生命の宿るところ

山口テトラ

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生命が宿るのは、脳か、心臓か。

妄想の賜物 最終話

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 妄想の賜物 最終話


「…………」
 彼は自分の体を見てようやく理解したようでした。自分の体が普通ではないことに、その姿が面白くてまた笑いました。しかし傷が痛くてすぐにやめました。
「つまりあなたはあの霧の中でだけでは妄想の姿形として存在でき、妄想だからどうせ僕にも反撃のしようがなかったんです。ということは不死身だったんです。でも霧を解いてしまった今はどうでしょう?僕たちはもう妄想を見ることができない。死んでしまうんですよ」
 慌てているようでした。途端にその場にしゃがみ込んで息を荒くしていました。
「ど、どうすれば……私は………そうだ、不死の能力が……」
「残念ですが、あなたはここでは死んでいるのです。すでに死んだ人間が不死になるってなんかおかしくないですか?生きてる人間が不死ならわかりますが…………とりあえず僕が笑った理由は霧(mist)使いが絶好のチャンスを逃す(missed)と思うとなんかおかしく思えて、すみません笑ってしまったんです」
 きっと彼の霧はずっとあったんです。学校で授業を受けたり、友達と喋ったり、昼ご飯を食べている時だって、太陽がある間は見えなかっただけなのでしょう。夜になり月光が降り注いでいる間は、その時に限って見えて能力が発揮されたのでしょう。根拠はないですが幽霊が出るのは夜中というのが相場ですし、きっとそういうことなのでしょう。
 彼は霧が出続けている間だけは不死身だった。でも間違えて見惚れてしまった能力者の僕が今日ここに来てしまったせいで彼の中で安定して霧を出し続けていた思考が崩れてしまった結果なのでしょう。何年……いや、何十年と続いていた霧はとんでもないことに突然と晴れてしまったわけです。
「なあ、助けてくれよぉ」
 いつの間にか小さく石のような姿になってしまった彼はそう囁きました。麻薬で魅せられた妄想の果てはこんなちっぽけな石ころのようなものだったのです。
 石とも見えるそれはきっと彼の骨の一部でしょう。死んでもなお妄想を見続ける執念はすごいものなのでしょう。
「残念ですが無理です。さっきあなたが言ったように僕も死ぬでしょうし、あなたを助けられるほど元気なわけでもないです」
 ああ、とうめき声か泣き声か後悔の念かはわかりませんが石はつぶやきました。
「やっと死ねますね……僕もあなたも……妄想という概念のせいで長生きしてしまいましたが、やはり死人は何をしようが死んでしまうのですね、きっと」
 もはや喋る気力も失ったのか、それとももう先に逝ってしまったか。彼は何も言いませんでした。僕も小さくため息をつきました。

