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帝王の刻印 - 籠の鳥は空を見ない -

眩しい光

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 あれから一ヶ月。
 虎は警察病院の屋上にいた。部下は建物の中に待機させて、一人で青空の下、佇んでいた。
 風はなく、暖かい日差しが降り注いでいる。
 屋上には高いフェンスとその上に電気の通った有刺鉄線が張り巡らされている。
 場所柄患者の逃亡を防ぐためと、そして、自殺者を出さないためだろうか。
 建物から屋上へと続く扉がガチャリと音を立てる。
「わざわざ来てもらって、ありがとう。坂崎さん」
 そこに立っていたのは、何の異常もないのに精神病者としてここに収容された坂崎の姿だった。
「虎君……ですか」
 坂崎は患者用の寝巻きに身を包んでいた。
 虎の姿を見た坂崎は特に動揺する様子もない。扉を後ろ手に閉めて、虎の方へと歩み寄ってくる。
 少し、痩せただろうか。
 左手首にはあの時ついた痣が、まだ残っていた。
「あんたの顔が、見たかったんだ」
 あの時、大和田に願った事がこれだった。誰の目にも付かないところで坂崎に面会する事が虎の願いだった。
「警視総監の力……ですか? 組織のトップである貴方がこんなところに易々とやって来られたのは、そう言う事ですね」
 坂崎はいやに冷静に、そう淡々と呟きを漏らす。
「……」
 会いに来たいとここまでやってきたものの、だからどうしたいという事もなく、虎は言葉に詰まる。
 酷い仕打ちをした事に罪悪感を抱いて、謝罪をしたかったのか。
「君を好きになった事、後悔していませんよ」
 けれど、虎が何かを言う前に、坂崎がそんな事を口にした。
「え……」
 意外な台詞に虎は驚いて身を固くする。
 坂崎の声は穏やかで、優しかった。
「僕は刑事だから、君が組織のトップである事を知りながらも黙って傍にいる事は出来ません」
 坂崎は苦笑いを浮かべると、足を差し出しフェンスへと歩を進める。
 フェンスの前に立つと、金網に手を添える。
「ああ。今はもう、刑事ではないのですが……やはり僕は君の傍にはいられない。どんな事情があるにせよ、君の行いを許す事は出来ないですから」
 正義感のある、坂崎だからこその信念だろう。
「あんた、らしいよ」
 虎は坂崎の横顔を見ながら、苦笑いを浮かべて小さく呟いた。
「でも、やっぱり……後悔はしていませんよ。君といた時間は、とても心地良かったんですから」
 こちらを振り返った坂崎の顔は、驚くほど輝いていた。自分を貶めた相手にそれほどまで優しく接す事が出来るのはどうしてだろう。
「俺も、あんたと一緒にいて……楽しかった」
 虎にとっても、それだけは変わらない事実だった。
「例えば、僕たちの人生がこのような形で交差しなければ、二人でいられたかもしれない。難しいですね、生きていくという事は」
 坂崎が刑事でなければ。そして、虎がもし、『DARK HELL』の社長になんてなっていなければ。
「でも、俺たちはこういう形だからこそ出会った。運命の悪戯ってヤツかな」
 そう。もし互いの人生が今と違っていたなら、出会う事すらなかっただろう。
「だから、君と出会った事、君を好きになった事を後悔はしません。本当にありがとう。虎君」
「ああ……」
 坂崎がフェンスから離れ、虎の方に歩み寄ってくる。
「握手しませんか」
 坂崎が笑顔で、虎に手を差し出す。虎も、そっとその手に自分の手を重ねた。
「さようなら」
「ああ、さようなら」
 固く握手を交わし、そして手が離れていく。坂崎は一度笑顔で虎に頷き、そして建物の中へと戻っていった。
「俺があの人と会った事に、何か意味があったのなら……いいんだけどな」
 無風だった屋上に、強い風が吹き始める。髪がゆらゆらと触れて頬をくすぐった。
