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第壱皿目 油揚げの袋焼き
油揚げの袋焼き(後編)
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「くぅ……なんて濃醇な味なんだ。これが日本酒……これが古酒か。味はシェリーや老酒を連想とさせる味だ」
「はい、そのように仰るお客様は多いですね。以前、来店された日本酒が苦手なお客様にもお出ししたのですが、これならイケると喜んでいました」
「だろうな。俺も日本酒と言われずに黙って出されたら分からなかったかもしれない。あぁ、これに合うツマミが欲しい。お嬢ちゃん、何か出してくれないか」
「では、先付をお出ししますね。五種ありますけど、おすすめは角煮です」
「ほう。角煮とな?」
「はい。お客様が飲んでいるその古酒は、先ほどもお客様自身が仰っていた通り、中国の老酒によく似ています。ですので中華料理などの濃い味付けのお料理とよく合うのです。それにヒントを得て、鰹で角煮を作ってみました」
「カツオか……ふむ、ならばそれをもらおう」
「はい。少々お待ちください」
コンロに置かれた鍋の蓋を開けるとふわりと蒸気が舞う。それから少女は狐とは思えない人間顔負けの器用な箸捌きで、大葉を乗せた小鉢にちょいちょいと角煮を盛り付けていく。一口大のぶつ切りにされた鰹がちょうど良い具合に濃い茶色に染まっていて、それがまた醤油独特の芳しい香りを放っていた。
少女はカウンターに小鉢を置き、左手のひらを差し出してニコリと微笑む。
「はい。どうぞ、お召し上がり下さい」
「んほぉ……こりゃ美味そうだ」
小鉢を受け取った男も、少女と同様に器用に箸でひとつ摘まみ上げ、そして口の中へ放り込む。その瞬間、男の口一杯に濃口醤油と砂糖、そして日本酒で作り上げられた甘辛のタレがじんわりと広がる。それだけではない。奥歯で噛み締める度に、ほろりと崩れた身から凝縮された鰹の旨味が解き放たれるのだ。
「うめぇ……うめぇよこれ……」
「お酒も一緒にどうぞ」
「ああ!」
少女に言われた通りに角煮を一口頬張り、何度か味合うように咀嚼した後、一口酒を飲む。ごくりと飲み込んだ男の顔はこれでもかという程、満面の笑みになっていた。もう先ほどの落ち込んでいた気持ちは男から消えて無くなっていた。少女の料理と美味い酒が彼の心を柔和にしてくれたのである。
「なるほど、これは合う。すこぶる合うぞ!」
「それは良かったです。いいお酒にはそれに合う食事をお出ししたいので」
「……ふむ。最初にお通しを出さなかったのはそういうわけか」
「ふふっ」
「客の頼む酒に合わせて五種の先付の中から薦めているのだろう? そうじゃなかったら、席についた瞬間にお通しを選ばせるはずだ」
「……さすがはお客様。おっしゃる通りです。淡麗な爽酒には、さっぱりとしたお通しを、濃厚な熟成酒には濃い味付けの先付をお勧めしております」
そう少女が返すと男は自嘲気味に笑い出す。
「はは、さすがだな。奴の勧めた店なだけはある」
「あ、やっぱりどなたかのご紹介ですか?」
「ああ……熊の、熊吾郎。よく来るだろう?」
「わぁ! 熊吾郎さんのご紹介だったのですね。よく来られます。熊吾郎さんにはご贔屓にしてもらってます」
「都会のあんな裏通りにそんな凄い店がある訳がないと、正直期待はしていなかったんだが、いやはや……俺もまだまだだな」
男は片肘をカウンターに突きながら、ふうっと溜め息を吐く。
「凄い店ではないですが、お褒めに預かり光栄です」
「凄い店だよ正直。なんて言ったって、森一番の食通の熊吾郎が常連なんだ、誇っていい。しかし納得だ。奴に、生きているうちに一度は行けと言われたのが気になって来てみれば……予想を超えたわい。まさか少女がやっているとは思わなんだが、狐だしな。俺なんかより長く生きているんだろう? 悪かったな、生意気に嬢ちゃんなんて呼んで」
「気にしなくて大丈夫ですよ。お嬢ちゃんで大丈夫です」