 第8章 終わりと再生

 いつの間にか霧は晴れていた。そのことに気づいたのもお兄の近くまでたどり着いた時だった。夢中で走っていたせいか全く気づかなかった。確かに途中までは走っても走っても進まないような果てしない感覚だったがお兄の悲鳴が聞こえて行かなきゃって思ったら進んでていつの間にかついていた。
 お兄はもう死んでいた。遅かったのだと思った。自分がもっと早く辿り着いていればと何回も考え果てには自分の顔を自分の拳で殴っていた。
「馬鹿……馬鹿馬鹿バカァッ!!…………」
 何回も何回も殴った。痛みはあった。とても痛い側から見たら相当変なやつだろう私は、でも自分も責めるためにはこうするほかないと、こうすることが自分への罰なのだと、そう考え疑わなかった。
「お兄………おにぃ……いやだよっ…………死なないでよぉ……」
 壁にもたれかかったまま顔を俯かせ足はだらしなく伸びていた。お腹にはナイフか何かで刺されたのであろう刺し傷がありつい先程までは血液が流れていたのだろう、まだ少し生暖かい。ということは私がここに来るのとお兄が死んでしまったのはほぼ同時期であったことがなんとなくだけど伝わってきた。
「ひどいよ……」
 俯いて顔が見えなかった。お兄の頬に触れながら上げた。
「ううぅ…………」
 顔は笑っていた。とても満足そうに悔いもなさそうに全てやれることは果たしたぞと言わんばかりの笑顔だった。返って私はひどくお兄が可哀想でならなかった。笑顔で死んでいるお兄を見るのはこれで二回目だった、あの事故で死んだ時と今だ。どう間接的でも直接的でもその要因を作ったのは私だ。
 また自分を殴りつけようとしたときに思い出した。これもだ、私が自分を殴ろうとしたのも二回目なのだ。私はあの時から全く成長していないのだと悟った。お兄が急に現れてからもう私はそれに甘え切ってしまっていたのだ。成長どころかお兄が死んだことすらも忘れかけようとしていたではないか。
 こうして自分を痛めつけようとするのは逃げたいからだ。こうしていると誰かが止めてくれるのを知っていた。自分を痛めれば自分は責められないで済むと知っていたから、起きた事実に目を背け逃げたいがために取った甘えの行動なのだ。そして痛めつけた後に一番に助けに来てくれるのはいつもお兄だった。こうすればお兄に甘えられるということも知っていた。自分はとんだ悪い女だ。人を利用して自分が助かればそれでいいと思っているのだ。
 まあいい、今はお兄も誰も止めに入らないのだ。気が済むまで自分を殴り続ければいいのだ。いっそのことここで死ねばお兄と会えるかもしれない。我ながら非常に名案だった。
 気づけば自分の手にはナイフがあった。とても鋭利で月明かりさえも反射するほどの銀色の刃物だ。少し心もとのない短めの刃、しかしいくら刃が短かろうがこれを使えば人間でも死ぬことは容易いだろう。
 お兄の手を握った。これが最後なのだこれくらいは許されるだろう。自分の頬まで寄せて触れる。まだ暖かい、本当は死んでいなくてそういうフリをしているのかもしれない。だがそんな考えはすぐに捨てる。
 ああ、お兄の大きい手……一度でもこんなことはされたことはなかった。本当はもっと………いいや、やめておこう。こうも考え込むと逝くのが怖くなりそうだった。
 お兄の手をそっと元に戻す。
 ナイフを自分の首に当てる。硬く冷たい刃に赤い血がすっと小さく流れる。
「お兄、私も連れてって………」
 ナイフを握る手に力を込めて突き刺そうとした瞬間、手から感触が失われた。
「え……」
 さっきまで握っていたはずのナイフが消えてしまったのだ。周りを見渡す、無い。どこを見てもナイフなんて物騒なものはなかった。焦った、このままではお兄と一緒には逝けないではないか。
「自殺なんて早まってはダメですよ……」
 急に声が聞こえた。お兄だ!お兄の声がする!
「お兄、どこなの!?一体どこにいるの!?」
 目の前にいたはずのお兄の死体もすでに何もなかったかのように綺麗さっぱり消えてしまっていた。
「僕はずっとここにいましたよ。あなたの中に」
 言っている意味がよくわらなかった。
「ねぇ……どこにいるのよ………出てきてよ……」
 少しため息をこぼして悲しそうな声でお兄は喋った。こんな声は初めて聞いた。
「残念ながら、僕はあなたの家にいるんですよ」
 そして気づいた。この声は聞こえてきているのではない。私の頭の中で直接的に響き渡っているのだ。
「あの時すでに僕という存在は消えて死んでしまいました」
 あの時というのは、車での事故のことだろうか。
