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17:本物のお父さん
しおりを挟む凪咲が住んでいる一帯はファミリー向けのマンションが多く、周辺には幼稚園が複数ある。どの園も似た場所で迎えのバスを停めるらしく、二時が近付くとあちこちのマンションから保護者が出てきては駐車場所で軽い挨拶や雑談を交わしている。
凪咲がマンションから出て来た時も既に三人ほど母親が待っており、更に別のマンションから一人出てきた。彼女達と軽い挨拶を交わす。
さすがにママ友という仲ではないが、それでも彼女達は事情を話すと理解し、時には幼稚園についてや乃蒼が進学する小学校について教えてくれることもあった。
そうして幼稚園のバスが到着すると、一人また一人とタラップから降りてくる。
母親に抱きつく子、すぐに公園に遊びに行きたいと言い出す子、開口一番に「お腹空いた!」と訴える子。様々だ。
そんな中、乃蒼だけは幼稚園の先生に抱っこされながら降りてきた。泣いているのが一目で分かり、凪咲が慌てて声を掛ける。
「乃蒼ちゃん、どうしたの? 何かあった?」
「それが……、乃蒼ちゃん、園でお友達と喧嘩しちゃったんです」
「喧嘩!? そ、そんな、乃蒼ちゃん、どこか痛い? 怪我したの?」
先生の口から出た『喧嘩』という言葉にぎょっとするも「大丈夫です」と宥められた。
バスからもう一人の先生が降りて来た。きっと乃蒼に聞かれないように説明するためだろう。幸い、乃蒼は友人の母親が話をして気を紛らわせてくれているので、それに目配せで感謝を告げ、少し離れた場所で事情を聞く。
曰く、喧嘩といっても言い争いで乃蒼も相手の子も怪我はしていないらしい。だが話を聞くと乃蒼は一方的に言われ続けていたらしく、この話に凪咲の眉間に皺が寄る。
だが母親ではないのだから過剰に口を挟んではいけない。そう自分を落ち着かせ、後で武流に説明するために話を聞く。
どうやら乃蒼は幼稚園に通う男の子に暴言を吐かれたらしい。
それもよりにもよって、親に関して……。
「きっかけは乃蒼ちゃんが使っていた玩具なんです。それを男の子が使いたがって。でも乃蒼ちゃんはまだ遊んでいたから貸してと言われても断ったんですが、その子も引かなくて。次第に二人共声をあげちゃって……」
そんな中、相手の子が乃蒼の家族について触れた。親が居ないくせに、と。
だがそれに対して乃蒼は武流が居ると反論したのだが……、
『一緒に居たって本物のお父さんじゃないんだろ!』
と……。
「そんな……」
あまりの残酷な言葉に凪咲は思わず声を漏らした。
子供ゆえに深く考えず、ただ咄嗟に相手を罵っただけなのだろう。だがそれが分かっても凪咲の胸が苦しさを覚える。自分でさえこれなのだから、言われた乃蒼はどれだけ傷付いただろうか。
横目で見れば乃蒼はいまだ先生に抱き抱えられており、友達やその母親に宥められている。
「乃蒼ちゃん、それを聞いて泣いてしまって……。言った子からの謝罪は受け入れたんですが、よっぽどショックだったんでしょうね、その後も思い出しては落ち込んで泣いちゃっているんです。申し訳ありません、私達がすぐに気付いて止めるべきでした」
「そんな、先生のせいじゃありませんよ」
深く頭を下げられ、今度は凪咲が先生を宥めた。
さすがにこれを管理不行き届きだとは責められない。凪咲が何を言わずとも先生達は既に非を感じているし、一対一で乃蒼を預かっている凪咲とは違い彼女達は少数で十数人を相手にしているのだ。怪我ならまだしも、玩具の順番からくる言い争いに気付けない事だってあるだろう。
相手の親にも事情を話し、後日改めて連絡をするという先生の話でひとまずこの件は終わりとなった。
凪咲では何の判断も出来ない。対処も出来ない。その資格はない。
それに今すべきは乃蒼の心のケアだ。
そう考えて、いまだ先生に抱っこされている乃蒼へと声を掛けた。
「乃蒼ちゃん、おうちに帰ろう」
「……ん」
「抱っこしてあげようか」
ほら、と凪咲が両腕を広げる。
先生に抱き抱えられていた乃蒼がもぞもぞと動いて凪咲へと体を寄せ、首にぎゅっと抱き着き鼻を啜りながら凪咲の顔を見てきた。
目には大粒の涙が溜まっており、擦ったのか目の下も赤くなっている。普段は活発な乃蒼とは思えない切なげな表情だ。見ている凪咲の胸がズキリと痛む。
たまらず強めに抱きしめ、優しく背中を擦ってやる。
「乃蒼ちゃん、お友達と先生にバイバイしようね」
そう促せば、乃蒼が弱々しい声ながらに別れの言葉を友人達に告げた。
その声すらも胸を痛める。
◆◆◆
「そうですか……。そんな事が……」
