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第肆皿目 トマトの肉詰め焼き
第肆皿目 トマトの肉詰め焼き(前編)
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暗い夜霧の世界とは無縁の煌びやかな街に朝陽が昇る。
早朝の仕込みを終えた狐小路食堂の店主、凛はそんなオレンジ色の太陽を小窓から眩しそうに見上げながら、店内の隅に置かれた箒とちりとりを手に玄関へと向かった。
「今日は少し風が強い、かな?」
誰に話しかけるでもなく、ため息混じりに独り言を呟きながら入り口の清掃を開始する。お客様に気持ちよく来店していただく為に店内だけではなく外まで掃除する事を凛は日課としていた。
しかし今日はいつもより風が吹いているせいか、落ち葉や人間たちが捨てたゴミなどが道を汚し、街の景観を損なわせていた。だが凛は文句一つ垂れる事なく入り口周辺から小路全体を隈なく掃除していく。
「おはようございます、凛どの」
あまりに汚れているのが気になり、繁華街寄りの地面を掃除していた凛へ、そんな風に話しかける声がひとつ。凛が後ろを振り向くと、視界のやや下の方にその者の姿が目に入った。
ふさふさとした薄墨色の見事な毛並み、大きくも凛々しい紅色の瞳。首に首輪を付けてはいないが、野良という感じは全くしない。それどころか品位すらも感じさせる容貌の大型犬だ。
「あっ、犬神さん、おはようございます。朝の巡回ですか?」
凛が柔和な笑顔を向けると、犬神と呼ばれたその犬はクールな顔ながらも嬉しそうに長い尻尾を激しく揺らし、それに返答する。
「ええ。最近ゴミを荒らす輩がいるとの事で、こうして歩き回っているのです」
「それはそれは……お疲れ様です」
「ありがとうございます――では凛どの、また時間が出来た際にお店の方に伺わせてもらいますぞ」
「はい、お待ちしてますね」
熊吾郎よりも、ずっとずっと昔からの常連である犬神に挨拶をし、凛は再び掃除を開始する。そうして仕上げにと店の入り口を掃除し始めた時、再び背後から声が掛かった。
「凛さん。おはよう、ございます」
ゆったりとした口調で話しかけて来たのは、頭に三角巾、口にはマスク用の布、箒とちりとりを持った手には皮の手袋、身体には割烹着を着用した腰の曲がった老婆だった。
「――トメさん。おはようございます」
「はい。おはよう。凛さん、いつも、お掃除してくれて、ありがとうねぇ」
トメと呼ばれた老婆は薄暗い小路を見回した後、皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして凛に微笑む。
店はおろか玄関自体が人間には目視する事が出来ないので老婆には凛が何もない、ただの道を一人で掃除しているように見えている。もちろん凛の可愛らしい狐耳も見えていない。不可視の妖術が掛かっている為だ。
繁華街の方を一人で掃除しているトメは、いつからか狐小路を掃除していた凛に興味を持ち、こうして早朝に出会った時には世間話をよくしていたのである。
「いえいえ。道が綺麗になったら気分も晴れやかになるので」
「若いのに本当に凛さんは偉いわぁ。昔はこの道も活気が溢れていたんだけどねぇ……」
遠い目をして話す老婆がこの話を凛にするのは、もうこれで六度目だった。だが凛は初めて聞いたかのような反応で興味深そうに話に耳を傾ける。
「むかしむかし、あたしがまだ子供だった頃にはね、この先にある、お稲荷様を祀った神社はすっごく活気があってね。今はあたしも腰が悪くなって行けなくなってしまったのだけれど……その頃は本当に此処も賑やかだったわぁ」
「そうなんですね。今は静かで少し寂しい気がします」
「そうねぇ。都市開発とやらで、いつしか誰も通らなくなってしまったけれど……こうして、若い貴女がお掃除してくれるのはとても嬉しい事だわ」