「炎に焼かれて骨だけとなってしまった。骨壷の中に詰められてあなたが泣いている姿をなんだかとても近くで感じていました。きっと始まりはそこからだったんです。あなたの能力の開花が明確になった瞬間でした」
 能力……私は記憶の片隅にあったあるモノを思い出した。忘れようとしていた……でもその力は絶大すぎて忘れようにも忘れられなかった、そんな出来事は確かにあった。お兄はそのことを言っているのだろうか。
「次に目が覚めたときは自分の仏壇の目の前でした。はっきり言って最初は驚きました。でも近くにいたあなたを見て不思議と落ち着いた気分になりました。僕もあなたの能力については薄々気づいていました、十年以上も一緒にいるんですからこうなったのではないか?というのは簡単ではありませんが想像はできました」
 掘り起こしたくない記憶がだんだんと溢れかえってきた。私は昔からこうなったら嬉しい、これが欲しいな、と考えると時折それが本当になることがった。
「僕はあなたの妄想だったんですね」
 ドキッとした。それは………。
「そして、あなたには兄なんてものはいなかったんですよ。あなたの家は三人家族だったんですから……」
「さんにん……?」
「そうです。母親と父親と……そしてあなたの三人です。僕は家族のうちに入らなかったんです。だってあなたの妄想あったから……」
 一時、話の内容が全くわからなかった。お兄が何を言っているのかさっぱりわからなかった。でも……。
「僕が生まれた理由は幼いあなたのほんの些細な憧れからでした」
 もはや声が出ないほど喉が枯れていた。
「小学生の頃、あなたは友達のほとんどに兄や姉がいました。下校時間に友達が兄姉と手を繋いで返っている姿は幼いあなたを魅了し、一人っ子だったから年上の兄というのは未知の存在であり憧れのものでした。両親に言ったとて自分の後に来るのは年下なわけだから妹か弟ということです。あなたは困り果てました。自分は何をしても一人っ子なわけです」
 覚えている。お兄が今語った内容は本当のことだった。私は年上の兄弟が欲しかったんだ。
「そこで僕は生まれました。あなたの妄想を具現化する力で……」
 お兄は話を続けた。
「まあ、最初はあなたにしか見えないイマジナリーフレンドのようなモノだったんですけど、あなたは満足したようです。両親も心配しつつも温かく見守っていた。その時点ではあなた以外に僕は見えなかった。ということです」
 知っていた……お兄は私が産んだ。私の妄想、なんで今まで忘れていたんだろうか。
「あの事故が起こる直前、僕は必死に叫びました。あなたを助けたい、あなたに死んでほしくないと……こういうのを奇跡というのでしょうか?僕は本当に一人の人間として具現化して、あなたを間一髪助けられたのです」
「そう、だったんだ……」
「僕は突然生まれて、突然死んでしまい。火葬されたんです。生きることと死ぬことをほぼ同時に感じることができました。これはとても貴重な体験だったと思いますよ」
 お兄は小さく笑った。
「そのまま消えてしまうのかと思ったりもしたんですが、さすが妄想の存在なわけですから、僕は再び蘇ったわけです……あの仏壇の前で、そして泣いているあなたを見つけました」
 話終わったのか、それきり静かになった。
「私がお兄を作ったんだ………確かにありえないことだと思ってたけど……私は嬉しかった、お兄と一緒に手を繋いで帰れてとっても嬉しかったのに………」
「はい……僕もです」
「あの時、あの時ずっとあなたの名前を呼んでた……でもそれは……」
「もういいんです……あなたはもう僕の存在は必要ないんです。あくまでも僕はあなたが成長する過程を見守る保護者としての立場でいれるのならどんな姿形、生まれた原因でもよかったんです」
「私は……そんなこと思ってない……お兄と普通に過ごせて、一緒に成長して、話て、笑って……こんなにも幸せだと感じてたのに」
 そして目の前にお兄の姿が浮かんで見えた。
「妄想ですから……全てはあなたの……あなたは成長しないといけないんです。妄想ばかりしている人生から脱皮して、一人の人間として……」
「桜お兄っ!!」
 その影は私の腕を握る。
「小林桜、これが僕の名前でもあり。あなたの名前でもある」
 私はあの仏壇の前、いや葬式の時からお兄の名前を呼んでいた。小林桜、桜お兄とこの名前をずっと呼んでいた。でも彼の名前だと思っていたのは私の名前だ。私が小林桜だった。
「ありがとう、こんな馬鹿で出来の悪い兄をこの世に産んでくれて
……本当にありがとう」
 影はすっかりと消えてしまった。

