一夜の夢では終われない!? 極上社長は一途な溺愛ストーカー

立花 吉野

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1巻

1-1

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   1


 真っ赤なバラの花束とメッセージカードを交互に見比べて、葉月英奈はづきえなは首を傾げる。

(ん?)

 ランチから戻ると、会社の自分のデスクの上に花束が置かれていた。
 綺麗にラッピングされた花束には、リボンでとめられた白のメッセージカードに『忘れられない』という一文と、携帯の電話番号が書かれているだけ。送り主の名前はない。

(忘れられない……?)
「それ、さっき届いたところです。総務の和田わださんもうらやましがってましたよ~。彼氏さんからのサプライズですかぁ?」

 英奈の隣のデスクに戻ってきた後輩の西にしが、にんまりと目をかまぼこ型にしている。
 年下の彼女のある意味残酷な質問に、英奈は最近バッサリ切ったばかりの茶色いボブを揺らして否定した。

「まさか」

 だって、彼氏はいない。
 これまでの人生で付き合った人は一人だけ。
 もし、この花束とメッセージが健吾けんごからのサプライズなら、笑い話にもならない。
 半年ほど前に九年交際した英奈を一方的に振って、若い子に乗り換えたのは健吾のほうなんだから。

「でも、それって絶対に男の人からですよね。だって赤いバラの花束ですし! それに、『忘れられない』って――あっ、すみません! 覗こうと思ったんじゃなくて、見えちゃって……」

 亀のように首を縮めて謝罪する西は可愛い。
 入社二年目の彼女の目は、恋に恋する乙女のように、キラキラと英奈を見上げている。きっと、仕事の虫の英奈にバラの花束なんてロマンティックな贈り物が届いたものだから、あれこれイマジネーションを膨らませていたに違いない。

(可愛いって、こういうことを言うんだろうな)

 髪を染めて、ふんわりエアリーなパーマをかけて、メイクを変えてみたけれど、やっぱり英奈は西のような可愛い女子にはなれない。
 英奈がふふっと笑うと、西が「すみません」とペコッと頭を下げた。

「いいよ。こんなの届いたら、気になるよね」

 きっと、これはなにかの手違いで英奈のもとに届いてしまったのだろう。
 このまま英奈がスルーしたら、送り主は、本当に気持ちを伝えたかった人にフラれたと思ってしまうかもしれない。情熱的なバラの花束を『忘れられない』なんてメッセージ付きで贈るなんて、大胆すぎてちょっとビックリするけれど、ドキッとするアプローチだ。
 手違いで別の人に届く……なんて運命の悪戯いたずらで、結ばれたかもしれない二人が結ばれないのは悲しすぎる。

(うん。やっぱり、間違ったところに届いてるって伝えてあげなくちゃ)

 英奈は内線で総務部に連絡を入れた。
 納品書から送り主がわかれば、どういうわけだか間違って届いた花束を引き取ってもらえると期待したが、あいにく総務はまだランチ中で人手が足りていないようで、内線は空振りに終わった。

(どうしよう……)

 英奈はこのあと会議がある。次に時間が取れるのは夕方だ。

(せっかくのお花がしおれちゃうのは、もったいないな。だからって、勝手にラッピングを外して生けるなんてできないし)

 メッセージカードに書かれた携帯の電話番号。

(よし、かけてみよう)

 スマホとメッセージカードを手に廊下に出た英奈は、すぐに番号に発信する。
 どんな相手が出るのだろう? ちょっとドキドキする。
 呼び出し音が繰り返される間、英奈はなんと言おうか頭の中で言葉を整理しながら、廊下の隅のほうへと歩いていく。突き当たりの壁はガラスになっていて、隣の新しいオフィスビルがよく見える。
 呼び出し音が途切れ、英奈は息を吸い込む。その一瞬の無言の間に、男性の声が答える。

『はい』
「もしもし、葉月英奈と申します。そちらから送られたお花が、手違いでわたしのもとに届いてしまっているので、直接お電話を――」
『手違いじゃありませんよ』

 電話の向こうで、フッと男が笑う。

『お久しぶりです、葉月さん。守谷もりやです』

 え――――
 窓から射し込む陽光の中で、英奈は息をすることも忘れる。

『あの花は、俺が、葉月さんに贈ったんです。間違いだと思ったんですか?』

 会話の内容が、まったく頭に入ってこない。
 想定外の出来事に驚いて、心臓がドッと血を送り出し、全身が燃えるようだ。
 記憶が鮮やかによみがえる。
 スマホを通した彼の声は、あの夜何度も耳にそそぎ込まれた響きとは少し違って聞こえる。けれど、わかる。確かに彼だ。

