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帝王の刻印 - 籠の鳥は空を見ない -

忠犬と蟻地獄

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 あれから数時間眠った後、坂崎に携帯の電話番号とメールアドレスを渡して、延長分の馬鹿高いホテル代を難なく全額払いホテルを出た。
 ホテルの前で会いたくなったら渡した携帯アドレスにでも連絡をよこすように言ってから、坂崎と別れた。
 そう言えば、またホストクラブに顔を出していない。そろそろ従業員に忘れられても困ると、一言店に電話を入れてから『DARK HELL』に戻った。
 社長の虎だけは、特に暗証番号を入力する事もなく路地の入り口辺りに設置された監視カメラでその姿を確認出来れば地下への入り口が開くようになっている。
 いつものように鉄壁の門を抜けると、すぐに龍が迎えてくれる。そのまま龍と連れ立ち、地下三階の社長室に戻る。
 部屋に入り、真っ先に椅子に腰掛けた虎に龍が一言声をかける。
「社長、何か良い事でも?」
 意外な質問に虎は少し驚く。
「なんか、いつもと違うか? 俺」
 自分では意識していなかったが、龍がそう言うのならやはりいつもの自分とは何かが違うのだろう。
「ええ、少し嬉しそうです」
 虎は思い当たる節を探してみた。
「ああ、あれかも知れない」
 そして、思い当たったのは先ほどまで一緒にいた男の存在だ。
「面白い玩具を見つけたんだ」
 あの、古典的で馬鹿馬鹿しくも可愛い坂崎と言う男を。
「そうですか。それは良かった」
 龍は小さく頷いてまるで自分の事のように声を緩ませ呟いた。
「妬かないのか?」
 虎がからかうように聞くと、龍はゆるゆると左右に首を振る。
「貴方が幸せならばそれで」
「本当にお前は、最高の忠犬だな」
 龍は今まで一度も、虎に噛み付いた事などない。
 龍が虎にこれほどまでに忠実で、心酔しているのは、傷ついた過去から救い出してくれたと思っているからだろうか。
「俺と初めて会った時の事、覚えてるか?」
 大きな背凭れに深く身体を預けて高い天井を見上げる。
「ええ、はっきりと」
 こいつは、まだ十二、三かそこらだった。血色の悪い唇を血が出そうなほど必死で噛み締めて何かに耐えていた。そんな感じだった。
 龍もまた、家庭の問題でここにやってきた子供の一人だ。
「普通のガキならこんなところに連れてこられて恐怖と不安で泣き喚いてるってのに、お前は小さいのに涙も流さないで、自分の境遇を必死で受け入れようとしてた。そこが気に入ったんだ。俺はお前みたいに強くなかったから、そんなお前が羨ましかったから」
 今でも、こちらを威嚇するように睨み付ける龍の瞳が忘れられない。
「強くなんてありませんよ。貴方が、俺に手を差し伸べてくれなかったら、今頃どうなっていたのかもわからない。人生をかけて尽くしても足りない」
 こうやってお互いがお互いを謙遜し合って、二人が二人とも、自分の弱さを補おうとしている。誰かに必要とされたい。その思いだけが二人を結び付けているのだろう。
「俺もさ、お前とラブラブハッピーエンドにでもなれば丸く収まるのにな。やっぱり外の世界に憧れちまう。でもちゃんと、お前の事必要だと思ってるんだ」
 愛とか恋とか、そういうものじゃない、空気のようになくてはならない存在。それが虎にとっての龍だ。
「いいんですよ。貴方の好きなように生きて下さい」
「サンキューな」
 ちょいちょいと手招きをすると、龍がいつものように身体を屈ませる。そして虎が、胸倉を掴んで硬い唇に吸い付く。



 何度か口づけをして、胸倉を掴んだ手をそのまま龍のスーツのジャケットに滑り込ませた。シャツ一枚隔てた向こう側の、ほどよい筋肉が掌に触れる。ゆるゆると両手で脇腹を弄るように撫でた。
「なぁ、ちょっとぐらい俺の身体に触っても良くない?」
 言いながらもう一度唇を吸う。
「いいえ」