「お友達とはもう仲直りしたらしいんですが、言われた事がショックだったのか、家で待っている間も時々ぐずるように泣いてました」
その時の乃蒼の様子を思い出せば、自然と凪咲の口から溜息が漏れた。
今日一日、乃蒼はどことなく覇気がなく、そしてふとした時に黙り込んでは洟を啜って目元を擦っていた。凪咲が肩や頭を撫でると落ち着くものの、またしばらくすると……、と繰り返しだ。
今は元気を取り戻し一人でお風呂に入っており歌声が聞こえてくるが、それでも寝るまでにあと一度か二度はぐずってしまうかもしれない。
「最近は落ち着いてますが、俺が引き取ってからしばらくはずっとそんな感じでした。施設に預けていた時はもっと酷かったようです」
「お父さんとお母さんが突然居なくなれば、子供じゃなくたって不安定になりますよね。……でも、お父さんとお母さんかぁ」
「……凪咲さん?」
ふと凪咲が考えを巡らせれば、それに気付いた武流が名前を呼んできた。
だがすぐさま彼が浴室へと視線をやったのは「武流おじ様、乃蒼もうお風呂あがるー」と声が聞こえてきたからだ。
次いですぐさま浴室の扉が開けば暖かな湯気が一気に脱衣所に流れ込み、それと共に乃蒼が姿を現した。くるりとその場で一度回るのはきちんと泡を流し落とせていることを証明するためだ。
……もっとも、背中にはモコモコの泡がまるで羽のようについているのだが。
「……乃蒼、俺が最後に流してやるからお風呂に戻って」
「またぁ? 洗うのって本当に難しい!」
「凪咲さん、すみませんが先にリビングに行っていてください」
武流と乃蒼のやりとりはまるで親子のようだ。
それを眺め、凪咲は頷いて返すとリビングへと向かった。
◆◆◆
「乃蒼ちゃん、今度私の実家の近くのお祭りに行ってみない?」
そう凪咲が提案したのは、夕食も終え、デザートを堪能していた最中。
乃蒼もだいぶ落ち着いたようで「寒い冬にあったかいお部屋で食べるアイスは美味しい」となかなか通な発言をしていた。そんな乃蒼に対して凪咲が提案すれば、彼女は大きな目をパチクリと瞬かせ「お祭り?」と首を傾げた。
「そう。ここから電車で二つだから近いし、お昼からやってる結構大きなお祭りなんだよ」
「でも、お祭りは夏じゃないの?」
「冬でもやるんだよ。暖かい飲み物とかご飯が売ってたり、歌とか手品を見せてくれる人が来るの」
楽しいんだよ、と凪咲が話せば、乃蒼の瞳がパァと輝いた。
次いでくるりと勢いよく武流を見るのは許可を求めているからだ。言葉にせずとも「行きたい!」という気持ちが伝わっているのだろう、武流も苦笑して頷いた。
「俺もその日は休みだから皆で行こうか」
「冬のお祭りなんて素敵!!」
乃蒼が弾んだ声で話す。
「それでね、乃蒼ちゃんに私の家族に会って欲しいの」
「凪咲お姉様の家族?」
「そう。お父さんとお母さん、それにお兄ちゃんが二人。お兄ちゃんも私みたいに家を出て暮らしてるけど、毎年このお祭りの時には集まるの」
「……家族」
日中のことを思い出したのか、途端に乃蒼の表情が暗くなる。
先程まで輝いていた瞳は今は弱々しく、伏目がちに視線をそらすと掠れるような声で「家族」ともう一度呟いた。
その表情の、声の、なんと悲し気な事か。武流が案じて乃蒼を呼び寄せ、そっと優しく頭を撫でる。
そんな乃蒼に対して、凪咲は落ち着いた声で彼女を呼んだ。涙ぐみ始めた瞳が凪咲をじっと見つめる。
「乃蒼ちゃん、あのね……。私、お母さんが産んだ子供じゃないの」
養子、という言葉はきっと乃蒼には通じないだろう。
だからこそ言葉を選んで話せば、乃蒼はもちろん、乃蒼を宥めていた武流さえも小さく「え、」と声を漏らした。
突然家庭の込み入った話をしてしまった申し訳なさはある。だがそれより先に自分は間宮家の込み入った事情を聞いていたのだ。それにきっと乃蒼も理解してくれる、そう信じて話を続ける。
「二人のお兄ちゃんはお母さんが産んだお父さんとお母さんの子供。でもお兄ちゃん達を産んだ後、お母さんは子供を埋めなくなっちゃったの。でもお父さんとお母さんはどうしても子供が三人欲しいって考えて、施設にいた私を家族にしてくれたの」
「……凪咲お姉様」
「確かに血は繋がってないけど、私は皆を家族だと思ってるし、皆も家族だと思ってくれてる。それはきっと言葉で説明するより実際に私の家族に会った方が伝わると思うの。……だから、お祭りで私の家族に会ってくれる?」
問えば、乃蒼は突然のこの話に数度瞬きをし、次いで武流を見上げた。だがすぐさま凪咲へと視線をやり、もう一度武流を見上げ……、そして改めて凪咲へと向き直るとコクリと頷いた。
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