「な、なんで……」

 勤務先なんて、教えていない。連絡先も交換しなかったのだ。先のない関係だとわかりきっていたから。
 だから、彼が目覚める前に慌ててホテルから逃げたのに――
 彼はまた、フッと笑ったような息を漏らした。

『それは、花を贈った理由ですか? あの夜も何度も言いましたが、俺は葉月さんが好きです。だからですよ』

 そうだ。彼はあの夜、何度も英奈に好きだと言って、とろけるほど甘い夜をくれた。
 だけど、そうじゃない、そうじゃなくて……

『それとも、どうして会社を知っているのかって質問でしたか?』

 ランチ終わりに人が行き交う廊下の突き当たりで、英奈はこくりと頷いた。
 電話越しに頷いていたって相手には伝わらない。返事をしなくちゃ――英奈が息を吸い込むと、今日聞いたどの声より優しい彼の声が耳に届いた。

『髪、切ったんですね。似合ってます』
「っ――!」

 反射的にスマホを耳から引き離して、通話終了のボタンを押した。

(なっ、なんで――!?)

 キョロキョロと周囲を見回したけれど、当然近くに彼の姿があるはずもなく。
 だけど、髪を切ったことを知っていた。職場も、部署も。

(どういうこと!? 調べたってこと!?)

 一夜の夢のはずだったのに。それがまさか、こんなことになるなんて……
 スマホとメッセージカードをぎゅっと胸に抱いたまま、しばらく英奈は壁に寄りかかって動くことができなかった。



    2


 それは、昨年末のクリスマスイブのこと……
 予想以上の光景に、ふんわりとした絨毯じゅうたんの上で、英奈の足はぴたりと止まった。

(カップルばっかり……!)

 ここは、関東の人気観光地にある、全室オーシャンビューが売りのリゾートホテルだ。
 元々は家族向けの色の強い宿泊施設だったそうだが、三年前の改装で庭園にプチチャペルを建造し、リーズナブルなウエディングプランを打ち出して若年層からの支持を得た。そのため、バレンタインやハロウィン、クリスマスなどの若者たちのイベント時期には、カップルが式場の下見を兼ねてやって来る。
 そして今日は、十二月二十四日――クリスマスイブ。
 わかっている。恋人たちの聖地にお邪魔しているのは、自分のほうだ。だから、幸せいっぱいの恋人たちが視界に入るのはしょうがないと覚悟していたけれど、さすがにここまでだなんて……
 広々としたエントランスホールには、五メートルはある立派なツリーが飾られていて、宿泊客――というか、カップルの自撮りスポットになっている。落ち着いたブラウンで統一されたフロントでチェックイン手続きをしているのも、カップルばかりだ。
 さすがにラウンジにはシニア世代の姿もちらほら見えるけれど、英奈と同年代のぼっち勢は見当たらない。『素敵なホテルだね』なんて言いながら、人目もはばからずイチャつくカップルたちは、今の英奈には街中のイルミネーションよりまぶしく映った。
 思わず、特大のため息がこぼれだす。

(はぁぁぁぁ……。わたしだって、健吾と来るはずだったのに……)


 ――それは、三ヵ月前。
 九月二十四日。英奈の二十六歳の誕生日のことだった。
 零時れいじちょうどにスマホが鳴った。
 相手は、恋人の新浪にいなみ健吾。
 英奈と健吾は同じ高校の同級生で、二年のクリスマスに健吾からの告白で交際がスタートした。今年のクリスマスで、付き合って九年を迎える予定だった。
 学生の頃と違って、社会人になってからは、お互い仕事で予定が合わないことが多かった。週末や連休も、高校教師の健吾は部活関係で、スポーツメーカー勤務の英奈は仕事関連のイベントごとで互いに忙しく、ゆっくり会えるのはせいぜい月に一度かそれ以下だったけれど、九年の絆はダテじゃない。
 今年の誕生日も、平日ど真ん中で一緒には過ごせないが、こうして日付がかわってすぐに電話をくれた……
 寝ぼけながらも、英奈はこみあげる嬉しさに頬を緩ませて電話に出た。
 するとなぜか、やたらと声の高い女が英奈を罵倒ばとうしはじめたのだ。
 間違い電話かとスマホの画面を三回は確認したが、番号は間違いなく健吾のものだ。ほどなく、電話越しに彼の慌てた声が聞こえてきた。