 これほどまでに頑なな態度は一体どうしてだろうかといつも疑問に思う。毎回誘っているこちらの気持ちも考えてくれればいいものを、と虎は龍を恨めしく思った。
「俺の事愛してるならセックスしたいと思わないのかよ」
 龍の裸は見た事がないけれど、シャツ一枚隔てて触れる身体はとても美しく感じた。一度だけでもこの身体に抱かれてみたいと何度思った事か。
 虎はジャケットに差し込んだ手を背中に回して龍の身体に抱きついた。もう一度噛み付くように口づけて、龍の身体を自分の方に近づけようとした。
「社長」
 しかし、すぐにやんわりと身体を引き離される。
「くそ、ケチな龍め」
 今日も誘惑は失敗だ。
 俺の誘惑を振り切るなんて、やっぱり龍は一筋縄じゃいかない男だなと虎は感心しつつ、ゆるりと今日も龍から手を引いた。
 その時、社長室の電話がけたたましく音を立てる。
「おっと、お呼びか」
 虎は、テーブルの上に置いてあった枠なしの眼鏡を取り上げるとそれをかけてから電話に出る。
「何か用か?」
 先ほどまでのおちゃらけた雰囲気は一変、眼鏡をかける事で虎はまた理知的な男に戻る。
『お手を煩わせて申し訳ありません。客が指名した娼婦を人質にして、責任者を呼ぶように要求していますが』
 不穏な電話に、受話器の向こう側には届かないように小さくため息を漏らしてから応える。
「わかった、向かう」
 部屋番号を確認すると、受話器を置いた。おもむろに椅子を後ろに引くと、テーブルの引き出しの鍵を開け中から拳銃を取り出す。
「物騒な事にはならなきゃいいがね」
 引き出しを戻し鍵をかけると、龍を引きつれ社長室から出る。廊下に立っている部下も何人か引き連れて問題の部屋へと向かう。
 コンコンとノックをすると、中にいた部下の一人が扉を開ける。
「さて、なんでしょうかお客様」
 虎は部屋の先に進むと、ベッドに座り込み娼婦である女の子をしっかりと抱きかかえた客に向かって笑顔で問いかけた。
「お前が責任者か?」
 思ったよりも若い虎の見た目にその男は一瞬驚いたようだった。けれど、すぐに持ち直して眉間に深い皺を寄せる。
「この子はな……私の妹なんだ……! こんなところで働かせていられるか、解放しろ……!」
「お兄ちゃんっ……」
 見たところ客は常連のようだ。年は三十路ぐらい。女の子は十五、六だから年の離れた兄妹か。
「社長」
 部下が後ろから数枚書類を手渡してくる。そこにはその男の経歴や、娼婦である女の子がここに至った経緯が書かれていた。
黒木くろきさんですね。へぇ、国家機関に勤めているエリートさんだ。しかも、ここの常連」
 書類に目を通しながら男の経歴を簡単に読み上げる。
「それがどうした……!」
 男はいきり立った様子で、妹を必死に抱きこんでいる。
「妹さんは、父親に売られてここに来たみたいじゃないか。その父親はあんたが二十六の時に離婚してる。あんたはその後母親に引き取られた。戸籍上あんたとその子は兄妹でもなんでもない。そうだろ?」
 淡々とつらつら書類を読み進める虎に、黒木は大声で喚き散らす。
「そんな事はどうでもいい……! とにかくこの子を解放しろ……!! 自分の娘をこんな場所に売り飛ばすような父親なんて知らない! だけどなぁ、この子は血の繋がったれっきとした俺の妹だ……!」
 感情が昂ぶっていて、聞く耳は持たないという感じだ。現場にビリビリと緊張感が走る。けれど、虎は社長と言う立場上この事態を収拾する義務がある。
「あんたはここの常連だ。だったら何人、抱いてきた? 可愛らしい女の子ばかりじゃないか」
「そんな事は……!」
「関係ないっていうのか? 非情な男だな、あんたは……!!」
 今まで冷静に話していた虎が大声を張り上げ、男がビクリと震える。
「黒木さん。今まであんたが抱いてきた彼女たちもその、あんたの大切な妹と同じような辛い経験をしてここに来たんだ。そんな子たちを平気で抱いてきて、血の繋がった妹だけは助けろって言うのか? 虫が良すぎると思わないのか……?」
 にっこりと笑って冷静に話す虎に、男の血の気が引いていく。