「そうか? ならお言葉に甘えて嬢ちゃんと呼ばせてもらおう。今度は親しみを込めて。では、予想を超えたところで、とりあえずこの店のおすすめを貰おうか」
「かしこまりました。少々お待ちを」
そうして少女が厨房の奥に消え、しばしの間、待っていると、料理を片手に少女が再び男の前に現われた。
「お待たせ致しました。こちらが当店のおすすめとなります」
黒と茶のコントラストが美しい備前焼きの板皿に二つ重ねるように乗せられ、その上に南天の葉が添えられた料理が男の目の前に出される。見覚えのある見た目だが、男は聞かずにはいられなかった。
「これは?」
「油揚げの袋焼きでございます」
「油揚げ、ね。なるほどな、狐……お嬢ちゃんの大好物がこの店のおすすめというわけか」
「……とりあえず一口。召し上がってみてください」
「ああ、そうするよ」
男は再び器用に箸を使い、油揚げを持ち上げる。程よく焦げ目の付いた油揚げの切り口からは野菜や茸のようなものが見えた。それを見ながら大口を開けて、角の方からぱくりと一口噛みちぎる。
その瞬間パリッと心地よい食感が男の口元で軽快に鳴った。
「はふっ……はふ……んむんむ……」
「いかがでしょうか……と聞くまでもなかったですね」
男は自然と顔を綻ばせ、至極幸せそうに顔を緩めている。
「ああ……最高だ。皮はパリッと中はフワッと。閉じ込められた野菜のジューシーな旨味が口の中に迸って……」
そこまで言うと、黙って二口目、三口目、四口目を口に入れ、最後の一口を飲み込んだ。
「あぁ……あっという間に一個食べ終わってしまった。このプチプチした感触は……明太子だな。少し、ほんの少しだけ明太子独特の生臭さが気になるが、キノコと野菜が絡み合ってすごく美味いぞ」
「……ではもう一個は是非こちらを付けて食べてみてください」
少女はカウンターの下から取り出した瓶詰めの蓋を開けると、赤色の何かを菜箸で取り出し、油揚げの上にちょこんと乗せた。
「これは……?」
男は訝しげに油揚げに顔を近付け、凝視する。食べるのを楽しみにしていたもう一個に謎の赤い物体を乗せられ、少し警戒しているようだった。
「こちらは自家製の柚子胡椒でございます。赤唐辛子と柚子で作られておりますので、こんな見た目をしていますが……味は保証します。明太子との相性も抜群ですよ」
「柚子胡椒か……では頂くとしよう」
箸の先で柚子胡椒を油揚げに馴染ませるように広げてから、一口ぱくりと食べ――男の動きが止まった。
「…………」
「いかがでしょうか?」
「……お嬢ちゃん」
「はい」
「……美味い」
「一個目と二個目、どちらが美味しかったですか?」
「……聞くまでもないだろう。二個目だ」
「それは良かった。お口に合ったようで幸いです」
明太子と柚子胡椒。一見すると、合わないようにも思える。だが、この二つは合わないはずがないのだ。なぜなら両方とも唐辛子を使用している。明太子は唐辛子を主として漬け込んだもの、そして柚子胡椒は唐辛子と柚子を原料にしている調味料。
赤い糸で結ばれているかのように、決してお互いの辛さの邪魔はしないし、柚子胡椒が明太子の臭みを消してくれる。まさに出会うべくして出会った二つなのである。
男は箸を皿に置くと、少女の顔を見て真面目な顔で言い放つ。
「それで、これに合う酒は何を見繕ってくれるんだい?」
「そう来ると思ってましたっ」
新たに差し出された酒を飲みながら、男は至福のひと時を味わった。
「ああ……たまらない……」
「これで、単にわたしの好物だから油揚げをお出しした訳ではないという事が分かって頂けたでしょうか?」
「ああ。煮てよし、焼いてよし。油揚げは日本酒飲みの味方だという事が、よぉく分かったよ」
その後、様々な料理と美味い酒を堪能し、男は顔を赤らめるとテーブルに突っ伏し、寝てしまった。まさに夢心地である。
しかし少女は起こそうとはしない。気持ちよく眠る男の背後にまわり、薄手の毛布をふわりと掛ける。