そう言って頬に手のひらを添え、微笑む老婆だったが、すぐに「でも……」と不安そうな口ぶりで言葉を詰まらせた。
「どうかしたんですか?」
「それがねぇ……最近、生ゴミを荒らすカラスが何処からか来たみたいで困っているのよ」
「カラス、ですか?」
先ほど犬神が言っていた事を思い出しながら老婆に訊ねてみる。
「そう。たった一羽なんだけどねぇ、人に慣れているのか、手で追い払おうとしても動じないし……貴女がせっかく綺麗にしてくれても荒らされたら元も子もないでしょう?」
「そうですね。うーん……お腹でも空いてるのかな」
至極真面目そうな顔で凛がそう答えると、老婆は口元に手のひらを当てて、ふふっと声を漏らす。
「そうかもしれないわねぇ。お腹が満たされれば、もう荒らすことはなくなるかもしれないわね」
「何か良い解決策があればいいんですけどね……」
「あたしたちがカラスとお話しでも出来ればねぇ、なんて。ふふっ。それじゃあ、あたしはあっちを掃除してくるわね」
「はい。また明日お会いしましょう」
「ええ、また明日」
繁華街の先を指差した老婆は手のひらをひらひらとさせて立ち去っていった。やがて見えなくなった老婆を見送り、凛はぽつりと呟く。
「カラスさんかぁ……少しお話してみようかな……」
◇
陽が沈み、夜が更けても辺りは喧騒に包まれたままで。人でごった返す繁華街と、酔っ払いすら立ち入らないひと気の全くない狐小路との間。そこに挟まれるようにして立つ電信柱の下に生ゴミの入った袋が次々と置かれる。というのも、この時間になると最寄りの飲食店がこぞってゴミを出し始めるのだ。
そこにやって来たるは、一羽のカラス。
ガァガァという特徴的な鋭い鳴き声を上げることもせず、光沢のあるその黒羽を羽ばたかせながら静かにゴミ袋へと舞い降りる。それから袋を破き、中から客の食べ残しや廃棄された食材の切れ端を啄ばんでゆく。世辞にも綺麗とは言えない食べ方で、一心不乱に食し、袋の中身を道路に散乱させていく。
もちろん、背後から迫る凛の気配に気づいている様子はない。
決して怒鳴ることはせず、あくまで対等の同じ動物として、柔らかい口調でカラスに語りかける。
「カラスさん。こんばんは」
「あん? 今、おデは食事ちゅ――」
人参の皮を嘴で器用に咥えながら振り向いたカラスはもぐもぐと咀嚼しつつ凛に応対する。
「なんダ、人間カァ……って人間ンンン!?」
そして凛の姿を見たカラスは思わずそのオレンジ色の皮を地面に落とし、目をまん丸にして口をあんぐりとさせた。
「いえ、わたしは人間じゃないですよ」
「な、なんデ、おデの言葉が分かるんダ!?」
「人間ではないからです」
「人間じゃないのカァ……。ん? なら、お前は何者なんダ?」
「わたしはこの先を真っ直ぐ進んだ所にある食堂で働いてる凛っていいます」
姿勢を正し、ピンと伸ばした手のひらを胸に当てながら会釈をすると、カラスは目をギョロリとさせ、声を張り上げた。
「あそこのカァ! 狐がやっているという小料理屋のォ!」
「ご存知でしたか。では……話は早いですね」
「なんだト? どういうことダ?」
「……良かったら、うちのお店で御飯を食べていきませんか? もちろん、他のお客様同様、お代は頂きませんし、お好きな物を提供しますよ」
「んグッ! こ、断るッッッ!」
一瞬、ぴくりと身体を震わせ反応したカラスだったが、直ぐにねじ切れんばかりに首を横に振り、凛の申し出を断った。その後も何度か勧めてはみたものの、遠慮している素振りはなく、凛を警戒の目で睨み続けた。
「カラスさん、どうしてでしょうか。理由を聞かせてくれませんか?」
「ウヌヌ……怪しすぎるんダ。お前は怪しイ。信用出来なイ」
「怪しい……ですか。わたしはしがない食堂の店主です。カラスさんをご飯に誘ったのは実はゴミを荒らされて困っている方がいるからなのです。カラスさんがうちでご飯を食べるようになれば、いつでも温かいご飯が食べられますし、路上も荒れなくなります。両者の利益が一致するのです。素晴らしい事だとは思いませんか?」
