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1巻

1-3

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 まっすぐに花純の目を見たまま謝罪する彼の事情と、反省の気持ちはよく伝わってきた。
 でも、どんな理由があっても人を傷付けるようなことを言っていいとは思わない。はじめからこうして話せていたら、花純だってあんな思いをせずに済んだのに。

「悪かった。一方的にひどいことを言ってしまった。本当に、悪かった」

 本当にひどい態度だった。傷付いた。
 そんな人がreach731だと知ってショックだった。
 だけど、こうして話しているうちに……傲慢ごうまんな御曹司でしかなかった舘入利一が、少しずつSNSでやりとりしていたreach731に重なっていく。

「君が着替えたのは、俺のせいだろう? 待ち合わせ場所で君を見たとき、後悔した。おろしたての服は、見合いのためじゃなくて、俺のためだったのに」
「べ、別にそういうわけじゃないですけど……!」
「隠さなくていい。会えるのを楽しみにしてたのは、君だけじゃない。いや、俺のほうがずっと」

 テーブルの上の花純の手に、彼の手が重なる。

「会いたかった、jimikoさん」
「っ――……!」

 ドキッと胸が高鳴って、顔に熱が集中する。慌てて手を引っ込めたけれど、手の甲に感じた彼の熱は簡単には消えてくれない。
 びついていた乙女心が、音をたてて動きだしたのを感じた。

「君に会いたかった。ずっと前から、会いたかった。それに、君は地味なんかじゃない。君は可愛い」

 目を見て『君は可愛い』なんて言われたものだから、花純の顔はさらに熱くなる。

「見合いのときの俺は忘れてくれ。本当の俺は、君が知ってるreach731のほうだ。信じてもらえるまで何回でも言う。君と会いたかった。君は可愛い。君が好きだ」
「ちょ、ちょっとそれやめて……!」
「頼む、帰るなんて言わないでくれ。俺は、本気でjimikoさんと――」
「わ、わかりましたからっ!」

 花純は顔を片手で隠した。

(無理無理無理……! なんでこの人、こんな場所で好きとか可愛いとか言えるの!?)

 これ以上、彼の口から思わせぶりな言葉が飛びだしたら、どうにかなってしまいそうだ。
 お世辞せじ。わかっているのに、受け流せずに喜んでいる馬鹿な自分がずかしい。胸にクる。ダイレクトに。ガクガク心を揺さぶられる。
 だけど、それよりも――
 舘入商事の次男坊。イケメンで長身で、望んだものはなんだって手に入るような男の人だ。
 お見合いの席で会った彼は、まさにそんな傲慢ごうまん御曹司だった。
 そんな彼の別の一面。それがreach731。
 映画の時間を調べて、チケットを予約して。人の多い駅ビル前で、待ち合わせの相手を探して銅像の周りをくるくる回ったりなんかして。自分の非を認めて、頭をさげて。
 大企業の御曹司で、プライドだって見上げるほど高いだろうに、いい歳した男の人が、レディースの、こんなに可愛いカーディガンまで買ってきた。
 それは全部、jimikoのため――
 花純が、reach731に会う日を楽しみにしていたように、彼も。
 好きと可愛いは別としても、会いたかったの言葉には、きっと嘘はない。
 彼の行動が、それを証明している。
 憎みきれない。
 彼と――reach731と重ねてきた日々を思えば、余計に。

「jimikoさん――」
「そ、そのjimikoっていうの、やめてください。いや、わたしが自分でつけたんですけど、声に出されると、ちょっとキツいっていうか……」
「あぁ……、悪かった。じゃあ、花純さん」

 そっちなのか!
 瀬村さん、と呼ばれることを予想していた花純の顔からは、いっこうに熱がひいてくれない。
 下の名前で呼ぶのは両親と姉だけだ。異性からの『花純さん』呼びは、異常なほど胸に響く。

「花純さん、俺と一緒にいてほしい」
「も、もう、わかりましたからっ。コーヒー飲んで、映画、行きましょ……!」

 照れ隠しにコーヒーを飲むふりをしながらちらりと見ると、向かいの席で、今日はじめて御曹司の口元にやわらかな笑みが浮かんだ。ホッとしたような、嬉しそうな、満たされた笑顔。

(っ…………!)

