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1巻
1-3
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彼に見惚れてしまったことに気付いて、取り繕うように英奈もベリーのカクテルに口をつける。
「わたし、中学高校と陸上をやってたんです。長距離――マラソンとか駅伝じゃないほう。結局陸上は高校で辞めちゃったんですけど、シューズにはすごく思い入れがあったので、作る側にまわりたいと思って、今の会社に就職したんです」
「夢を叶えたってことですか?」
「うーん……どうだろう、最近になって、やっと夢に近付いたといったところです」
入社二年目までは、営業で鍛えられた。
三年目になって、学生時代の陸上経験からユーザー目線を買われて企画部に配属されたが、英奈が出した案はまだ日の目を見ていない。手が届きそうで届かない目標を追いかけるのは、学生時代も社会人になってからも同じなんだと痛感する日々だ。だけど、充実しているし、今の部署で頑張っていきたいと思っている。
……仕事に夢中になりすぎて恋愛を疎かにした結果、彼氏を失ってしまったけれど。
「仕事が好きなんですね」
気持ちが落ちかけた英奈を、維人の優しい声が引き戻した。
ダークブラウンの瞳には批判的な色は少しもなくて、英奈を認めてくれているみたいで照れくさい。だけど嬉しい。この三ヵ月間、ずっと英奈を縛ってきた仕事への罪悪感を、彼はたった一言で解きほぐしてくれた。
彼は、すごく不思議な人だ。
初対面の自分にここまで良くしてくれる理由はないはずなのに、心を読んだみたいに英奈がほしい言葉をくれて、こんなにも優しくしてくれる。
「守谷さんは、どうしてこんなに親切にしてくれるんですか……?」
維人の目が、またすーっと細められる。
まただ。また、英奈を映す彼の瞳に、甘い熱が宿っている。
「葉月さんが好きだからですよ」
心臓が飛び上がってドッと変な汗がふき出した。顔に熱が集中している。
ライクのほうですか? なんてふざけられる雰囲気ではない。
彼の眼差しは真剣で、見つめ合ううちに胸がキュンとしてしまう。
だけど、そんなわけがない。
今日はじめて会った相手だ。優しく親切にしてくれる彼に英奈が惹かれるのはわかるとしても、彼が英奈を好きになる要素なんてないはずだ。
みっともなく道端で泣き崩れて、ヨレヨレの姿を見られてしまったし、その前には、失礼にも彼の誘いを断った。
「そんなわけ……だって、初対面ですし……」
ほんの一瞬、彼は答えを探すみたいに目を伏せた。
「そうですね……一目惚れかもしれません」
「あっ――ありえない」
笑って否定した英奈に、維人は体ごと向きなおった。
膝が触れて、彼のぬくもりが伝わる。
抱きしめられたときの感触や匂いが呼び起こされて、肌がざわりと粟立った。
「どうしてありえないと思うんですか? 葉月さんは可愛いですよ。俺は、こんなに笑顔が素敵な人をほかに知りません」
「そ、そんな……」
英奈の脳は、ありえない状況を否定しようと必死になって今日一日をさかのぼっていく。
自分は、彼の前でそんなに笑っていただろうか?
酒が入ったうえに混乱した頭では、うまく記憶を辿れない。
「葉月さんの素敵なところは、可愛らしさだけじゃないですよ。面識のないご夫婦の力になろうとする優しいところも、強がりで、頑張りすぎるくらい頑張り屋なところも、俺は好きです。だから、俺には甘えてください。俺が、葉月さんに甘えてほしいんです」
顔から火が出そう……
こんな情熱的なセリフは、現実のものだなんて思えない。
恥ずかしさのあまり、顔を伏せてグラスを取り、とろりとしたカクテルをいっぺんに流し込んだ。しかし、味がしない。脈だけがやたらと加速して、体がどんどんふわふわしていく。
もしかして、夢を見ている?
素敵な人と、甘い夜を過ごす夢――
クラリと目が回る。
英奈の手から、空のグラスがそっと奪われる。
ふらついた英奈の体が引き寄せられて、彼の肩に頭を預けるように支えられた。
距離が縮まると、彼の匂いに包み込まれてしまった気がした。
「そろそろ、お開きにしましょう。部屋まで送ります」
帰りたくない……なんて、自分らしくない言葉が浮かぶ。
維人を見上げると、ちょうど彼も英奈の顔を覗き込もうとしていたところで、鼻先が触れ合いそうな距離に彼の端整な顔があった。
時が止まったみたいに、二人は互いに見つめ合ったまま動けなかった。
ダークブラウンの瞳が、また英奈を甘やかそうと瞬いている。
彼の指先が頬を辿って、優しくうなじに差し入れられていく。
くすぐったさに首をすくめながら、英奈はゆっくり目を閉じた。
◆ ◇ ◆
「葉月さん」
「ん……?」
英奈は重い瞼を押し上げて、自分を呼ぶ維人をぼんやりと見上げる。
淡いオレンジの明かりが視界を照らし、眠気を誘う。
頭の中がふわふわしている。体が熱くて、指一本動かすのも億劫だ。
ここは、どこだろう……
真上から英奈を見下ろす維人が、こつんと額を合わせてきた。
「今、落ちてました?」
落ちていた……?