『らむちゃん、なにやってんの!』
『だって! この女とは別れるって言ってたじゃん! なのに、どうしてスマホのスケジュールにこの女の誕生日が残ってるの!?』

 え? どういうこと?
 シングルサイズのベッドで、英奈はむくりと起き上がった。

『落ち着いて。ほら、らむちゃん、電話貸して!』
『いやだよ! 今すぐこの人と別れて! わたしだけって言ってたのは嘘なの!? パパに会う前にけじめをつけるって話は!? 今すぐ別れてよ!』

 ……それから三十秒と経たず、健吾は英奈との別れを決断した。
 突然すぎて、頭が真っ白になった。
 だって、付き合って九年だ。
 大学時代から、健吾は『付き合って十年目の記念日に、結婚しよっか』と言っていたのに。

『俺たち、何年も前から終わってただろ。お前、可愛げがないんだよ。仕事仕事って、男かよ。もう女として見れない』

 九年一緒にいた健吾からの、最後の言葉がそれだった。


「うぅっ……」

 思い出しただけで鼻の奥がツンとするし、胃のあたりはキリキリ痛む。

(も、もう立ち直ったんだから!)

 ギュッと顔の真ん中に力を込めて、こみ上げる感情を抑え込む。負の感情を振り切るようにぶんぶん首を横に振ると、ストレートの黒髪がさらさらと涼やかな音をたてた。
 三ヵ月も経ったのだから、忘れるべきだ。いつまでも引きずっているなんて、そのほうが悔しい。悲しみと決別するための儀式は、この三ヵ月で十分すぎるくらいしてきたじゃない!
 思い出の品を処分したり、友達と飲み明かしたり、ベタすぎる恋愛映画を見てこき下ろすつもりが逆にうらやましすぎて号泣したり、呪いのわら人形の通販サイトを検索したり。そういうあれこれを一通りやって、気持ちに区切りはついている。

(頑張れ、わたし! カップルなんて怖くない! ぼっちでなにが悪い!)

 こういうときこそ、大人の女性として、クールに振る舞うのだ!
 それに、今日は感傷にひたりに来たわけではない。
 大切な目的があるのだ。怖じ気づくな、葉月英奈!
 英奈はぎゅっと拳を握って意を決すると、フロントに向かって歩きだした。三つある窓口の真ん中で受付をしていたカップルが、ちょうど手続きを終えたようだ。

(あ、お仕事っぽい人もいる――)

 左側のフロントで手続きをしている男性は、一人のようだ。近くに連れがいる様子もないし、品のいいダークスーツをまとっていて、うしろ姿は明らかにビジネスマン。
 彼の落ち着いた低い声が、かすかに英奈のもとまで聞こえてくる。

「――それから、車の手配をお願いします。イングリットホールに、十七時に着くように」
「ご乗車は何名様でしょうか?」
「一人です」

 どうやら彼も、今夜のコンサートに行くらしい。
 しかも一人旅。なんだか妙な親近感が湧いてくる。
 そうこうしているうちに、ビジネスマンの隣が空き、ホテルマンがウェルカム感溢れる挨拶で英奈を出迎えてくれる。

「ようこそお越しくださいました。ご予約のお客様でしょうか?」
「はい、予約した、葉月英奈です。チェックインをお願いします」

 フロント担当はすぐに感じのいい笑顔で受付手続きを進め、英奈の前に受付票とボールペンを差し出した。重厚感のある黒のボールペンを手に取り、さっそく記入をはじめると、ふと、真横から強烈な視線を感じた。

(ん?)

 顔を上げると、隣のビジネスマンが驚いたように英奈を見ている。
 思わずドキッとしてしまうくらいのイケメンだった。
 英奈より年上の、三十前後の年齢だろうか。さらさらの黒髪から覗く切れ長の目は一見クールで、身に着けているスーツも明らかにお高そうだけど、不思議と威圧的な印象は受けない。きっと、顔つきが上品だからだろう。
 こんな美形、一度見たら絶対忘れない。そして、英奈の記憶のどこにも、彼の姿はない。

(見覚えはないんだけど……)

 彼は時が止まったようにじっと英奈を見つめ続けている。
 彼の対応をしているホテルマンも困惑の表情を浮かべているが、それにも気付いていない様子だ。まるで、彼の世界からは、英奈以外のすべてが消えてしまったよう――
 あまりにも熱っぽい視線に、頬がジリジリと熱をびていく。
 英奈には、こんなイケメンに熱視線を送られる理由がない。
 顔はやや吊った目以外に特徴もない、どこにでもあるような平凡な造りだし、百六十四センチの身長はどちらかといえば高いほうに分類されるとはいえ、モデルやらグラビアアイドルみたいな抜群のプロポーションからは程遠い普通体型。
 だから、たぶん彼は……

(人違い……してるよね?)