 隣の女子二人が「きゃ~~」と抑えた声で騒いでいたけれど、彼の笑顔を正面から見た破壊力は、声も出ないほどだった。


   ◆ ◇ ◆


(さすがにもう、先に帰っちゃったかな……)

 彼と一緒に映画を観終えた花純は、映画館の化粧室の出入り口で周囲をうかがっていた。
 混雑のピークを過ぎた化粧室から、そろりと通路に出る。
 不覚にも、アクション映画で泣いてしまった。それも号泣。感動した。
 ボロボロに化粧崩れした顔を見られたくなくて、エンドロールが終わってすぐに『お手洗いに!』と化粧室に逃げ込んだ。
 さすがに週末の、それも人気作の上映後とあって、鏡の前をキープするのにはそれなりの時間を要した。そこから、にじんだアイメイクやらげたファンデーションやらの手直しをはじめたのだから、できる限り急いだとはいえ、彼が待ちくたびれて帰っていたとしても責める気にはなれない。
 reach731なら待っていてくれるのではという期待と、御曹司の舘入利一なら帰っているだろうというちょっと冷めた確信の間で揺れながら、花純はきょろきょろと周囲を見回した。
 まだ通路は混雑している。彼の姿は見当たらない。

(帰ったのかな……)
「花純さん」

 背後から声をかけられて、思わずビクッと飛びあがってしまった。
 振り返ると、花純の反応に少し笑った彼がいる。
 待っていてくれた――トクトクッと、鼓動が喜んだみたいに駆け足になる。
 花純は勢いよく頭をさげた。

「お待たせして、すみませんっ」
「謝らなくていい。はい、これ」

 彼が差しだしたのは、封筒に似た厚みのない平袋だ。映画館のロゴが大きく入っている。

「わたしにですか?」
「そう、君に」

 受け取って中身を出してみると、今観た映画のポストカードが入っていた。
 思わず「あっ」と声をあげてしまう。

「コレクションに必要だろう?」

 お気に入りの映画は、必ずポストカードを買って帰るようにしていた。チケットの半券と一緒にコレクションしているのだと、reach731に話したのはいつのことだっただろう。

(覚えててくれたんだ……)

 ジーンと胸が熱くなる。他愛ない会話を、彼は覚えていてくれた。

「わぁ……、ありがとうございます! 買おうかなって思ってたんです」
「そうだと思った。泣くほど感動してたから」
「っ! それは、言わないでくださいっ……!」
「あれだけ人がいたのに、泣いてるのは君だけだった」
「わかってます! だから言わないでほしいんですっ!」

 アメコミ原作のアクションムービーで号泣する人間は多くない。実際、超満員の映画館でスンスン泣いていたのは花純くらいだ。
 だから余計にずかしいのに、えてそこを指摘してくるなんて……!
 花純の頬が熱を持ちはじめると、彼はなぜか満足したように目を細めた。

(……意地悪御曹司の顔!)

 もう一度お礼を言いながら、バッグから手帳を取り出す。カバーのしっかりした大きめの手帳を開いて、しっかりとポストカードを挟み込む。手帳をバッグにしまうと、彼が腕時計を確認していた。そういえば今、何時だろう?
 時刻は午後六時四十分。
 映画を観たあとの予定は決めていなかったけれど、これがデートなら、解散にはまだ少し早い。
 あくまで、デートなら。

(っ…………!!)

 カフェでの会話がよみがえって顔が熱くなる。彼が、『好き』だの『可愛い』だのと、思わせぶりなことを言うからだ。過剰に意識してしまう。

「花純さん、食事に行かないか?」
「――食事、ですか?」
「この近くのイタリアン。居酒屋みたいにごちゃごちゃしてる、小さな店だ。でも味はいい」

 食事といわれて、分不相応ぶんふそうおうな高級店か、怪しいバーに連れていかれたらどうしようと身構えてしまった。だけど、小さなイタリアンなら。
 肩肘かたひじ張らずに、楽しい時間を過ごせるかもしれない。
 それに、お見合いで出逢ってからカフェまでずっと言い争ってばかりで、共通の趣味の話はなにもできていない。
 これでは、お互いの素性を明かして映画を観ただけになってしまう。
 reach731と、もう少し話してみたい。
 今の映画、reach731はどう感じた? 出演していた俳優の過去作のお気に入りは? 予告編で気になった映画はどれ?
 彼となら、いくらだって話せる気がする。

「せっかく君に会えたのに、ろくに話せてない。それに、君が今の映画のどこでそんなに感動したのか、ぜひ詳しく知りたい」
「あれはっ、感動のシーンだったじゃないですかっ」