それからカウンターの中に戻り、いそいそと仕込みを開始するのであった。
◇
――トントントン。
包丁でまな板を叩く小気味良い音が男の耳に届いた。
「ん……んぁ……」
男は涎を垂らした口を手の甲で拭いながら、虚ろな目で上体を起す。それに気付いた少女は包丁をまな板に置くと男の方へ向き合った。
「これは申し訳ございません。起してしまいましたか?」
「あ、ああ……すまない……寝るつもりは無かったんだ。つい気持ち良くなって寝てしまった。言っておくが狸寝入りではないぞ。金なら持っている。お嬢ちゃん、会計を頼む」
そう言って男は立ち上がり、背広に入れていたサイフを手に取る。
「……御代は大丈夫ですよ」
「ほぇ?」
少女のありえない言葉に男はまだ自分が夢の中にいるのではないかと錯覚し、寝ぼけたような声で返事をした。
「え、いや、金ならあるぞ。熊吾郎の薦めた店だからな。少し多めに持ってきている。もしや最初に言った金はいらないという話を言っているのか? 払わない訳ないだろう、これだけ美味い料理と酒に金を払わなかったらそれこそ罰当たりだ」
「いえ、美味い酒と食事に舌鼓を打ち、お客様が笑顔になってくれた。それが最大の御代なんです。それと次回は是非、ご家族皆さんで来てくださいね」
「……本当にいいのか?」
「ええ、もちろんです」
「あ、ありがとう……本当に家族で来てもいいのか……?」
「もちろんです。さ、入り口までお送り致します」
少女は腰高まであるカウンタードアから出ると、男を玄関まで見送る。
「今日はありがとう。改めて礼を言う。料理と酒で嫌な事を少しだけ忘れられた気がしたよ」
「それは良かった。是非またいらしてください」
「ありがとう。また来るとするよ」
男が幸せそうな顔で微笑むが、少女は心配げに眉をひそめた。
「ですが、本当に気をつけてくださいね。この店は動物しか入店できない店。人間になってしまったら店を見つけることすら出来なくなってしまいますので」
「ああ。もちろん気をつけるよ。ここの料理と酒を口にすることが出来なくなるなんて辛いからね」
ここは狐小路食堂。美味しい料理と酒を提供する、人間には見えない――動物の為だけの秘密の食堂。
「はい、そのように仰るお客様は多いですね。以前、来店された日本酒が苦手なお客様にもお出ししたのですが、これならイケると喜んでいました」
「だろうな。俺も日本酒と言われずに黙って出されたら分からなかったかもしれない。あぁ、これに合うツマミが欲しい。お嬢ちゃん、何か出してくれないか」
「では、先付をお出ししますね。五種ありますけど、おすすめは角煮です」
「ほう。角煮とな?」
「はい。お客様が飲んでいるその古酒は、先ほどもお客様自身が仰っていた通り、中国の老酒によく似ています。ですので中華料理などの濃い味付けのお料理とよく合うのです。それにヒントを得て、鰹で角煮を作ってみました」
「カツオか……ふむ、ならばそれをもらおう」
「はい。少々お待ちください」
コンロに置かれた鍋の蓋を開けるとふわりと蒸気が舞う。それから少女は狐とは思えない人間顔負けの器用な箸捌きで、大葉を乗せた小鉢にちょいちょいと角煮を盛り付けていく。一口大のぶつ切りにされた鰹がちょうど良い具合に濃い茶色に染まっていて、それがまた醤油独特の芳しい香りを放っていた。
少女はカウンターに小鉢を置き、左手のひらを差し出してニコリと微笑む。
「はい。どうぞ、お召し上がり下さい」
「んほぉ……こりゃ美味そうだ」
小鉢を受け取った男も、少女と同様に器用に箸でひとつ摘まみ上げ、そして口の中へ放り込む。その瞬間、男の口一杯に濃口醤油と砂糖、そして日本酒で作り上げられた甘辛のタレがじんわりと広がる。それだけではない。奥歯で噛み締める度に、ほろりと崩れた身から凝縮された鰹の旨味が解き放たれるのだ。
「うめぇ……うめぇよこれ……」
「お酒も一緒にどうぞ」
「ああ!」