首を傾げようとすると、頭の下でやわらかな枕が形を変える。いつの間にか、ベッドに寝かされているらしい。
「俺となにしてたか、覚えてますか?」
困ったような、英奈をからかっているような維人の声に、頼りない記憶の糸をなんとか手繰り寄せようとする。
「守谷さんと……バーで、お酒を飲んでました……」
「それから?」
大きな手が、優しく髪を撫でてくれるのが心地いい。
酩酊した英奈の口元には、自然と笑みが浮かぶ。
「んー……」
維人と、いろんな話をした。楽しくて、つい飲み過ぎてしまって……それから……
おぼろげな記憶の最後は、英奈にとってずいぶん都合のいいものだった。
『葉月さんが好きだからですよ』
――あぁ、わかった。これは夢だ。
いったいどこの物好きが、平凡顔の地味なフラれ女をお持ち帰りするというのか。
あまりにも惨めな英奈を哀れんで、神様が極上の夢を見せているに違いない。
だったら、この夢を楽しんでみるのもアリだ。
「守谷さんが、好きだって……いっぱい、褒めてくれて……甘えていいって……」
ふふっと笑ってしまう。いったい、どこからが夢だったんだろう。すごく幸せな夢だ。
「そのあとは?」
「んー…………あ、キス……」
バーで、キスをした。
唇が重なって、濡れた舌が絡み合って、首筋を撫でられて……信じられないくらい気持ちが良かった。
「バーを出たあとも、たくさんしましたよね。覚えてますか?」
それは知らないけれど、夢の中の設定ではそうなんだろう。
芸能人が同僚になっていたり、ゾンビに追いかけられたり、空を飛んだり。夢なんて、辻褄が合わないのが普通だ。
適当にうんうん頷くと、維人は眉尻を下げて苦笑した。
「葉月さん……かなり酔ってますね」
「ううん、ぜんぜん、酔ってないですよ……」
「俺が、もっと良識のある人間だったら良かったんですけど」
なにを言っているんだろう。彼はすごくいい人だ。見ず知らずの人にも優しくて、大人の余裕があって……
「好きですよ、葉月さん。優しくしますから」
「あっ……」
腰に触れられて、自分のものとは思えない甘い声が漏れる。
ふと見ると、英奈は下着姿だった。恥ずかしさが込み上げてきたが、腰に置かれた彼の手から伝わる熱に、はいとも簡単に溶かされてしまう。
「続けていいですか?」
なにを? なんて訊かなくてもわかる。
ノーと言ったら、夢から覚めてしまいそう。まだまだ、彼の腕の中で甘えていたい。
「はい」と小さく返事をした英奈に、彼が触れるだけのキスをする。
本当の恋人みたいに、キスは徐々に深くなり、薄く開いた唇を彼の舌が割った。口付けに翻弄された英奈は、夢に身を委ねて彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
すると維人は愛おしげに英奈の髪を撫でて、何度も英奈の名前を呼ぶ。
気持ちいい。彼のシャツ越しに伝わる体温と、愛情深いしぐさに心がほどけていく。
「本当に触りますよ、葉月さん。いいですか?」
「はい…………んっ……」
するりと背中に回った手が、慣れた手付きでブラのホックを外した。締め付けから解放されて体は楽になったけれど、腕から肩ひもを抜かれて彼が上体を起こすと、途端に心許なさに襲われる。
「どうして隠すんですか」
「は、恥ずかしい……」
「可愛いですね。でも、俺には全部見せてください」
「どうして見るんですか……」
「葉月さんが好きだからです。俺は、葉月さんの全部が知りたいんです」
胸を隠した英奈の手が、優しく取り払われてシーツの上に落とされる。
夢のはずなのに、羞恥心まですごくリアルで戸惑ってしまう。
乳房があらわになると、維人は目を細めて息をついた。
「葉月さん、綺麗です。すごく綺麗だ」
彼は惚れ惚れしたように英奈の裸体を見下ろしながら、両手を腰から上へと滑らせる。
胸に到達した大きな手は、ふくらみを優しく包むようにして揉みはじめる。乳房全体が彼の熱に温められ、頭がさらにふわふわしてしまう。
「感じやすいんですね。硬くなってる」
「あっ……!」
先端をぐにっと押しつぶされて体が跳ねた。
優しく全体を揉みながら、時折ツンと立った乳首を転がされ、そのたびにビクビクと体が震えて甘ったるい声がこぼれてしまう。
「あっ、ん……ぁ…………そこ、もぅ……ダメ……」
与えられる快感があまりにもリアルで、英奈はぎゅっと枕の縁を掴んで目を瞑る。再び彼の上体が迫り、全身が維人の熱と匂いに包まれた。
「嫌いですか?」
そうではないけれど、腰の内側が疼いて、もどかしくて苦しい。
嫌だとかダメだとかじゃなくて、気持ちよすぎて怖いのだ。こんなふうに、時間をかけて愛されたことなんてなかったから。
けれど、彼はそんな英奈の不安も見透かして、優しく寄り添ってくれている。
首を横に振った英奈の気持ちを探るように、彼の手が胸から離れて下肢に伸びる。
「こっちを触ってほしい?」
ショーツのクロッチをひと撫でされて、内腿がビクンと震えた。そこがどんなに湿りけを帯びているかがわかり、英奈の頬に熱が集まる。
「赤くなって可愛いですね、葉月さん」
艶っぽい低音にゾクリとした。