 肩をいからせて言うと、彼はまた少し笑った。

「そうだな。確かに、いい演出だった。行かないか、花純さん。必要なら、俺と一緒だと親御さんに連絡しよう」
「そ、それは結構ですからっ」

 そんなことをしたら、まるでお見合いで知り合って意気投合したみたいに思われるじゃないか!
 だけど、彼が同じように思ってくれていたことが嬉しくて、あっさりと頷いてしまった。
 舘入利一と過ごすのではなく、reach731と食事に行く。
 映画を観て、そのまま食事に行くだけ。
 それってやっぱり、デートなんだろうか。彼は、どういうつもりだろう。
 オフ会? デート?
 だけど訊いたら、また花純を勘違いさせるようなことを平気で言いそうだから、そこは曖昧あいまいなままにしておこうと、そっと心に決めたのだった。


   ◆ ◇ ◆


 駅ビル裏の、小さなイタリアンバル。
 店内はかなりにぎわっていたが、花純たちが到着したとき、ちょうどお客が入れ替わるタイミングだったようで、待つことなくカウンターの並びの席につけた。
 人気の窯焼かまやきピザをはじめとする料理と、お手頃で美味おいしいワインは花純の心を鷲掴わしづかみにする。
 ド庶民にとっては、値段のわからない店に入るのは恐怖でしかない。こういった店を選んでくれて、安心していた。
 こぢんまりした店内は、陽気な音楽と人の声が混ざり合って、楽しげな空気が満ちている。
 はじめはひじが触れ合いそうな距離で座ることに緊張していたけれど、彼が濃厚な映画話にどこまでも付き合ってくれるので、気付けば花純は夢中になって話していた。

「そうなんです! あの映画のいいところは、他にはない切なさ! 特に最後の、二人がすれ違うシーン!」
「二人が結ばれたのかどうか、えて描いていない」
「そう、そうなんです~!! 結ばれてほしいけど、ヒロインの性格を考えると……!」
「難しいだろうな……でも、だからこそ、二人は認め合えたんだろう」
「あぁ~本当にそのとおりっ! 利一さん、やっぱりわかってくれてる!! ほんとに、眼球が溶けちゃうんじゃないかってくらい泣ける傑作ですよね!」

 お店についてからの会話があまりにも盛り上がり、花純は自然と彼のことを『利一さん』と呼ぶようになっていた。

「泣かせすぎると、君の眼球は溶けるのか。映画に誘うときには、気を付けないといけないな」

 利一が笑ってグラスに口をつける。
 また映画に誘うつもりだと言われたみたいで、ちょっとドキッとする。
 なにを期待してるんだか、と自分をしかりつけながら、花純もグラスのワインを流し込んだ。

「君は、年に何本くらい観てるんだ?」
「んー数えたことないですけど、週に二、三本は絶対映画館で観てます。それ以外は、レンタルで」
「きっかけは?」
「映画を観はじめたきっかけですか?」

 利一は頷きながら、グラスにワインをそそぐ。「飲むか?」と訊かれて、花純は一瞬迷ったけれど、結局グラスを差し出した。
 がれたワインをグイッと半分ほど飲んで、深い息を吐きだす。
 ――映画にのめり込んだきっかけ。
 花純にとっては、お酒の力で心を麻痺まひさせておかなければ、なかなか話せない内容だった。

「大学二年のとき、すっごく派手に失恋したんです――」

 ――大学二年の初夏だった。
 二つ年上の先輩、小金沢隆司こがねざわたかしから告白された花純は、はじめての彼氏に舞い上がっていた。
 付き合いはじめて三日目にキスされたとき、ちょっと手が早いな、と思った。
 十日目で家に誘われたとき、正直ためらった。だけど、お泊まりを渋って嫌われたくなくて、結局彼の家に泊まった。
 ところがその四日後には、彼は花純の親友と付き合いはじめていた。
 別れ話どころか、花純には連絡もなしにだ。
 頭が真っ白になった。
 処女をささげて四日で捨てられたなんて、信じられなかった。
 彼には電話にも出てもらえず、『どういうこと?』と親友を問いただした。
 すると彼女は、勝ち誇った顔で『たぁくん、花純じゃ満足できないんだって』と嘲笑あざわらった。
 彼は、話したのだ――初めての夜の、花純の失態を。
 性急なキスとおざなりな愛撫に、体はこれっぽっちも彼を受け入れなかった。濡れないままに迎えた初体験の痛みは想像以上で、花純は泣きながら何度も『痛い』と訴えた。
 結局、彼は途中でえてしまった。
 彼の不満げな態度と投げやりな舌打ちに、花純は自分を責めた。
 彼を満足させてあげられなかったのは、自分のせいなんだ。痛みくらい、我慢すればよかった。恋人を失望させた。自分は、人並み程度のこともできないダメな人間なんだ――自責の念にとらわれて、『次は頑張る』と言った花純に、彼は『もういい』と背を向けて眠った。
 彼の隣で、泣いて朝を迎えた。
 絶対、誰にも知られたくなかった。
 それなのに、彼はよりによって花純の親友にそれを話し、彼女は彼女で、親友だったはずの花純に同情するどころか彼を選んだ。
 なにがいけなかったのか、花純は自分の行動のすべてを後悔して過ごした。
 ベッドで泣いたせいで捨てられたのか、容姿も性格も地味なところがいけなかったのか、どれだけ思い悩もうと、明確な答えはわからない。
 彼氏と友達と純潔をいっぺんに失って、自分だけが暗闇に突き落とされたような気がした。
 思い出すたびに、胸の奥がギューッと苦しくなる。
 グラスに残っていたワインを、乱暴に胃袋へ流し込む。
 こんな話、とても利一には聞かせられない。
 あの頃の自分は、本当に馬鹿だった。
 付き合いたての彼氏の顔色をうかがうことに必死で、自分を大切にしなかった。
 それでなくても、処女がどうのこうのなんて具体的な内容は話せないけれど。