少女に言われた通りに角煮を一口頬張り、何度か味合うように咀嚼した後、一口酒を飲む。ごくりと飲み込んだ男の顔はこれでもかという程、満面の笑みになっていた。もう先ほどの落ち込んでいた気持ちは男から消えて無くなっていた。少女の料理と美味い酒が彼の心を柔和にしてくれたのである。
「なるほど、これは合う。すこぶる合うぞ!」
「それは良かったです。いいお酒にはそれに合う食事をお出ししたいので」
「……ふむ。最初にお通しを出さなかったのはそういうわけか」
「ふふっ」
「客の頼む酒に合わせて五種の先付の中から薦めているのだろう? そうじゃなかったら、席についた瞬間にお通しを選ばせるはずだ」
「……さすがはお客様。おっしゃる通りです。淡麗な爽酒には、さっぱりとしたお通しを、濃厚な熟成酒には濃い味付けの先付をお勧めしております」
そう少女が返すと男は自嘲気味に笑い出す。
「はは、さすがだな。奴の勧めた店なだけはある」
「あ、やっぱりどなたかのご紹介ですか?」
「ああ……熊の、熊吾郎。よく来るだろう?」
「わぁ! 熊吾郎さんのご紹介だったのですね。よく来られます。熊吾郎さんにはご贔屓にしてもらってます」
「都会のあんな裏通りにそんな凄い店がある訳がないと、正直期待はしていなかったんだが、いやはや……俺もまだまだだな」
男は片肘をカウンターに突きながら、ふうっと溜め息を吐く。
「凄い店ではないですが、お褒めに預かり光栄です」
「凄い店だよ正直。なんて言ったって、森一番の食通の熊吾郎が常連なんだ、誇っていい。しかし納得だ。奴に、生きているうちに一度は行けと言われたのが気になって来てみれば……予想を超えたわい。まさか少女がやっているとは思わなんだが、狐だしな。俺なんかより長く生きているんだろう? 悪かったな、生意気に嬢ちゃんなんて呼んで」
「気にしなくて大丈夫ですよ。お嬢ちゃんで大丈夫です」
「そうか? ならお言葉に甘えて嬢ちゃんと呼ばせてもらおう。今度は親しみを込めて。では、予想を超えたところで、とりあえずこの店のおすすめを貰おうか」
「かしこまりました。少々お待ちを」
そうして少女が厨房の奥に消え、しばしの間、待っていると、料理を片手に少女が再び男の前に現われた。
「お待たせ致しました。こちらが当店のおすすめとなります」
黒と茶のコントラストが美しい備前焼きの板皿に二つ重ねるように乗せられ、その上に南天の葉が添えられた料理が男の目の前に出される。見覚えのある見た目だが、男は聞かずにはいられなかった。
「これは?」
「油揚げの袋焼きでございます」
「油揚げ、ね。なるほどな、狐……お嬢ちゃんの大好物がこの店のおすすめというわけか」
「……とりあえず一口。召し上がってみてください」
「ああ、そうするよ」
男は再び器用に箸を使い、油揚げを持ち上げる。程よく焦げ目の付いた油揚げの切り口からは野菜や茸のようなものが見えた。それを見ながら大口を開けて、角の方からぱくりと一口噛みちぎる。
その瞬間パリッと心地よい食感が男の口元で軽快に鳴った。
「はふっ……はふ……んむんむ……」
「いかがでしょうか……と聞くまでもなかったですね」
男は自然と顔を綻ばせ、至極幸せそうに顔を緩めている。
「ああ……最高だ。皮はパリッと中はフワッと。閉じ込められた野菜のジューシーな旨味が口の中に迸って……」
そこまで言うと、黙って二口目、三口目、四口目を口に入れ、最後の一口を飲み込んだ。
「あぁ……あっという間に一個食べ終わってしまった。このプチプチした感触は……明太子だな。少し、ほんの少しだけ明太子独特の生臭さが気になるが、キノコと野菜が絡み合ってすごく美味いぞ」
「……ではもう一個は是非こちらを付けて食べてみてください」
少女はカウンターの下から取り出した瓶詰めの蓋を開けると、赤色の何かを菜箸で取り出し、油揚げの上にちょこんと乗せた。
「これは……?」
男は訝しげに油揚げに顔を近付け、凝視する。食べるのを楽しみにしていたもう一個に謎の赤い物体を乗せられ、少し警戒しているようだった。
「こちらは自家製の柚子胡椒でございます。赤唐辛子と柚子で作られておりますので、こんな見た目をしていますが……味は保証します。明太子との相性も抜群ですよ」