ショーツをよけて、彼の指が濡れた秘部に触れる。維人はやわらかな手付きで花弁を広げ、ゆるゆると指先で蜜口を探る。
「力を抜いててください」
「はい……」
反対の手で髪を撫でられると、体は素直に彼を受け入れようと弛緩していった。
とぷりとぬかるみに沈み込んだ長い指が、膣壁を擦りながら奥へ進む。じれったいほどゆっくり抜き差しされて、お腹の奥がズンと重くなる。
とろけきった花芯を愛撫する指が増やされて、強い刺激に腰の内側から熱が全身に広がった。淫猥な水音がどんどん大きくなっているのは、気のせいではない。
「葉月さん、感じてくれてるんですか? すごく濡れてる」
「んっ、ちがっ……! あっ、ぁぁっ……!」
否定的な言葉を口にしても、体は彼のもたらす愉悦に溺れきっている。
悶える英奈に何度も口付けを落として、彼は「可愛い」と繰り返す。
快感に抗うように唇を噛んで息を乱す英奈の耳に、低い声が注ぎ込まれた。
「声、我慢しないで聞かせてください」
英奈の上唇を食んで、誘うように唇を開かせてから、維人は舌を侵入させてきた。
声を堪える手段を奪われた英奈は、維人の舌と指を受け入れたまま喉を鳴らし、汗ばんだ体を震わせながら縋りつくように彼のシャツを掴んだ。
「ダメ、もり、やさんっ……! あっ、やだ、いっちゃう……!」
維人の片腕が背後に回り、英奈をぎゅっと抱き返す。
与えられ続ける快感に呑み込まれて、瞼の奥で星が散った。
「あっ――!」
ガクガクと震えながら果てた英奈は、胸を波打たせて脱力する。腕の中でくったりとした英奈の体をぎゅーっと抱きしめて、維人は深い息をついた。
「可愛い……」
堪えきれないようにこぼして、彼は何度も英奈の髪を撫でる。愛情深い行為に心がとろけて、幸せな気持ちがふわふわと膨らんでいく。
肌を重ねる行為に、こんなに幸せな時間があるなんて知らなかった。彼と出会えなかったら、一生知らないままだったかもしれない。
朦朧としながら、英奈は維人の広い背中に腕を回した――
◆ ◇ ◆
瞼に朝日を感じて、英奈はパチリと目を覚ました。
真っ先に目に飛び込んできたのは見知らぬ天井で、距離感や照明の違いから、自分がホテルに滞在していることを思い出す。
そうだ、昨日は最低最悪のクリスマスイブを経験したではないか。
この先二度とサンタクロースもトナカイも見たくないと思うくらい、心の傷は深かった。
(守谷さんがいてくれなかったら、どうなってたんだろう)
彼には感謝するばかりだ。
それにしても、昨夜飲み過ぎたせいか、頭が痛い。頭だけでなく、体もあちこちが――
掛け布団の中で身じろいだ英奈は、自分の隣に横たわる物体を認識して、勢いよく飛び起きた。
(もももももも、守谷さんっ!?)
同じベッドで、守谷維人が眠っている。
顔だけ横に向け、うつぶせになって寝ている彼は、掛け布団から肩がはみ出していて、少なくとも上半身は裸。
絶望的な気持ちで、英奈は自分の体を見下ろす。
全裸。
すっぽんぽんである。
(ふああああああああああああ!!!!)
両手で顔を覆い、心の中で絶叫した。
夢だと思っていたのに! 夢では! なかった!
(あああああどうしたら――いや、待って、最後どうなったんだっけ……!?)
記憶をさかのぼると、バーでの会話や、そのあとのベッドでの甘いひとときは覚えているが、一度目の絶頂のあとからの記憶は途切れてしまっている。
もしかして最後までしていない可能性も……と考えたけれど、どこまでしたかなんて問題じゃない。自分が裸で、昨日知り合ったばかりの男の人と寝ていることが問題なのだ。
(どうしよう……)
いくつもの意味のこもったどうしようを心の中で唱えながら、英奈はぼんやり維人の寝顔を見下ろす。
寝顔は、少しあどけなく見える。
だけど、彼は大人の男の人だ。
整った容姿に、会社経営者というステータスに、穏やかで優しい性格。
彼が入れ食い状態を楽しんでいるとは思わないけれど、女に困っていないのも事実だろう。
これが行きずりの夜というやつだろうか……
(でも、守谷さんは、一晩のために嘘をつくような人じゃないと……思う……)
彼の言ってくれた『好き』を、嘘だと思いたくない。
笑顔が素敵だと言ってくれた。
仕事を頑張りたい気持ちも理解して応援してくれて、強がりなところもわかってくれている。彼の観察力には驚かされるし、きっかけが『一目惚れ』だなんてありえないとは思うけれど……
(……あれ?)
ふと、英奈の中で違和感が首をもたげた。
『そうですね……一目惚れかもしれません』
バーで、自分に親切にしてくれる理由を尋ねたとき、彼はそう答えた。
しかし、彼が英奈と出会ったのは、ホテルのチェックイン手続きのときだ。
『失礼。知り合いとよく似ていたので、つい』
驚いたような顔で英奈を見つめた彼は、確かにそう言った。
英奈と維人は初対面だ。
それなのに、あのとき彼が自分を見る目には、すでに特別な熱量があった。
つまり、あの視線は、英奈ではなく彼の「知り合い」に向けられたものということになる。
(知り合い……? わたしに似た知り合いって、誰……?)