 終章 晴れた世界

 あの出来事から数年が経った。
 私はあの学校を囲うように咲き誇る桜を見にきていた。
「わぁ……綺麗……」
 あのあと私は気を失っていたのか学校の廊下で倒れていたらしい。どうやら雨宮先輩が警察やらなんやらに電話していたらしく深夜の学校に赤いランプの色が広がりサイレンの音が鳴り響く、そして住人たちが夜遅いのにも関わらず野次馬しに集まってくるという飛んだ大惨事が起こっていた。
 実際には何も起こっていないのと同じようなもので肝試しに入った末のイタズラだったということでこの件は落ち着いた。それは相当いろんなところから怒られて大変だった、親から警察の人から学校の担任とか数えきれない。まああの状況を説明しても誰も信じないであろうし、私も混乱していたこともあってこの解決が一番無難だということを雨宮先輩から後日聞いた。
 そして結局、兄は帰ってこなかった。ああ、本当は兄はいなかったんだと感じた。お母さんやお父さんにも聞いてみたが「知らない」というばかりだった。雨宮先輩の話によると兄が具現化している間は私がみていた妄想を他人にも見せてしまっていたらしく、不自然ではない空気を出せていたらしい。この辺は難しくてよく覚えていないが、でも大雑把に言えば私が目を覚ましてしまったから兄の存在を知るのは元凶の私とあの場にいた雨宮先輩の二人だけだったということだ。つまり私が目を覚ますまではみんなで同じ夢を見ていたようなもの……と彼は言っていた。雨宮先輩って一体何者なのか。あの出来事以来なんだかまるで別人のようだ。
 噂をすればと言わんばかりに彼はやってきた。今日は彼と会う約束をしていた、この桜の木下で……。
「やあ、小林くんっ!!待たせてしまったな……こっちも色々あったんだが、なんにせよ遅れたのは悪い言い訳は良くないな。申し訳ない」
 そう、なんだかやけにテンションが高くなってしまった。もともと明るい性格ではあったのだがそれに磨きがかかっているような気がする。あの出来事以来ずっとこの調子になってしまい一時期は注目の的となっていた。でもすぐに適応してしまうのが人間のすごいところである。
「いいえ、全然大丈夫ですよ。私待つことは得意なので」
「そこは自信もっていうことじゃないよ。素直に待ったと言えばいいものを……」
 先輩は私の真上に広がる桜の木を眺めた。
「うんうん、今年の桜は一段と綺麗だな……ああ、少し語弊があったねぇ、桜も君も両方綺麗さぁっ!!ワッハッハッ!!」
 一体何が彼をここまで変えてしまったのだろうか。今のは桜と小林桜……どっちも綺麗という下手なお世辞なわけだ。
「はあ、そんなお世辞言わないでください」
「いいや、本当に綺麗さ」
「本当だったとしてなんなんですか?私になんて言って欲しいんです?」
 うっと言いながら引き下がる。またワッハッハと豪快に笑って誤魔化せてみせる。
「いやぁ君も一段と小林くんに似てきたねぇ」
 笑いを止めると頭を掻きながらそう言う。
「小林くんってどっちです?」
 彼はいつも私と兄のこと両方とも小林くんと呼ぶからややこしい。
「兄の方さ」
「私が兄に……?まさか、だって先輩言ってたじゃないですか。結局兄は私の妄想だったのだから私と同一人物で分けるのは意味がないって……」
 そう言ってみると急に先輩は真顔になる。そしてまた私と桜の木を交互に眺めている。
「確かにあの時はそう言ったね。いくら妄想でも人間一人作るのは当時の君には不可能だっただろう。幼い君には兄という存在の材料があまりにもかけていたんだ。だから小林兄は君の性格の中にある男らしいところを兄という形に当てはめて具現化したモノだ。そして残った女らしい性格が君だ。だから同一人物だと当時は思っていたけどね……」
 ビシッと指を刺す。
「だがやはり、君は君だっ!!たとえ兄と合体してしまったとしても君は小林桜であって、兄の方の桜ではないのだ!!」
「じゃあ、やっぱりさっき言った兄に似てるってのも嘘なんじゃないですか」
「えっ」
「だって同一じゃないってことは似てくることもないってことじゃないんですか?」
「いや、同一と似てくることというのは別々だよ。同一ではないのに似ているっていうのが本当の兄妹ってやつじゃないのかな」
 俺も一人っ子だから知らんがねぇ、と呟く。