「社長」
 建物の中で待機していた龍が、坂崎が戻るのを確認してからか屋上へとやってきた。
「龍」
 ちょいちょいと手招きをして龍を呼び寄せると、静かに名前を呼んでその身体に抱きついた。
「人生初。失恋だ……。なぁ龍……、癒やしてくれよ」
 龍の背中をきつく抱いて、ふざけたように言うものの龍はグッと両手で背中を抱いて包み込んでくれた。
「貴方をふるなんて、信じられない」
 心底思いの篭もった龍の呟きに少し笑ってしまった。
「ホント、お前は俺の事大好きだよな。その癖俺の事は抱いちゃくれない。本当に、おかしな奴だ」
 身体を重ねる事以外で他人と思いを通わせる意味を、坂崎のおかげで少し、理解出来たのかもしれない。
 それが坂崎と出会った意味、だったのかもしれない。
「な……天気もいいし、青姦とか……」
 ゆるゆると背中に回していた手で龍の形の良い尻を撫でていたら折角きつく抱きしめてくれていた身体を離されてしまった。
「駄目です」
 身体を重ねる事以外で他人と思いを通わせる意味を理解したとは言え、何もされないのはそれはそれで物足りない。
「チッ。相変わらずケチな龍だ」
 悪態をつきながら、虎はゆるりと青く爽やかな空を見上げた。
「なぁ……。俺、お前の人生、犠牲にしてないか? 俺みたいな奴の傍にずっといなくていいんだぞ。お前もお前の人生、生きていいんだぞ」
 孤独が嫌で、龍を束縛している癖に、いろいろな男と関係して一人で馬鹿騒ぎして、結局また龍に頼って。その繰り返しだ。
「俺は今の人生で十二分に幸せですよ。貴方と共に歩める地獄なら、極楽にも等しい」
「龍……」
 空から龍に、視線を移す。
 龍の言葉に、ゾクリと背筋が震えるような気がした。
 虎は咄嗟に、いつものように龍の胸倉をきつく掴み引き寄せる。
「お前も馬鹿だな……。とんだ男に惚れたもんだ」
 虎の心は躍るように高鳴った。
 男の固く乾いた唇に深く口づける。いつもはあの、深い闇に包まれた場所でしていた口づけを、こうして青空の下でしたのは初めてかもしれない。
「なぁ龍、知っているか?」
「何を、ですか?」
 虎は龍の胸倉から手を離すと、自分のシャツのボタンを幾つか外してみせる。
「この龍の刺青は、『DARK HELL』の支配者である証しなんだとさ」
 それより以前に彫られた、虎の刺青と同じ何の意味もないものだと思っていたのだが、そうではなかった。坂崎からそれを知らされた。
「鷹道さんは俺に、その証しを刻んだんだな」
 この刺青は烙印だったのだ。支配者である事から逃れられないと言う、そういう意味を持って烙印だったのだ。
「でも、俺にはそれ以外の意味も持ってる」
「それ以外……ですか?」
 龍が、虎の言葉に呟きを漏らす。
 虎は小さく笑ってそっと刺青に触れた。
「お前だよ。龍。お前の名前と同じ龍の刺青だ。永久にお前が、俺と共にある事を示しているような、そんな気がするんだ」
 安易な発想だったが、それでも虎にとっては大切な想いだった。
「俺が、貴方と共に……」
 龍は珍しく、大きく表情を変えた。感極まったように、呟く声は震えていた。
「こんな俺の傍にずっといてくれる奴なんて奇特だからな。感謝してる」
「社長」
 今度は龍の方から、きつく身体を抱きしめられる。
「ずっと、俺の傍にいてくれるか?」
 その問いかけは、少し弱々しく心もとない。
「ええ、一生。一生貴方の傍に。俺の人生は、貴方のものです」
 男の熱い想いに胸を撫で下ろしながら、虎もその男の身体を抱きしめた。
「馬鹿な奴」
 虎の呟きはどこか、高く弾んでいた。
 またあの、暗闇での人生が始まる。
 けれど、決して一人ではない事を実感していた。
 自分を愛してくれる人たちが、虎を包み込んでくれているのだから。
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