もし、家族や親戚に似ているなら抱けなかっただろう。苦手な相手や、親しい同僚でも同じだ。
英奈を抱けたのは、彼がその「知り合い」に、特別な感情を抱いていたからではないのか?
そう考えると、すべての辻褄が合う気がした。
維人ははじめから英奈に親切だった。ホテルとタクシーの中で少し会話しただけで、食事に誘ってきた。それに、英奈は昨日、彼の前で『笑顔が素敵』と言われるほどキラキラと笑っていたわけではないはずだ。
(そっか……わたしは、その人の代わりだったのかな……)
あの甘い視線も、言葉も、英奈の向こう側にいる特別な誰かに向けられたものだったら……
今すぐ維人を起こして、そうじゃないと否定してほしいと思う反面、真実を知ってしまって、最悪のクリスマスイブからもっと最低のクリスマスを迎えるのは、耐えられなかった。
ぽっかりと胸に穴が開いたみたいに寂しさが押し寄せてきたけれど、それには気付かないふりをして、英奈は書き置きを残して彼の部屋から出て行った。
――それが、一夜の顛末である。
4
株式会社キッピングは国内スポーツメーカーで、多数のスポーツ用品を取り扱っている。
企画部に所属する英奈は、その中でも一般向けのランニングシューズ――世間で指す「運動靴」の企画チームの一員だ。
キッピング本社はオフィス街にあり、英奈の仕事場はその十四階。
駅チカで通勤は楽だし、オフィス街なので周辺には美味しい食事処がたくさんある。
問題は、その利便性のよさが、運動不足に直結しかねないところだ。
小中高陸上部に所属していた英奈は、基本的に体を動かすのが好きだ。
今は仕事で手一杯で、朝に公園をジョギングしたりスポーツジムに通う余裕はないが、甘やかしたら甘やかした分だけ体は鈍る。
バリバリ仕事を頑張るためにも、体力は必須。
そういうわけで、英奈は十四階のオフィスまで、毎朝階段で上がっている。
十四階に到着したあとは、企画部の隣にある休憩室に向かい、持参したお茶を冷蔵庫に放り込み、コーヒーを飲みながらスマホでニュースをチェックするまでが英奈の朝のルーティーンだ。
休憩室はカフェのようにカウンターとテーブルが配置されており、英奈と同じく、ここで朝のスイッチを入れようと準備中の社員が十人ほど好きな場所で席についている。
英奈は、いつものように窓辺のカウンターに座った。
隣に建ったばかりのビルが、ほどよく朝日を隠してくれて、過ごしやすくなった。
しばらくコーヒー片手にニュースを流し読みしていると、背後から声が掛けられた。
「葉月、おはよう。今日も早いね」
「あっ、碇さん。おはようございます」
直属の上司である主任の碇は、二歳と四歳の娘二人をスマホの待ち受けにしている家族思いなパパさんだ。毎日愛妻弁当とコーヒーを持たせてくれる十歳年下の奥さんにベタ惚れで、そういうところがチームの女子社員から「安全」と評されて慕われている。
英奈も、セクハラまがいの失言を繰り返す課長より、主任の碇を頼りにしていた。
「今日の会議、部長も来るらしいよ。部内プレゼン、張り切って頑張ってくれよ」
一つ椅子を空けてカウンターに座った碇は、タンブラーを傾けながら、英奈に親指を立てた。
「部長も来るんですか。緊張しますね……頑張ります」
「今回の葉月の企画は、チーム内でもウケが良かったからなぁ。葉月も気合い入ってるんだろ? 勝負服だもんな」
今日の英奈は、ブルーグレーのブラウスに、いつもよりかっちりめのパンツスタイル。
碇が言っている「勝負服」とは、英奈のブラウスの色のことだ。
「それいつも言ってますけど、関係ないですよ。手持ちに青の服が多いだけです」
吊り目の英奈は、白のブラウスを着ると「いかにも意地悪なお局様」のようになってしまう。
かといって、ピンクやイエローの可愛らしい色合いも似合わないので、ついつい無難な青を買うことが多いのだ。だから、プレゼンのときはブルーのブラウス。
それが碇には勝負服で決めてきたように見えるのだろう。
自分の服をチェックするようにお腹のあたりのシャツを掴んだ英奈に、碇が首を傾げた。
「あれ? 葉月、洗剤変えた?」
「え?」
「なんか、いつもと匂いが違う。いや、違うからな、セクハラに思わないでくれよ?」
「わかってますって」
碇がセクハラしてくるだなんて思っていない。課長じゃあるまいし。
だが、女子として匂いは気になる。
英奈は腕を鼻に引っ付けてみて、碇がなにを言っているのかを理解した。
自分から、ふわりと香る優雅なバラの匂い。
「あー……最近、ちょっとポプリを量産していまして」
一週間前に届いたバラの花束。
維人との通話を一方的に終わらせた英奈は、あのあと急ぎでバラの花束をロッカーに放り込んだ。それでも、どこからか英奈に花束が届いた噂は広まってしまい、同僚や上司から好奇心の眼差しを浴びることになった。後輩の西なんて『やっぱり葉月さんへの贈り物だったんだ……!』と目をキラキラさせる始末で、本当に目立ってしまって困らされた。
