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—塀のうちでの—
清廉潔白
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天川の瞼のうちから、光を通さない河の中の石のような黒瞳が、俺を見据える。
「思うよ。腐ってるなら、俺も同じだ。
……陽まりを轢いた奴を轢死させたことは、その罪を償うつもりだが、彼奴のことは、一生赦すつもりも後悔もしていない」
「……親の代から腐ってる奴と、子のために堕ちた人とは、違うよ」
「違うかも知れない。でも、俺も腐ってた。あの事故の前から、きっと腐ってたんだ。
……よく言われるけど、清廉潔白。いつも明るくて爽やか、何の曇りもなさそうだとか。そんなこと、全然ない。本当は。
……人を救いたいと、役立てる仕事がしたいとあの仕事に就いたのに、他人の安全にばかり構いきりになって、実際自分の家族は、『信頼』という甘えを押しつけてきっと蔑ろにしていた。本当は一番に守られなければならないのに。
陽まりは寂しがって、犬を欲しがった。ティティっていう、白いチワワだったんだけどさ。それを与えたのも、きっと多忙を誤魔化しの隠れ蓑にした、間に合わせに過ぎなかったんだよ」
「……」
「ティティは、可哀想なことに病気になって、三年もしない内に死んでしまった。陽まりは悲しんだけど、もうすぐ小学生になるんだから、泣かない、お姉さんになるんだから泣かないってすぐ……。偉かったなあ。俺よりよっぽど、強かったなあ……」
「……」
「……あの時も、大丈夫。パパは付いてこなくて大丈夫、ティティと一緒に学校に行くんだからって、陽まりと顔を合わせた、滅多にない非番だったのに、…………どうして、付いて行ってやれなかったんだろうなあ」
何かを察した天川が顔を上げ、その黒い石の瞳にきらと微かな光が過ぎる。
「……高階さん。いいよ、その先は言わなくて」
「言わせてくれ。天川も、見せてくれただろう。誰にも、千景にも言えなくて、本当は苦しかったんだ。
……次の日から始まる連休も、休みが取れて陽まりと、実際ティティはいないけど、ティティも一緒に遊びに行けるようなところへ行こうと、楽しみにしてたんだ。学校に行く陽まりを見送るのは、初めてだった。ランドセルも重そうなのにしっかり背負って、パパも一緒に行くよって、結構粘ったんだよ。けど、何言ってるのもう一人で行けるんだから、ティティと、一緒だから大丈夫って、しっかり断られてなあ……」
「……」
「部屋のベランダから見送ってたんだ。俺を見上げて、手を振って元気に歩き出した。ランドセル、やっぱり重そうだけど、もう自分のものだって、しっかりベルト持って背負ってる。ラベンダー色のランドセル。
……家の目の前は、小さな横断歩道で、見晴らしの良いしかない、本当に朝は通学の児童のための道だった。向かいには見守りの保護者もいて、青信号、陽まりはきちんと右左右を確認して、手を上げて渡り出した。何も事故なんか起こる要素なんて一つもない。ただ、目の前を見ていさえすれば。車の運転をしててやることなんかこの一つだろ? ただ、目の前を見さえしていれば——、」
「……、」
「……向かいには右折車が待機していた。どうも様子がおかしい。無表情の顔は前を向いているが俯いて視線は右下に落としたまま。スマフォだ。全く前を見ていない。そこで何故か急発進した。全く、小さな下らない液晶の世界しか見ていなかったんだな。信号は点滅もしていない。陽まりは渡り切っていない。
陽まり、叫んだよ、だけどそれよりもっと大きな音がして、…………、 …………届かなかったな」
「…………高階さん」
天川が声をかけて、その黒い瞳を揺らしているから、言い澱んでこみ上げた俺の激情は、少しだけ凪ぐことが出来た。
さっき、天川が黒い眼光を漲らせて語る時、どうして聞かせるんだと恨めしく思ったけど、その気持ちが今は憑依したように俺の心臓の皮一枚となっている。