「柚子胡椒か……では頂くとしよう」
箸の先で柚子胡椒を油揚げに馴染ませるように広げてから、一口ぱくりと食べ――男の動きが止まった。
「…………」
「いかがでしょうか?」
「……お嬢ちゃん」
「はい」
「……美味い」
「一個目と二個目、どちらが美味しかったですか?」
「……聞くまでもないだろう。二個目だ」
「それは良かった。お口に合ったようで幸いです」
明太子と柚子胡椒。一見すると、合わないようにも思える。だが、この二つは合わないはずがないのだ。なぜなら両方とも唐辛子を使用している。明太子は唐辛子を主として漬け込んだもの、そして柚子胡椒は唐辛子と柚子を原料にしている調味料。
赤い糸で結ばれているかのように、決してお互いの辛さの邪魔はしないし、柚子胡椒が明太子の臭みを消してくれる。まさに出会うべくして出会った二つなのである。
男は箸を皿に置くと、少女の顔を見て真面目な顔で言い放つ。
「それで、これに合う酒は何を見繕ってくれるんだい?」
「そう来ると思ってましたっ」
新たに差し出された酒を飲みながら、男は至福のひと時を味わった。
「ああ……たまらない……」
「これで、単にわたしの好物だから油揚げをお出しした訳ではないという事が分かって頂けたでしょうか?」
「ああ。煮てよし、焼いてよし。油揚げは日本酒飲みの味方だという事が、よぉく分かったよ」
その後、様々な料理と美味い酒を堪能し、男は顔を赤らめるとテーブルに突っ伏し、寝てしまった。まさに夢心地である。
しかし少女は起こそうとはしない。気持ちよく眠る男の背後にまわり、薄手の毛布をふわりと掛ける。
それからカウンターの中に戻り、いそいそと仕込みを開始するのであった。
◇
――トントントン。
包丁でまな板を叩く小気味良い音が男の耳に届いた。
「ん……んぁ……」
男は涎を垂らした口を手の甲で拭いながら、虚ろな目で上体を起す。それに気付いた少女は包丁をまな板に置くと男の方へ向き合った。
「これは申し訳ございません。起してしまいましたか?」
「あ、ああ……すまない……寝るつもりは無かったんだ。つい気持ち良くなって寝てしまった。言っておくが狸寝入りではないぞ。金なら持っている。お嬢ちゃん、会計を頼む」
そう言って男は立ち上がり、背広に入れていたサイフを手に取る。
「……御代は大丈夫ですよ」
「ほぇ?」
少女のありえない言葉に男はまだ自分が夢の中にいるのではないかと錯覚し、寝ぼけたような声で返事をした。
「え、いや、金ならあるぞ。熊吾郎の薦めた店だからな。少し多めに持ってきている。もしや最初に言った金はいらないという話を言っているのか? 払わない訳ないだろう、これだけ美味い料理と酒に金を払わなかったらそれこそ罰当たりだ」
「いえ、美味い酒と食事に舌鼓を打ち、お客様が笑顔になってくれた。それが最大の御代なんです。それと次回は是非、ご家族皆さんで来てくださいね」
「……本当にいいのか?」
「ええ、もちろんです」
「あ、ありがとう……本当に家族で来てもいいのか……?」
「もちろんです。さ、入り口までお送り致します」
少女は腰高まであるカウンタードアから出ると、男を玄関まで見送る。
「今日はありがとう。改めて礼を言う。料理と酒で嫌な事を少しだけ忘れられた気がしたよ」
「それは良かった。是非またいらしてください」
「ありがとう。また来るとするよ」
男が幸せそうな顔で微笑むが、少女は心配げに眉をひそめた。
「ですが、本当に気をつけてくださいね。この店は動物しか入店できない店。人間になってしまったら店を見つけることすら出来なくなってしまいますので」
「ああ。もちろん気をつけるよ。ここの料理と酒を口にすることが出来なくなるなんて辛いからね」
ここは狐小路食堂。美味しい料理と酒を提供する、人間には見えない――動物の為だけの秘密の食堂。
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