「そうなんですか。そんなもんなんですかね……」
「ああ、そんなもんだよ。君たちはあまりにも近すぎたんだ」
 私は少し悲しくなってしまった。兄と私の関係は所詮そんなものなのだと痛感した。仕方のない、本来の兄妹というものは昔理想と思っていたようなものではなかったというだけだ。
「兄は私から産まれ出た時、どんな感情だったんでしょうか」
 先輩は顎に手を当てて考え込む。私は近くのベンチに座った。それをみていたのか先輩は横に座った。
「うん、それはとても難しい問題だねぇ」
「やっぱりそうですか?私もずっと考えてたんです。彼は産まれてきて嬉しかったんでしょうか。それとも……」
「嬉しかったと俺は思うよ」
 桜の花びらが一つ手のひらに落ちてくる。瞬間これは兄だと感じた。先輩も桜の花びらが一つ髪の上に乗っていた。
「彼は不思議でよくわからない人だったよ。でもそんな彼が唯一人間らしい心を見せたことがあった。それは君と一緒にいる時だ。彼はあまり人前で感情を見せることはなかった。クラスでは石像と呼ばれていたほどだしね。でも君と一緒にいる時だけは素直で感情を表に出せていたと俺は思うな。この世に産まれて憎い。君のことが嫌いだって思うのならそんなことすると思うかい?」
 私は黙り込んだ。側から見たら私と兄はそう見えていたんだ。全然気づけていなかった。それがどれほど幸福であったのか。でも兄が優しかったのは確かにそうだ。どんな時でも私を優先で考えて、泣きたくなった時はそっと支えてくれていた。
「嬉しいに決まっているじゃないか。君みたいな綺麗な人から産まれてきたのだから、男だったら誰でも喜ぶぜ?彼だって男だきっと産まれた瞬間だってああ、綺麗な人だ……って思っていたに違いないさっ!!」
 先輩は勢いよく立ち上がると手を広げて大きな声でそう言った。周りを歩いていた人たちも驚いていたが、一番驚いていたのはその横にいた私だろう。
「そう落ち込むな。彼は今も元気さ、君の中でなっ!!」
 私の中で……。
「またいつか会えますかね?」
「ああ、会えるに決まっているじゃないか。死んだわけでもあるまい。もし起き上がりそうにないなら俺を呼べ!!叩き起こしてやるよ。こんなにも綺麗な人を待たせて何をしている小林っ!!ってな感じでだな。いやもっと他のやり方もあるかな?」
 不思議と笑いが込み上がってきた。この人と話していたらなんだか考えるのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。確かに兄は私の中にいるんのだ。会いたいと思えばいっと会える。詳しい話はそこでとことん聞いてやるとしよう。
「じゃあ、俺は仕事があるんでね。また今度会おう」
 髪の上に桜が一枚のっていることにも気づかずさっきから鍔を掴んで持っていた帽子を被る。あれは一時気づかないだろうな。兄は意外といたずら好きなのかもしれない。また私は笑う。
「よしよし、君は笑っていないとダメだ。笑顔を取り戻せて良かったよ。これも俺の仕事のうちってな」
「まだ探偵の仕事は続けてるんですか?」
 深く頷く。
「何か困ったことがあればいつでも来なよ。うちは年中無休でやってるから、相談しにくるだけならタダだよ。人の話を聞くのが俺は大層好きでね。暇してるからねぇ本当にいつでも来なよ」
 相当暇しているみたいだ。二度同じことを言っている。
「わかりました。友達とかにも宣伝しておきます」
「おう、頼んだよ!!」
 彼は手を大きく振りながら歩いていった。姿が遠くなって小さくなり始めた頃、彼の隣にこの学校の制服を着た女子生徒が近づいて一緒に歩いているのが見えた。彼女が例の助手と言っていた子だろうか。あんな人に近づくとはすごい度胸のある子だ。
 彼の姿が見えなくなった。
 私は視線を桜に向けた。相変わらず綺麗なものだ。他の公園とかにも桜の木があるが、この学校の桜の木ほど綺麗なものを私は知らない。
 深呼吸をすると手の中に収まった小さな桜の花びらを見た。
「ずっとそばにいてね…………お兄」
 ベンチから立ち上がる。桜の木を横目に……
 私も歩き始めた。


 END

 
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