その花束を持って電車に乗り込んだらどれだけ人に見られるか……考えただけでゾッとしたのに、捨てられなかった。
美しいバラに罪はないと思って、持ち帰ったのだ。
……別に、送り主が維人だったからではない。
「わたし、中学高校と陸上をやってたんです。長距離――マラソンとか駅伝じゃないほう。結局陸上は高校で辞めちゃったんですけど、シューズにはすごく思い入れがあったので、作る側にまわりたいと思って、今の会社に就職したんです」
「夢を叶えたってことですか?」
「うーん……どうだろう、最近になって、やっと夢に近付いたといったところです」
入社二年目までは、営業で鍛えられた。
三年目になって、学生時代の陸上経験からユーザー目線を買われて企画部に配属されたが、英奈が出した案はまだ日の目を見ていない。手が届きそうで届かない目標を追いかけるのは、学生時代も社会人になってからも同じなんだと痛感する日々だ。だけど、充実しているし、今の部署で頑張っていきたいと思っている。
……仕事に夢中になりすぎて恋愛を疎かにした結果、彼氏を失ってしまったけれど。
「仕事が好きなんですね」
気持ちが落ちかけた英奈を、維人の優しい声が引き戻した。
ダークブラウンの瞳には批判的な色は少しもなくて、英奈を認めてくれているみたいで照れくさい。だけど嬉しい。この三ヵ月間、ずっと英奈を縛ってきた仕事への罪悪感を、彼はたった一言で解きほぐしてくれた。
彼は、すごく不思議な人だ。
初対面の自分にここまで良くしてくれる理由はないはずなのに、心を読んだみたいに英奈がほしい言葉をくれて、こんなにも優しくしてくれる。
「守谷さんは、どうしてこんなに親切にしてくれるんですか……?」
維人の目が、またすーっと細められる。
まただ。また、英奈を映す彼の瞳に、甘い熱が宿っている。
「葉月さんが好きだからですよ」
心臓が飛び上がってドッと変な汗がふき出した。顔に熱が集中している。
ライクのほうですか? なんてふざけられる雰囲気ではない。
彼の眼差しは真剣で、見つめ合ううちに胸がキュンとしてしまう。
だけど、そんなわけがない。
今日はじめて会った相手だ。優しく親切にしてくれる彼に英奈が惹かれるのはわかるとしても、彼が英奈を好きになる要素なんてないはずだ。
みっともなく道端で泣き崩れて、ヨレヨレの姿を見られてしまったし、その前には、失礼にも彼の誘いを断った。
「そんなわけ……だって、初対面ですし……」
ほんの一瞬、彼は答えを探すみたいに目を伏せた。
「そうですね……一目惚れかもしれません」
「あっ――ありえない」
笑って否定した英奈に、維人は体ごと向きなおった。
膝が触れて、彼のぬくもりが伝わる。
抱きしめられたときの感触や匂いが呼び起こされて、肌がざわりと粟立った。
「どうしてありえないと思うんですか? 葉月さんは可愛いですよ。俺は、こんなに笑顔が素敵な人をほかに知りません」
「そ、そんな……」
英奈の脳は、ありえない状況を否定しようと必死になって今日一日をさかのぼっていく。
自分は、彼の前でそんなに笑っていただろうか?
酒が入ったうえに混乱した頭では、うまく記憶を辿れない。
「葉月さんの素敵なところは、可愛らしさだけじゃないですよ。面識のないご夫婦の力になろうとする優しいところも、強がりで、頑張りすぎるくらい頑張り屋なところも、俺は好きです。だから、俺には甘えてください。俺が、葉月さんに甘えてほしいんです」
顔から火が出そう……
こんな情熱的なセリフは、現実のものだなんて思えない。
恥ずかしさのあまり、顔を伏せてグラスを取り、とろりとしたカクテルをいっぺんに流し込んだ。しかし、味がしない。脈だけがやたらと加速して、体がどんどんふわふわしていく。
もしかして、夢を見ている?
素敵な人と、甘い夜を過ごす夢――
クラリと目が回る。
英奈の手から、空のグラスがそっと奪われる。
ふらついた英奈の体が引き寄せられて、彼の肩に頭を預けるように支えられた。
距離が縮まると、彼の匂いに包み込まれてしまった気がした。
「そろそろ、お開きにしましょう。部屋まで送ります」
帰りたくない……なんて、自分らしくない言葉が浮かぶ。
維人を見上げると、ちょうど彼も英奈の顔を覗き込もうとしていたところで、鼻先が触れ合いそうな距離に彼の端整な顔があった。
時が止まったみたいに、二人は互いに見つめ合ったまま動けなかった。
ダークブラウンの瞳が、また英奈を甘やかそうと瞬いている。
彼の指先が頬を辿って、優しくうなじに差し入れられていく。
くすぐったさに首をすくめながら、英奈はゆっくり目を閉じた。
◆ ◇ ◆
「葉月さん」
「ん……?」
英奈は重い瞼を押し上げて、自分を呼ぶ維人をぼんやりと見上げる。
淡いオレンジの明かりが視界を照らし、眠気を誘う。
頭の中がふわふわしている。体が熱くて、指一本動かすのも億劫だ。
ここは、どこだろう……
真上から英奈を見下ろす維人が、こつんと額を合わせてきた。
「今、落ちてました?」
落ちていた……?