「うぬゥ……」
カラスは俯き加減に身体を掻き毟り、羽根を散らし始める。一枚、二枚、三枚、四枚と漆黒の羽根がヒラヒラと落ち葉のように道路に落ちていく。
「怪しいと思うのは当然かもしれないです。でもわたしは料理を作り、お酒を振る舞い、お客様が笑顔になってくれるのを見るのが生き甲斐なんです。わたしはカラスさんの笑顔も見たい。その願いを叶えてはくれませんか?」
極めて真摯な対応で凛は返すがカラスは、うぬぬ……と小さく唸り、だが、と付け加えた。
「……おデは狐は信用しない。昔カァちゃんに聞いた事があるんダ。狐は、おデたちカラスを騙して肉を奪った事があるから信用するなト!」
「肉を奪った……?」
そう呟いた凛は指を顎に当て、考える。そういえば海外の、イソップという名の童話にそのような話があったような気がすると。
「ぜったいそんな事しないって誓います。それならこういうのはどうですか? 肉料理をお作りします。どうでしょう?」
「肉カァ……」
自分が想像出来うる限りの肉料理を頭に思い浮かべたのだろう。目を上向きにさせたカラスの口端からは夥しい量のヨダレが溢れでていた。やがてそのヨダレを舌で舐め取り、幼な子のように目を輝かせる。
「と、トマトも付けてくれるカァ?」
「トマト、ですか?」
「あァ! おデはトマトが大好物なんだァ! 南にいた頃は、畑のトマトをよく食べてたんだヨォ!」
「わかりました。そういう事でしたら、トマトを使った肉料理に致しましょう」
「そうカ、そうカァ……トマトと肉……ふふふ……」
「では、行きましょうか」
これでゴミ問題は解決するだろうとニコリと微笑む凛だったが、どういうことか、カラスはその場から動こうとせず浮かない顔をしている。
「カラスさん、どうかしまし――」
「イヤイヤ! おデは騙されないゾ。とびっきりの酒も用意してくれるくらいじゃないト、おデはテコでも動かないゾ!」
「もちろん、用意しますよ。とびっきりのお酒を」
「じゃ、行く! おデ、行く!」
◇
あの騒々しいカラスは何処へやら。席に着いたカラスは、しばらくの間は借りてきた猫のように大人しかった。しかし羽と背筋をピンと伸ばし器用に椅子に座っていたカラスは、やがてキョロキョロと店内を見回し、自分以外誰もいない事を改めて確認したようだった。
「なぁ、狐の」
カウンターを隔てて厨房に立ち、食材の下ごしらえをしていた凛にカラスは神妙な面持ちで話し掛ける。まな板からカラスへ目線をズラすと首を傾げていたカラスが凛の目に入った。
「この店、お前だけでやっているのカァ?」
「はい。わたしだけで、なんとかやってます」
「おデ、外からよく見てたガ、結構客、入ってる時あるよナ。特に金曜。一匹で大変じゃないのカァ?」
「そうですね……大変ですが、その大変なのも含めて楽しいものですよ」
「そうカァ。誰か雇えばいいのニ」
「雇う、ですか……それは難しいと思います」
「難しイ?」
「はい。人型に変化出来る者はわたしたち、狐か、狸。そして一部の猫と限られてますし、何より皆、今の生活があります。わたしが道楽でやっているような、この店では生活も立ち行かなくなるでしょう……」
「そうカァ……色々あるンだナ……」
「はい。色々あるのです」
「ところで狐の」
「はい?」
カラスは真剣な眼差しで凛の顔を覗き見ると、目をらんらんと輝かせてこう言った。
「シュワシュワが飲みたいんだガァ。人間たちがよく飲んでいるシュワシュワした飲み物ダ。酒はそれがイイ」
「シュワシュワですか。それならば、ビールに致しましょうか?」
「ビイル? ここはニホンシュというのを出しているんダロ? ニホンシュでシュワシュワしたのはないのカァ? おデは、シュワシュワが味わいたいんだァ、シュワシュワがァ」