 英奈がゆっくり首を傾げると、彼ははっとしたように微笑んで、会釈えしゃくした。

「失礼。知り合いとよく似ていたので、つい」

 ほら、やっぱり人違い。

「よくあることですから」

 英奈は愛想笑いを返して受付票の記入に戻った。
 チェックインが済んだときには、彼はもういなかった。


   ◆ ◇ ◆


「チケットよし、スマホよし、お財布よし――」

 ホテルの部屋で小さめのショルダーバッグの中身を指さし確認して、最後にドアの前で全身をチェックする。
 自分の手持ちの中で一番無難ぶなんな黒のワンピースに、カーディガンを合わせた。足元は低めヒールのパンプスで、アウターはベージュのノーカラーコート。
 形状記憶かと疑いたくなる頑固がんこな直毛は、サイドで緩く編み込みにして垂らし、バレッタを留めた。アクセサリー類は音が鳴るといけないから、シンプルなピアスだけ。
 さんざんネットで調べた結果の「まわりから浮かない、お呼ばれクラシックコンサートスタイル」にまとめたつもりだけど、これが正解なのかは、会場に行ってみるまでわからない。
 高校時代からの友人・牧瀬まきせエリカが招待してくれたクラシックコンサート。
 海外から著名な楽団と指揮者を招いてのクリスマスイベントで、その奏者の一人がエリカなのだ。
 海外が拠点の彼女が『絶対来てね!』とチケットを手配してくれたのだから、どうしても行きたかった。だから、英奈は今日ここへやって来たのだ。
 努力して夢を掴んだ友人の晴れ姿を見られると思うと、期待と緊張が混ざり合って落ち着かない。気持ちはまるで「お稽古けいこママ」状態だ。

(感極まって泣かないようにしなくちゃ……)

 準備を整え部屋を出た英奈は、頼んだタクシーが到着するまでエントランスホールのソファに腰掛けて時間を潰すことにした。予約した十六時半にタクシーがホテルに到着したら、英奈のスマホに連絡が入る予定だ。
 スマホを確認すると、十六時二十五分。そう待たずともよさそうだ。
 なにげなく周囲を見回す。
 エントランスホールのソファに座る数組の大半がシニア層で、時間を気にしている様子の人たちもいるから、彼らもコンサートに行くためにタクシーを待っているのかもしれない。
 そのとき、見覚えのあるスーツの男性がエレベーターホールから出てきたのが視界に入った。

(あっ――)

 さっきのビジネスマンだ。
 英奈を誰かと見間違えたイケメンビジネスマンは、相変わらずビシッと決まったスーツスタイルで、エントランスに向かおうとしていた。
 時計を確認していた彼は、顔を上げるとなにかに気付いたように、一瞬足を止めた。
 そして、なにを思ったのか、迷いなく英奈のほうに歩いてくると、目の前で前で立ち止まった。

「さっきは、失礼しました」

 穏やかな声と、自分の失態を恥じているような微笑みに、英奈は両手を振って「いえ、お気になさらず」と返した。ただの人違いをわざわざ改めてお詫びに来てくれるなんて、律儀りちぎな人だ。

「コンサートに行かれるんですか?」

 彼はごく自然な動作で、英奈の隣の一人掛けソファに腰を下ろした。
 普通ならちょっとびっくりするところだけど、彼の場合は嫌な感じがしなかった。
 ほかにもたくさん座るところはあるが、きっと英奈に声を掛けたついでに、近くの椅子で休憩しようと思ったのだろう。そして、黙っているのも感じが悪く取られかねないから、こうして雑談のネタを振ってくれたに違いない。
 そう思うのは、彼の態度に警戒したくなるような「がっついた」ところがないからだ。
 その様子をクールと取る人もいるかもしれないが、英奈には親しみやすさに映った。

「はい、友人が招待してくれたんです。えぇっと……そちらも、コンサートですよね?」

 彼のことをなんと呼べばいいのか、少し迷ってしまった。

「あぁ、失礼しました。守谷と言います」

 彼は胸ポケットから名刺入れを取り出し、英奈に一枚差し出す。

「どうも、ご丁寧にありがとうございます。葉月です、名刺は持ってなくて、すみません」

 反射的に受け取ってしまったけれど、英奈は完全なプライベートだから名刺なんて持ち合わせていない。彼はそれも見越していたようで、焦りを浮かべた英奈とは違って落ち着いた笑みを返してくれる。