「派手に失恋して、結構ヘコんじゃって。それで、大学二年の夏休みは、引きこもるって決めたんです。だけど、いくら寝ても気持ちは楽にならなくて。そんなときに、夜中にたまたまテレビをつけたら、映画を放送してたんです。利一さん、知ってるかなぁ。『いきなりクレイジーサンタ』って映画なんですけど」
「……あの、サンタの恰好をした、三人組の中年男が主人公の?」
「そう、それ! 奥さんに浮気されて離婚した三人のオジサンが、クリスマスの日にサンタのコスプレで元妻に復讐ふくしゅうするって映画。もう、大笑いですよ! わたしの言いたいこと、全部代弁してくれてるみたいで!」

 キレたオヤジたちが『あんなに俺の××で××したくせに!』と口汚く元妻をののしり、浮気相手を前にして『この××××野郎が!』と叫ぶシーンで、花純は涙を流して大笑いした。
 現実世界の辛さなどどうでもよくなるほどおバカで痛快なコメディが、花純のにごった心をすすいでくれたみたいだった。
 花純がその話をすると、利一の表情が少し険しくなる。
 きっと、映画の内容から、花純の言う失恋が相手の浮気によるものだったと気付いたのだろう。だけど、彼はわざわざ花純が語らなかった部分を突っ込んで聞いてくるようなことはしない。
 繊細で大人な、reach731の優しいところ。
 心の傷跡に触れることなく、痛みに共感してくれたみたいな、温かい目が花純に向けられていた。

「それがきっかけだったのか」
「はい。現実逃避って言ったらそうなんですけど、いろんな物語を追えるのが、とにかく楽しくて。残りの大学時代は、ずーっと家とレンタルショップの往復でした。就職してからは、まとまったお金が入るぶん余計に熱くなっちゃって。映画館に通いだして、ついには感想を書くためにSNSのアカウントまで作っちゃって」

 あはは、と笑って利一に顔を向けると、彼は目を逸らすことなくじっと花純を見つめていた。
 ドキッとさせる、熱っぽい視線に動けなくなる。

「それで君は、jimikoさんになったのか」

 jimikoを呼ぶ彼の声は、どこまでも優しい。
 ――画面越しのreach731も、ずっと、こんなふうに優しく呼びかけてくれていた?
 他愛ない映画話も、くだらない天気の話も、ぼんやりとした仕事の愚痴ぐちも、全部こんなふうに、優しく聞いてくれていた?
 胸がどんどん高鳴っていく。
 自分は、この人に会いたかったのだと痛感させられる。恋をした相手が、今目の前にいるのだと自覚するほど、脈は加速していくばかりだ。
 どうしよう。恋してしまう。画面を越えて、舘入利一本人に。

「花純さん」

 jimikoを呼ぶ声と同じ響きで、花純を呼ぶ。
 はい、なんて返事をしている場合じゃない。
 現実世界で恋をはじめるなんて、自分にはまだ早すぎるのに――

「俺は、浮気はしない」
「…………え?」
「花純さんだけだ」
「っ――!?」

 心臓が、バンッとはじけた。
 この人は、なにを言いだした!?

「だから花純さん、俺と」
「いや、あのっ」
「結婚を前提に」
「いや、ちがっ、だからあのっ!」

 全身から汗がふきだす。
 彼の唇がふたたび開く。絶対にその先を、言わせてはいけない。
 まだなんの心の準備もできていない――!