「日本酒でシュワシュワですね。もちろん、ございます」
「オォ! それじゃ、それを頼むッ!」
「はいっ。ではまずは前菜とお酒をお出ししますね。少しだけお待ちください」
早朝の仕込みを終えた狐小路食堂の店主、凛はそんなオレンジ色の太陽を小窓から眩しそうに見上げながら、店内の隅に置かれた箒とちりとりを手に玄関へと向かった。
「今日は少し風が強い、かな?」
誰に話しかけるでもなく、ため息混じりに独り言を呟きながら入り口の清掃を開始する。お客様に気持ちよく来店していただく為に店内だけではなく外まで掃除する事を凛は日課としていた。
しかし今日はいつもより風が吹いているせいか、落ち葉や人間たちが捨てたゴミなどが道を汚し、街の景観を損なわせていた。だが凛は文句一つ垂れる事なく入り口周辺から小路全体を隈なく掃除していく。
「おはようございます、凛どの」
あまりに汚れているのが気になり、繁華街寄りの地面を掃除していた凛へ、そんな風に話しかける声がひとつ。凛が後ろを振り向くと、視界のやや下の方にその者の姿が目に入った。
ふさふさとした薄墨色の見事な毛並み、大きくも凛々しい紅色の瞳。首に首輪を付けてはいないが、野良という感じは全くしない。それどころか品位すらも感じさせる容貌の大型犬だ。
「あっ、犬神さん、おはようございます。朝の巡回ですか?」
凛が柔和な笑顔を向けると、犬神と呼ばれたその犬はクールな顔ながらも嬉しそうに長い尻尾を激しく揺らし、それに返答する。
「ええ。最近ゴミを荒らす輩がいるとの事で、こうして歩き回っているのです」
「それはそれは……お疲れ様です」
「ありがとうございます――では凛どの、また時間が出来た際にお店の方に伺わせてもらいますぞ」
「はい、お待ちしてますね」
熊吾郎よりも、ずっとずっと昔からの常連である犬神に挨拶をし、凛は再び掃除を開始する。そうして仕上げにと店の入り口を掃除し始めた時、再び背後から声が掛かった。
「凛さん。おはよう、ございます」
ゆったりとした口調で話しかけて来たのは、頭に三角巾、口にはマスク用の布、箒とちりとりを持った手には皮の手袋、身体には割烹着を着用した腰の曲がった老婆だった。
「――トメさん。おはようございます」
「はい。おはよう。凛さん、いつも、お掃除してくれて、ありがとうねぇ」
トメと呼ばれた老婆は薄暗い小路を見回した後、皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして凛に微笑む。
店はおろか玄関自体が人間には目視する事が出来ないので老婆には凛が何もない、ただの道を一人で掃除しているように見えている。もちろん凛の可愛らしい狐耳も見えていない。不可視の妖術が掛かっている為だ。
繁華街の方を一人で掃除しているトメは、いつからか狐小路を掃除していた凛に興味を持ち、こうして早朝に出会った時には世間話をよくしていたのである。
「いえいえ。道が綺麗になったら気分も晴れやかになるので」
「若いのに本当に凛さんは偉いわぁ。昔はこの道も活気が溢れていたんだけどねぇ……」
遠い目をして話す老婆がこの話を凛にするのは、もうこれで六度目だった。だが凛は初めて聞いたかのような反応で興味深そうに話に耳を傾ける。
「むかしむかし、あたしがまだ子供だった頃にはね、この先にある、お稲荷様を祀った神社はすっごく活気があってね。今はあたしも腰が悪くなって行けなくなってしまったのだけれど……その頃は本当に此処も賑やかだったわぁ」
「そうなんですね。今は静かで少し寂しい気がします」
「そうねぇ。都市開発とやらで、いつしか誰も通らなくなってしまったけれど……こうして、若い貴女がお掃除してくれるのはとても嬉しい事だわ」
そう言って頬に手のひらを添え、微笑む老婆だったが、すぐに「でも……」と不安そうな口ぶりで言葉を詰まらせた。
「どうかしたんですか?」