「大丈夫ですよ。俺が怪しい人間じゃないことを証明したかっただけですから」

 きっとタクシーが到着したら、二度と会うことも、話す機会もない英奈にまで名刺を渡して名乗ってくれるなんて、どこまでいい人なんだろう。
 名前は、守谷維人ゆきと
 株式会社トライアドホールドという社名と連絡先。
 名前の上には、小さく「代表」と書かれている。

(代表……って、社長さんってことだよね? 三十歳くらいに見えるのに、すごい……)

 社長の肩書に驚きつつ、彼の落ち着いた雰囲気に納得する。
 イケメンなうえに性格もよくて、地位もある。
 なんという勝ち組。
 それは精神的余裕もたっぷりあるわけだ。

(きっと、うんざりするほどモテるんだろうなぁ。わたしとは住む世界が違うよ)

 うんうんと心の中で頷いていると、英奈たちのななめうしろで携帯の着信音が鳴った。

「もしもし。はい、そうですが――えぇっ、来られないって、そんな……――」

 六十代くらいの白髪の男性は、しばらく控えめな声で話していたが、弱り切った様子で「わかりました」と電話を切った。
「お父さん、どうしたの?」と、白髪の男性の隣にいる、同じく白髪の女性が尋ねる。

「タクシーが、遅くなるそうだ」
「遅くなるって、どれくらい? 開演は十七時半ですよ?」
「開演には間に合わんだろうな……」
「そんなぁ……せっかく、あの子が大きな舞台で演奏しているところが見られるのに……そうだ、今から、別のタクシー会社に頼んでみたらどうかしら?」
「今から手配したんじゃどのみち間に合わんよ。一応、聞いてみるが――」

 白髪の男性が、つえをついて立ち上がる。その背中を視線で追いながら、白髪のご婦人が今にも泣きそうに眉を下げていた。
 体をひねって一部始終を見ていた英奈まで、胸が痛くなる。
 きっと、今日の演奏に彼らの身内も出演するのだ。
 地元民ならホテルには泊まらない。ここにいるということは、遠方から、コンサートのためにわざわざこの地へ足を運んだ――そして、事情はわからないが、タクシーが時間通りに到着しないために、開演時間に間に合いそうもない。
 友人が奏者というだけで、英奈は楽しみでしかたなかったのだ。
 それが、こどもや孫だったら?
 どうにかしてあげたい。

「葉月さん」

 耳に心地いい低音が英奈を呼ぶ。
 維人に向きなおると、彼はさっきと同じ穏やかな表情に、ほんの少し悪戯いたずらな色を浮かべていた。


   ◆ ◇ ◆


 後部座席に英奈と維人を乗せて、タクシーは夕方の道を走り出した。

「あのご夫婦、すごく喜んでくれてましたね。よかった」

 あのあと、維人は英奈に『葉月さんは、俺の車に乗ってください』と言った。
 どうして? と疑問だったけれど、彼には考えがあるようだったから、質問は挟まずに彼に任せることにした。英奈の承諾を取り付けると、維人はフロントに向かおうとしていた白髪の男性を追いかけて、英奈が手配した車を彼らに使ってもらうことで話をまとめたのだ。
 英奈は遠くから見守っていただけだが、維人は魔法でも使ったのかと疑いたくなるほど、あっさり相手を納得させてしまった。
 どう説明したら、あんなにあっさり納得してもらえるのだろう?
 普通は多少、警戒されたり遠慮されたりするものだと思うが、白髪のご夫妻は維人にガッチリ心を掴まれた様子で、タクシーのドアが閉まる瞬間までニコニコしきりだった。
 そして彼は、自分の善行を鼻にかける様子もない。
 本当に、なんていい人なんだろう。

「葉月さんは、優しいですね」
「えっ? わたしですか?」
「はい。あのご夫婦が困ってるのを見てるときの葉月さん、自分のことみたいに苦しそうな顔してましたよ」

 きっと、すごくけわしい顔をしていたに違いない……しかも、それを見られていたなんて。
 おまけに『優しい』だなんて言われてしまって、なんとも面映おもはゆい。
 それに、あのご夫婦を助けたいという英奈の願いは、彼の協力なしには果たされなかったのだから、称賛されるべきは英奈のお節介焼きな性格ではなく、彼の行動力だ。

「わたしは力になりたいと思っただけで、実際に行動してくれたのは守谷さんです。ご協力ありがとうございました」


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