首を傾げようとすると、頭の下でやわらかな枕が形を変える。いつの間にか、ベッドに寝かされているらしい。
「俺となにしてたか、覚えてますか?」
困ったような、英奈をからかっているような維人の声に、頼りない記憶の糸をなんとか手繰り寄せようとする。
「守谷さんと……バーで、お酒を飲んでました……」
「それから?」
大きな手が、優しく髪を撫でてくれるのが心地いい。
酩酊した英奈の口元には、自然と笑みが浮かぶ。
「んー……」
維人と、いろんな話をした。楽しくて、つい飲み過ぎてしまって……それから……
おぼろげな記憶の最後は、英奈にとってずいぶん都合のいいものだった。
『葉月さんが好きだからですよ』
――あぁ、わかった。これは夢だ。
いったいどこの物好きが、平凡顔の地味なフラれ女をお持ち帰りするというのか。
あまりにも惨めな英奈を哀れんで、神様が極上の夢を見せているに違いない。
だったら、この夢を楽しんでみるのもアリだ。
「守谷さんが、好きだって……いっぱい、褒めてくれて……甘えていいって……」
ふふっと笑ってしまう。いったい、どこからが夢だったんだろう。すごく幸せな夢だ。
「そのあとは?」
「んー…………あ、キス……」
バーで、キスをした。
唇が重なって、濡れた舌が絡み合って、首筋を撫でられて……信じられないくらい気持ちが良かった。
「バーを出たあとも、たくさんしましたよね。覚えてますか?」
それは知らないけれど、夢の中の設定ではそうなんだろう。
芸能人が同僚になっていたり、ゾンビに追いかけられたり、空を飛んだり。夢なんて、辻褄が合わないのが普通だ。
適当にうんうん頷くと、維人は眉尻を下げて苦笑した。
「葉月さん……かなり酔ってますね」
「ううん、ぜんぜん、酔ってないですよ……」
「俺が、もっと良識のある人間だったら良かったんですけど」
なにを言っているんだろう。彼はすごくいい人だ。見ず知らずの人にも優しくて、大人の余裕があって……
「好きですよ、葉月さん。優しくしますから」
「あっ……」
腰に触れられて、自分のものとは思えない甘い声が漏れる。
ふと見ると、英奈は下着姿だった。恥ずかしさが込み上げてきたが、腰に置かれた彼の手から伝わる熱に、はいとも簡単に溶かされてしまう。
「続けていいですか?」
なにを? なんて訊かなくてもわかる。
ノーと言ったら、夢から覚めてしまいそう。まだまだ、彼の腕の中で甘えていたい。
「はい」と小さく返事をした英奈に、彼が触れるだけのキスをする。
本当の恋人みたいに、キスは徐々に深くなり、薄く開いた唇を彼の舌が割った。口付けに翻弄された英奈は、夢に身を委ねて彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
すると維人は愛おしげに英奈の髪を撫でて、何度も英奈の名前を呼ぶ。
気持ちいい。彼のシャツ越しに伝わる体温と、愛情深いしぐさに心がほどけていく。
「本当に触りますよ、葉月さん。いいですか?」
「はい…………んっ……」
するりと背中に回った手が、慣れた手付きでブラのホックを外した。締め付けから解放されて体は楽になったけれど、腕から肩ひもを抜かれて彼が上体を起こすと、途端に心許なさに襲われる。
「どうして隠すんですか」
「は、恥ずかしい……」
「可愛いですね。でも、俺には全部見せてください」
「どうして見るんですか……」
「葉月さんが好きだからです。俺は、葉月さんの全部が知りたいんです」
胸を隠した英奈の手が、優しく取り払われてシーツの上に落とされる。
夢のはずなのに、羞恥心まですごくリアルで戸惑ってしまう。
乳房があらわになると、維人は目を細めて息をついた。
「葉月さん、綺麗です。すごく綺麗だ」
彼は惚れ惚れしたように英奈の裸体を見下ろしながら、両手を腰から上へと滑らせる。
胸に到達した大きな手は、ふくらみを優しく包むようにして揉みはじめる。乳房全体が彼の熱に温められ、頭がさらにふわふわしてしまう。
「感じやすいんですね。硬くなってる」
「あっ……!」
先端をぐにっと押しつぶされて体が跳ねた。
優しく全体を揉みながら、時折ツンと立った乳首を転がされ、そのたびにビクビクと体が震えて甘ったるい声がこぼれてしまう。
「あっ、ん……ぁ…………そこ、もぅ……ダメ……」
与えられる快感があまりにもリアルで、英奈はぎゅっと枕の縁を掴んで目を瞑る。再び彼の上体が迫り、全身が維人の熱と匂いに包まれた。
「嫌いですか?」
そうではないけれど、腰の内側が疼いて、もどかしくて苦しい。
嫌だとかダメだとかじゃなくて、気持ちよすぎて怖いのだ。こんなふうに、時間をかけて愛されたことなんてなかったから。
けれど、彼はそんな英奈の不安も見透かして、優しく寄り添ってくれている。
首を横に振った英奈の気持ちを探るように、彼の手が胸から離れて下肢に伸びる。
「こっちを触ってほしい?」
ショーツのクロッチをひと撫でされて、内腿がビクンと震えた。そこがどんなに湿りけを帯びているかがわかり、英奈の頬に熱が集まる。
「赤くなって可愛いですね、葉月さん」
艶っぽい低音にゾクリとした。