「それがねぇ……最近、生ゴミを荒らすカラスが何処からか来たみたいで困っているのよ」
「カラス、ですか?」
先ほど犬神が言っていた事を思い出しながら老婆に訊ねてみる。
「そう。たった一羽なんだけどねぇ、人に慣れているのか、手で追い払おうとしても動じないし……貴女がせっかく綺麗にしてくれても荒らされたら元も子もないでしょう?」
「そうですね。うーん……お腹でも空いてるのかな」
至極真面目そうな顔で凛がそう答えると、老婆は口元に手のひらを当てて、ふふっと声を漏らす。
「そうかもしれないわねぇ。お腹が満たされれば、もう荒らすことはなくなるかもしれないわね」
「何か良い解決策があればいいんですけどね……」
「あたしたちがカラスとお話しでも出来ればねぇ、なんて。ふふっ。それじゃあ、あたしはあっちを掃除してくるわね」
「はい。また明日お会いしましょう」
「ええ、また明日」
繁華街の先を指差した老婆は手のひらをひらひらとさせて立ち去っていった。やがて見えなくなった老婆を見送り、凛はぽつりと呟く。
「カラスさんかぁ……少しお話してみようかな……」
◇
陽が沈み、夜が更けても辺りは喧騒に包まれたままで。人でごった返す繁華街と、酔っ払いすら立ち入らないひと気の全くない狐小路との間。そこに挟まれるようにして立つ電信柱の下に生ゴミの入った袋が次々と置かれる。というのも、この時間になると最寄りの飲食店がこぞってゴミを出し始めるのだ。
そこにやって来たるは、一羽のカラス。
ガァガァという特徴的な鋭い鳴き声を上げることもせず、光沢のあるその黒羽を羽ばたかせながら静かにゴミ袋へと舞い降りる。それから袋を破き、中から客の食べ残しや廃棄された食材の切れ端を啄ばんでゆく。世辞にも綺麗とは言えない食べ方で、一心不乱に食し、袋の中身を道路に散乱させていく。
もちろん、背後から迫る凛の気配に気づいている様子はない。
決して怒鳴ることはせず、あくまで対等の同じ動物として、柔らかい口調でカラスに語りかける。
「カラスさん。こんばんは」
「あん? 今、おデは食事ちゅ――」
人参の皮を嘴で器用に咥えながら振り向いたカラスはもぐもぐと咀嚼しつつ凛に応対する。
「なんダ、人間カァ……って人間ンンン!?」
そして凛の姿を見たカラスは思わずそのオレンジ色の皮を地面に落とし、目をまん丸にして口をあんぐりとさせた。
「いえ、わたしは人間じゃないですよ」
「な、なんデ、おデの言葉が分かるんダ!?」
「人間ではないからです」
「人間じゃないのカァ……。ん? なら、お前は何者なんダ?」
「わたしはこの先を真っ直ぐ進んだ所にある食堂で働いてる凛っていいます」
姿勢を正し、ピンと伸ばした手のひらを胸に当てながら会釈をすると、カラスは目をギョロリとさせ、声を張り上げた。
「あそこのカァ! 狐がやっているという小料理屋のォ!」
「ご存知でしたか。では……話は早いですね」
「なんだト? どういうことダ?」
「……良かったら、うちのお店で御飯を食べていきませんか? もちろん、他のお客様同様、お代は頂きませんし、お好きな物を提供しますよ」
「んグッ! こ、断るッッッ!」
一瞬、ぴくりと身体を震わせ反応したカラスだったが、直ぐにねじ切れんばかりに首を横に振り、凛の申し出を断った。その後も何度か勧めてはみたものの、遠慮している素振りはなく、凛を警戒の目で睨み続けた。
「カラスさん、どうしてでしょうか。理由を聞かせてくれませんか?」
「ウヌヌ……怪しすぎるんダ。お前は怪しイ。信用出来なイ」
「怪しい……ですか。わたしはしがない食堂の店主です。カラスさんをご飯に誘ったのは実はゴミを荒らされて困っている方がいるからなのです。カラスさんがうちでご飯を食べるようになれば、いつでも温かいご飯が食べられますし、路上も荒れなくなります。両者の利益が一致するのです。素晴らしい事だとは思いませんか?」
「うぬゥ……」