俺も、きっと彼に伸しかかって、汚濁の吐け口の利用にしているんだ。
「思うよ。腐ってるなら、俺も同じだ。
……陽まりを轢いた奴を轢死させたことは、その罪を償うつもりだが、彼奴のことは、一生赦すつもりも後悔もしていない」
「……親の代から腐ってる奴と、子のために堕ちた人とは、違うよ」
「違うかも知れない。でも、俺も腐ってた。あの事故の前から、きっと腐ってたんだ。
……よく言われるけど、清廉潔白。いつも明るくて爽やか、何の曇りもなさそうだとか。そんなこと、全然ない。本当は。
……人を救いたいと、役立てる仕事がしたいとあの仕事に就いたのに、他人の安全にばかり構いきりになって、実際自分の家族は、『信頼』という甘えを押しつけてきっと蔑ろにしていた。本当は一番に守られなければならないのに。
陽まりは寂しがって、犬を欲しがった。ティティっていう、白いチワワだったんだけどさ。それを与えたのも、きっと多忙を誤魔化しの隠れ蓑にした、間に合わせに過ぎなかったんだよ」
「……」
「ティティは、可哀想なことに病気になって、三年もしない内に死んでしまった。陽まりは悲しんだけど、もうすぐ小学生になるんだから、泣かない、お姉さんになるんだから泣かないってすぐ……。偉かったなあ。俺よりよっぽど、強かったなあ……」
「……」
「……あの時も、大丈夫。パパは付いてこなくて大丈夫、ティティと一緒に学校に行くんだからって、陽まりと顔を合わせた、滅多にない非番だったのに、…………どうして、付いて行ってやれなかったんだろうなあ」
何かを察した天川が顔を上げ、その黒い石の瞳にきらと微かな光が過ぎる。
「……高階さん。いいよ、その先は言わなくて」
「言わせてくれ。天川も、見せてくれただろう。誰にも、千景にも言えなくて、本当は苦しかったんだ。
……次の日から始まる連休も、休みが取れて陽まりと、実際ティティはいないけど、ティティも一緒に遊びに行けるようなところへ行こうと、楽しみにしてたんだ。学校に行く陽まりを見送るのは、初めてだった。ランドセルも重そうなのにしっかり背負って、パパも一緒に行くよって、結構粘ったんだよ。けど、何言ってるのもう一人で行けるんだから、ティティと、一緒だから大丈夫って、しっかり断られてなあ……」
「……」
「部屋のベランダから見送ってたんだ。俺を見上げて、手を振って元気に歩き出した。ランドセル、やっぱり重そうだけど、もう自分のものだって、しっかりベルト持って背負ってる。ラベンダー色のランドセル。
……家の目の前は、小さな横断歩道で、見晴らしの良いしかない、本当に朝は通学の児童のための道だった。向かいには見守りの保護者もいて、青信号、陽まりはきちんと右左右を確認して、手を上げて渡り出した。何も事故なんか起こる要素なんて一つもない。ただ、目の前を見ていさえすれば。車の運転をしててやることなんかこの一つだろ? ただ、目の前を見さえしていれば——、」
「……、」
「……向かいには右折車が待機していた。どうも様子がおかしい。無表情の顔は前を向いているが俯いて視線は右下に落としたまま。スマフォだ。全く前を見ていない。そこで何故か急発進した。全く、小さな下らない液晶の世界しか見ていなかったんだな。信号は点滅もしていない。陽まりは渡り切っていない。
陽まり、叫んだよ、だけどそれよりもっと大きな音がして、…………、 …………届かなかったな」
「…………高階さん」
天川が声をかけて、その黒い瞳を揺らしているから、言い澱んでこみ上げた俺の激情は、少しだけ凪ぐことが出来た。
さっき、天川が黒い眼光を漲らせて語る時、どうして聞かせるんだと恨めしく思ったけど、その気持ちが今は憑依したように俺の心臓の皮一枚となっている。
俺も、きっと彼に伸しかかって、汚濁の吐け口の利用にしているんだ。
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