ショーツをよけて、彼の指が濡れた秘部に触れる。維人はやわらかな手付きで花弁を広げ、ゆるゆると指先で蜜口を探る。
「力を抜いててください」
「はい……」
反対の手で髪を撫でられると、体は素直に彼を受け入れようと弛緩していった。
とぷりとぬかるみに沈み込んだ長い指が、膣壁を擦りながら奥へ進む。じれったいほどゆっくり抜き差しされて、お腹の奥がズンと重くなる。
とろけきった花芯を愛撫する指が増やされて、強い刺激に腰の内側から熱が全身に広がった。淫猥な水音がどんどん大きくなっているのは、気のせいではない。
「葉月さん、感じてくれてるんですか? すごく濡れてる」
「んっ、ちがっ……! あっ、ぁぁっ……!」
否定的な言葉を口にしても、体は彼のもたらす愉悦に溺れきっている。
悶える英奈に何度も口付けを落として、彼は「可愛い」と繰り返す。
快感に抗うように唇を噛んで息を乱す英奈の耳に、低い声が注ぎ込まれた。
「声、我慢しないで聞かせてください」
英奈の上唇を食んで、誘うように唇を開かせてから、維人は舌を侵入させてきた。
声を堪える手段を奪われた英奈は、維人の舌と指を受け入れたまま喉を鳴らし、汗ばんだ体を震わせながら縋りつくように彼のシャツを掴んだ。
「ダメ、もり、やさんっ……! あっ、やだ、いっちゃう……!」
維人の片腕が背後に回り、英奈をぎゅっと抱き返す。
与えられ続ける快感に呑み込まれて、瞼の奥で星が散った。
「あっ――!」
ガクガクと震えながら果てた英奈は、胸を波打たせて脱力する。腕の中でくったりとした英奈の体をぎゅーっと抱きしめて、維人は深い息をついた。
「可愛い……」
堪えきれないようにこぼして、彼は何度も英奈の髪を撫でる。愛情深い行為に心がとろけて、幸せな気持ちがふわふわと膨らんでいく。
肌を重ねる行為に、こんなに幸せな時間があるなんて知らなかった。彼と出会えなかったら、一生知らないままだったかもしれない。
朦朧としながら、英奈は維人の広い背中に腕を回した――
◆ ◇ ◆
瞼に朝日を感じて、英奈はパチリと目を覚ました。
真っ先に目に飛び込んできたのは見知らぬ天井で、距離感や照明の違いから、自分がホテルに滞在していることを思い出す。
そうだ、昨日は最低最悪のクリスマスイブを経験したではないか。
この先二度とサンタクロースもトナカイも見たくないと思うくらい、心の傷は深かった。
(守谷さんがいてくれなかったら、どうなってたんだろう)
彼には感謝するばかりだ。
それにしても、昨夜飲み過ぎたせいか、頭が痛い。頭だけでなく、体もあちこちが――
掛け布団の中で身じろいだ英奈は、自分の隣に横たわる物体を認識して、勢いよく飛び起きた。
(もももももも、守谷さんっ!?)
同じベッドで、守谷維人が眠っている。
顔だけ横に向け、うつぶせになって寝ている彼は、掛け布団から肩がはみ出していて、少なくとも上半身は裸。
絶望的な気持ちで、英奈は自分の体を見下ろす。
全裸。
すっぽんぽんである。
(ふああああああああああああ!!!!)
両手で顔を覆い、心の中で絶叫した。
夢だと思っていたのに! 夢では! なかった!
(あああああどうしたら――いや、待って、最後どうなったんだっけ……!?)
記憶をさかのぼると、バーでの会話や、そのあとのベッドでの甘いひとときは覚えているが、一度目の絶頂のあとからの記憶は途切れてしまっている。
もしかして最後までしていない可能性も……と考えたけれど、どこまでしたかなんて問題じゃない。自分が裸で、昨日知り合ったばかりの男の人と寝ていることが問題なのだ。
(どうしよう……)
いくつもの意味のこもったどうしようを心の中で唱えながら、英奈はぼんやり維人の寝顔を見下ろす。
寝顔は、少しあどけなく見える。
だけど、彼は大人の男の人だ。
整った容姿に、会社経営者というステータスに、穏やかで優しい性格。
彼が入れ食い状態を楽しんでいるとは思わないけれど、女に困っていないのも事実だろう。
これが行きずりの夜というやつだろうか……
(でも、守谷さんは、一晩のために嘘をつくような人じゃないと……思う……)
彼の言ってくれた『好き』を、嘘だと思いたくない。
笑顔が素敵だと言ってくれた。
仕事を頑張りたい気持ちも理解して応援してくれて、強がりなところもわかってくれている。彼の観察力には驚かされるし、きっかけが『一目惚れ』だなんてありえないとは思うけれど……
(……あれ?)
ふと、英奈の中で違和感が首をもたげた。
『そうですね……一目惚れかもしれません』
バーで、自分に親切にしてくれる理由を尋ねたとき、彼はそう答えた。
しかし、彼が英奈と出会ったのは、ホテルのチェックイン手続きのときだ。
『失礼。知り合いとよく似ていたので、つい』
驚いたような顔で英奈を見つめた彼は、確かにそう言った。
英奈と維人は初対面だ。
それなのに、あのとき彼が自分を見る目には、すでに特別な熱量があった。
つまり、あの視線は、英奈ではなく彼の「知り合い」に向けられたものということになる。
(知り合い……? わたしに似た知り合いって、誰……?)