「り、りいちさっ」

 ――花純の声と、ガシャン、という派手な音が重なった。
 左足がじっとりと濡れる。咄嗟とっさには反応できなかった。
 カウンターの上で転がるワイングラス。テーブルから流れ落ちる赤い液体が、花純の白いワンピースを汚していく。

「ああっ、すみませんっ!」

 隣に立っていた女の人が謝罪の声をあげたのと、カウンター越しに店員がタオルを差し出してくれたのは、ほとんど同時だった。

「大丈夫か」

 利一がタオルを受け取ってワンピースを押さえたと思ったら、背後から店員の手が伸びてきてテーブルに広がったワインが手際よく拭き取られていく。

「お怪我はありませんか?」
「本当にすみません! 立ったときに、バッグがグラスに当たっちゃったみたいで……!」

 利一にワンピースを拭かれながら、店員と女の人に同時に話しかけられて、花純は対処する優先順位を決められない。まだ頭が混乱している。
 ワインをこぼした彼女は、今にも泣きそうな顔をしていた。

「本当にごめんなさい……!」
「大丈夫ですよ。ちょっとかかっただけですし」
「すみません、本当にごめんなさい……ワンピース、白なのに……」
「本当に、気にしないでください。大丈夫なので!」

 花純が笑いながら身振りで『行ってください』と示すと、彼女は申し訳なさそうに眉を下げたまま、彼氏とおぼしき男の人に連れられて店を出た。
 そのときにはすっかりカウンターが片付いたあとで、店内は何事もなかったように騒々しさを取り戻した。

「大丈夫か?」
「はい、平気です。拭いていただいて、ありがとうございます」

 ワンピースは手早く利一が拭いてくれたけれど、ワインのかかった部分は、ほんのり赤く染まっている。今日買ったばかりの白のワンピース、さっそくシミができてしまうなんて。

(あーあぁ……)

 湿ったワンピースを指先で摘まむ。シミができた部分はスカートのあたり。
 だけど、これくらいの範囲なら洗面所で水洗いできそうだ。水洗いしておいて、帰ってすぐに漂白したらシミは残らないかもしれない。

「ちょっと、お手洗いに。水で洗ってきますね」

 花純は、混雑した店内の奥にあるトイレに入った。
 ドアを開いて右手側に手洗い場があり、その奥に一つだけ個室が作られた小さなトイレだ。
 ちょうど空いていてよかった。
 花純はワンピースのすそを持ち上げて、シミになった部分を水洗いした。
 濡れると色が変わって、汚れが落ちているのかどうかわからない。無駄にスカートを濡らしただけな気もする。
 せっかく買ったワンピース。
 もう着られないかもしれないと思うと、なんだか急に悲しくなってくる。
 それに、なんだか足もベタベタする。スカートからしたたり落ちたワインが足を汚したのかもしれない。ペーパータオルを濡らして拭こうと考えたが、トイレにはハンドドライヤーが設置されていて、ペーパータオルはない。代用できそうなものはトイレットペーパーだけ。
 水で濡らしたトイレットペーパーで、足を拭く?
 ボロボロになったトイレットペーパーがストッキングにまとわりつく、悲惨ひさんな未来しか見えなかった。

「はあぁぁ……」

 大きめのため息がこぼれだした。ツイてない。
 でも、助かったとも言える。利一はさっき、重要なことを話そうとしていた。花純の心が、まだ受け入れる準備のできていないことを。

(けっこんを、ぜんてい……)

 顔からボッと火が出そうだった。

(初デートでそんなこと!! OKできるわけないでしょ!! もっと段階踏んでよ!!)

 今自分でデートと認めてしまったことにも、段階を踏んだらOKするのかという疑問が浮かんだことにも、腹立たしいやら恥ずかしいやらで忙しい。
 気持ちをぶつけるように濡れたワンピースを絞っていると、コンコン、とノックの音がした。

「はーい、ちょっと待ってくださいね」
「花純さん」
「利一さん?」

 返事をすると、利一は当然のようにトイレの中に入ってきた。
 別に用を足してるわけではないからいいのだけれど、狭い洗面所だ。大人二人が向かいあって立つと密着度が高い。
 逃げるように、花純は洗面台にじりじりと寄っていった。

「シミは落ちたか?」
「……洗ったんですけど、落ちたかどうかわからなくて」

 その場で利一がしゃがみ込み、濡れたワンピースのスカートをじっと見つめる。
 そんなにまじまじと見なくても……それに、どうして彼は追いかけてきたんだろう。
 まさか、さっきの話の続きをしにきた……?


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