カラスは俯き加減に身体を掻き毟り、羽根を散らし始める。一枚、二枚、三枚、四枚と漆黒の羽根がヒラヒラと落ち葉のように道路に落ちていく。
「怪しいと思うのは当然かもしれないです。でもわたしは料理を作り、お酒を振る舞い、お客様が笑顔になってくれるのを見るのが生き甲斐なんです。わたしはカラスさんの笑顔も見たい。その願いを叶えてはくれませんか?」
極めて真摯な対応で凛は返すがカラスは、うぬぬ……と小さく唸り、だが、と付け加えた。
「……おデは狐は信用しない。昔カァちゃんに聞いた事があるんダ。狐は、おデたちカラスを騙して肉を奪った事があるから信用するなト!」
「肉を奪った……?」
そう呟いた凛は指を顎に当て、考える。そういえば海外の、イソップという名の童話にそのような話があったような気がすると。
「ぜったいそんな事しないって誓います。それならこういうのはどうですか? 肉料理をお作りします。どうでしょう?」
「肉カァ……」
自分が想像出来うる限りの肉料理を頭に思い浮かべたのだろう。目を上向きにさせたカラスの口端からは夥しい量のヨダレが溢れでていた。やがてそのヨダレを舌で舐め取り、幼な子のように目を輝かせる。
「と、トマトも付けてくれるカァ?」
「トマト、ですか?」
「あァ! おデはトマトが大好物なんだァ! 南にいた頃は、畑のトマトをよく食べてたんだヨォ!」
「わかりました。そういう事でしたら、トマトを使った肉料理に致しましょう」
「そうカ、そうカァ……トマトと肉……ふふふ……」
「では、行きましょうか」
これでゴミ問題は解決するだろうとニコリと微笑む凛だったが、どういうことか、カラスはその場から動こうとせず浮かない顔をしている。
「カラスさん、どうかしまし――」
「イヤイヤ! おデは騙されないゾ。とびっきりの酒も用意してくれるくらいじゃないト、おデはテコでも動かないゾ!」
「もちろん、用意しますよ。とびっきりのお酒を」
「じゃ、行く! おデ、行く!」
◇
あの騒々しいカラスは何処へやら。席に着いたカラスは、しばらくの間は借りてきた猫のように大人しかった。しかし羽と背筋をピンと伸ばし器用に椅子に座っていたカラスは、やがてキョロキョロと店内を見回し、自分以外誰もいない事を改めて確認したようだった。
「なぁ、狐の」
カウンターを隔てて厨房に立ち、食材の下ごしらえをしていた凛にカラスは神妙な面持ちで話し掛ける。まな板からカラスへ目線をズラすと首を傾げていたカラスが凛の目に入った。
「この店、お前だけでやっているのカァ?」
「はい。わたしだけで、なんとかやってます」
「おデ、外からよく見てたガ、結構客、入ってる時あるよナ。特に金曜。一匹で大変じゃないのカァ?」
「そうですね……大変ですが、その大変なのも含めて楽しいものですよ」
「そうカァ。誰か雇えばいいのニ」
「雇う、ですか……それは難しいと思います」
「難しイ?」
「はい。人型に変化出来る者はわたしたち、狐か、狸。そして一部の猫と限られてますし、何より皆、今の生活があります。わたしが道楽でやっているような、この店では生活も立ち行かなくなるでしょう……」
「そうカァ……色々あるンだナ……」
「はい。色々あるのです」
「ところで狐の」
「はい?」
カラスは真剣な眼差しで凛の顔を覗き見ると、目をらんらんと輝かせてこう言った。
「シュワシュワが飲みたいんだガァ。人間たちがよく飲んでいるシュワシュワした飲み物ダ。酒はそれがイイ」
「シュワシュワですか。それならば、ビールに致しましょうか?」
「ビイル? ここはニホンシュというのを出しているんダロ? ニホンシュでシュワシュワしたのはないのカァ? おデは、シュワシュワが味わいたいんだァ、シュワシュワがァ」
「日本酒でシュワシュワですね。もちろん、ございます」
「オォ! それじゃ、それを頼むッ!」
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