もし、家族や親戚に似ているなら抱けなかっただろう。苦手な相手や、親しい同僚でも同じだ。
英奈を抱けたのは、彼がその「知り合い」に、特別な感情を抱いていたからではないのか?
そう考えると、すべての辻褄が合う気がした。
維人ははじめから英奈に親切だった。ホテルとタクシーの中で少し会話しただけで、食事に誘ってきた。それに、英奈は昨日、彼の前で『笑顔が素敵』と言われるほどキラキラと笑っていたわけではないはずだ。
(そっか……わたしは、その人の代わりだったのかな……)
あの甘い視線も、言葉も、英奈の向こう側にいる特別な誰かに向けられたものだったら……
今すぐ維人を起こして、そうじゃないと否定してほしいと思う反面、真実を知ってしまって、最悪のクリスマスイブからもっと最低のクリスマスを迎えるのは、耐えられなかった。
ぽっかりと胸に穴が開いたみたいに寂しさが押し寄せてきたけれど、それには気付かないふりをして、英奈は書き置きを残して彼の部屋から出て行った。
――それが、一夜の顛末である。
4
株式会社キッピングは国内スポーツメーカーで、多数のスポーツ用品を取り扱っている。
企画部に所属する英奈は、その中でも一般向けのランニングシューズ――世間で指す「運動靴」の企画チームの一員だ。
キッピング本社はオフィス街にあり、英奈の仕事場はその十四階。
駅チカで通勤は楽だし、オフィス街なので周辺には美味しい食事処がたくさんある。
問題は、その利便性のよさが、運動不足に直結しかねないところだ。
小中高陸上部に所属していた英奈は、基本的に体を動かすのが好きだ。
今は仕事で手一杯で、朝に公園をジョギングしたりスポーツジムに通う余裕はないが、甘やかしたら甘やかした分だけ体は鈍る。
バリバリ仕事を頑張るためにも、体力は必須。
そういうわけで、英奈は十四階のオフィスまで、毎朝階段で上がっている。
十四階に到着したあとは、企画部の隣にある休憩室に向かい、持参したお茶を冷蔵庫に放り込み、コーヒーを飲みながらスマホでニュースをチェックするまでが英奈の朝のルーティーンだ。
休憩室はカフェのようにカウンターとテーブルが配置されており、英奈と同じく、ここで朝のスイッチを入れようと準備中の社員が十人ほど好きな場所で席についている。
英奈は、いつものように窓辺のカウンターに座った。
隣に建ったばかりのビルが、ほどよく朝日を隠してくれて、過ごしやすくなった。
しばらくコーヒー片手にニュースを流し読みしていると、背後から声が掛けられた。
「葉月、おはよう。今日も早いね」
「あっ、碇さん。おはようございます」
直属の上司である主任の碇は、二歳と四歳の娘二人をスマホの待ち受けにしている家族思いなパパさんだ。毎日愛妻弁当とコーヒーを持たせてくれる十歳年下の奥さんにベタ惚れで、そういうところがチームの女子社員から「安全」と評されて慕われている。
英奈も、セクハラまがいの失言を繰り返す課長より、主任の碇を頼りにしていた。
「今日の会議、部長も来るらしいよ。部内プレゼン、張り切って頑張ってくれよ」
一つ椅子を空けてカウンターに座った碇は、タンブラーを傾けながら、英奈に親指を立てた。
「部長も来るんですか。緊張しますね……頑張ります」
「今回の葉月の企画は、チーム内でもウケが良かったからなぁ。葉月も気合い入ってるんだろ? 勝負服だもんな」
今日の英奈は、ブルーグレーのブラウスに、いつもよりかっちりめのパンツスタイル。
碇が言っている「勝負服」とは、英奈のブラウスの色のことだ。
「それいつも言ってますけど、関係ないですよ。手持ちに青の服が多いだけです」
吊り目の英奈は、白のブラウスを着ると「いかにも意地悪なお局様」のようになってしまう。
かといって、ピンクやイエローの可愛らしい色合いも似合わないので、ついつい無難な青を買うことが多いのだ。だから、プレゼンのときはブルーのブラウス。
それが碇には勝負服で決めてきたように見えるのだろう。
自分の服をチェックするようにお腹のあたりのシャツを掴んだ英奈に、碇が首を傾げた。
「あれ? 葉月、洗剤変えた?」
「え?」
「なんか、いつもと匂いが違う。いや、違うからな、セクハラに思わないでくれよ?」
「わかってますって」
碇がセクハラしてくるだなんて思っていない。課長じゃあるまいし。
だが、女子として匂いは気になる。
英奈は腕を鼻に引っ付けてみて、碇がなにを言っているのかを理解した。
自分から、ふわりと香る優雅なバラの匂い。
「あー……最近、ちょっとポプリを量産していまして」
一週間前に届いたバラの花束。
維人との通話を一方的に終わらせた英奈は、あのあと急ぎでバラの花束をロッカーに放り込んだ。それでも、どこからか英奈に花束が届いた噂は広まってしまい、同僚や上司から好奇心の眼差しを浴びることになった。後輩の西なんて『やっぱり葉月さんへの贈り物だったんだ……!』と目をキラキラさせる始末で、本当に目立ってしまって困らされた。
その花束を持って電車に乗り込んだらどれだけ人に見られるか……考えただけでゾッとしたのに、捨てられなかった。
美しいバラに罪はないと思って、持ち帰ったのだ。
……別に、送り主が維人だったからではない。
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