにいる受刑者だれかの、 極刑が遂行されたのだ。


 園山の足は緩やかだが、滞留を見せなかった。
 彼の進む先が徐々に推測されて、俺のなかの顔を出そうとしない予感が、徐々に鼓動を拍ち始めている。

 嫌だ……。その先へは、行きたくない……。
 その階段を曲がって、廊下を直進した先にあるD棟、
その10階の、フロアにだけは……。


 園山は階段を一つ降りて、右に折れた。廊下を直進する。D棟との連結廊下。その脇を、11階から階段を使って降りて行く。

 いつの間にか園山の足取りが、ちゅうを歩いているかのように遅くなっていることに気づいた。
 階段を下りながら、ようやく園山が口を開いた。


「…………誰かから、いたずらに耳に入れられても、良くないと思ってな」

 ついて行きたくない。行きたくない。
 譫言うわごとのようにそう思っていても、俺に抗うすべはなく、そして現実と予感との一致を否定して、俺の進んでいるこの空間も、浮遊した夢想のなかであるという願望にしがみついている。

 園山は階段から着地した。非常扉を開ける。フロアへの空間が解放され、内に籠められた空気が逆流してくる。

 見慣れた、ひと一人が生息する気配が篭る、房が立ち並ぶフロア。
 非常口から進んで、俺は直ぐ右を見なかった。タイルの床に、目を降下させたまま。

 だがそこに、水面に映る波紋のように、一筋の光が右方から引かれている気がして、俺はそちらに目を向けていた。


 光が差している。房から。
 一つの房の、扉が開いていて、陽が昇ってきて、溢れてきたへやの窓からの光を、地上に流し込んだように、
澱んだ地表では、それを受け止めきることが出来なくて、零れさせるように、床に拡がっていた。

 房の内側にドアノブはない。刑徒は、自らの意志で外に出ることは出来ない。
 開け放たれたままであることは、通常あり得ない。 ただ一つの、『経過』を除いては。


 あそこは。あの房は。
 知っている。知らない。知りたくない、
 D棟、10階、西奥、21番の、あの房は…………。


「お前たち、仲良かっただろ」

 光が差す方向を向いたまま、背を微動だにしない園山は、振り返らなかった。


「今朝、天川が執行された」

 
 園山が振り返る。向き合った眼は、いつもの精気が漲っているように見えて、水分が枯渇し、隠し切れない充血が白目のうちに走っていた。
 それが、笑もうとして、失敗したように歪んだかたちへ崩れる。

「—— 俺、立ち会ったんだ」

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