「ここの娼婦や男娼にも人生っていうものがある。どんなに辛い人生だろうと、それが人生だ。受け入れて生きていくしかない。だろう? 一度転落した人生を立て直すのは並大抵の努力じゃ無理だ」
 この地獄からは抜け出せない。それを受け入れて生きていくしかない。
「お前たちがこんな店をやっているのがいけないんじゃないか……! こんな店さえなければ……!」
 虎はほとほと呆れて、大きなため息をついて見せた。
「あんたみたいな奴らが多いからやらざるを得ないんだろう? どっかの御偉いさん方は自分たちだけ甘い汁を吸っておきながら、権力を思う存分振りかざしてくる。こっちだってな、やめられるならもうやめてるさ。簡単にやめられるなら苦労しない。こんな天国みたいな場所簡単に潰したら彼らが黙っちゃいない。そうしたら俺たちは抹消されて終わり。やめるも地獄、続けるも地獄なら、少しでも楽な道を選びたいだろう?」
 何を選択しても地獄なら、いっそ皆を道連れにして、蟻地獄に落ちていく方がいい。幻のような希望だけは抱いていられるなら、蟻地獄に落ちる手前のところで必死にもがいていた方がまだいい。
「あんたたちにも俺らにとっても、それが最善なら、あんたの妹や他の者たちには申し訳ないが自分の人生を受け入れて生きていってもらうしかない。違うか?」
 そんな虎の言葉に黒木は黙り込んでしまった。
「お、お兄ちゃん……っ……」
 妹が目に涙を浮かべて兄の身体を揺する。
「ほらだってさ、あんただって十分共犯だ。淫行罪なんてお手の物だろう? 罪名なんて何だって作れる。あんただけを刑務所にぶち込むのなんて楽なものだ。さぁ、どうする? 今まで通りの天国か、それとも、一人で地獄に落ちるか?」
 薄笑いを見せる虎に、黒木は愕然として肩を落とす。無論、彼が選ぶ道は見えている。
「騒ぎを起こしてすまなかった」
「お、お兄ちゃんっ……お兄ちゃん……っ……」
 悲しそうに兄の身体を揺すって妹が涙を流す。
「では、俺はこれで失礼します。これからもどうぞご贔屓に。黒木さん」
 後の事は処理するように部下に告げて、龍とその他の部下を引き連れて社長室のあるフロアへと戻る。
 そこで拾った何人かの部下は捨て、龍と二人で社長室へ戻った。
「ふぅ……」
 どっと疲れが湧いてくる。
 どかっと椅子に座ると、懐に仕込んでいた銃を鍵の付いた引き出しに戻した。
 眼鏡を外しテーブルに戻すと、グッと目を瞑って眉間を何度か押す。
「それが人生、か……」
 男娼や娼婦、ここで働く彼らの気持ちは虎が一番わかっているはずなのに、そう言って片付けてしまう事に少し虚しさを感じた。
「俺みたいな人間に、あんな事を言う資格はないのにな」
 彼らよりはまだマシだから。一番底辺の地獄にいるわけじゃない。よっぽど楽で自由な生活が出来るようになったのだから。
「少し眠りますか?」
「ああ」
 虎の酷く疲れた様子に、龍が優しく訪ねかけてくれる。
「ちょっと一人にしてくれるか?」
「ええ」
 苦笑いを浮かべて龍を見上げると、龍はしっかりと頷いて部屋を出て行った。
 それを確認してから、社長室の脇にある扉に向かう。手を翳し開いたそこには寝室が現れる。一人で眠るには十分な広さのベッドと、小さなカウンターが置かれていた。
 ジャケットを地面に脱ぎ捨て、靴を脱いでベッドに横になった。軽く毛布を羽織って、瞳を閉じる。
鷹道たかみちさん……あんた、何でこんな地獄作っちまったんだよ……。あんたも、抜け出せなくなったのか?」
 暗闇で呼ぶのは、先代の社長である男の名前だった。
 先代の九条鷹道は、虎にとっては大切な人だった。こんな組織を作った人物ではあったが、虎が龍にとって過去の傷を和らげてくれる存在であるように、また、鷹道は虎の過去の傷を和らげてくれた存在だった。
 先代に見初められなかったら、虎はまだあの、底辺の地獄にいたかもしれない。男に抱かれるだけの、快楽と苦痛に満ちた地獄に。
 虎自身、セックスは嫌いじゃなかった。快楽は恐怖心を忘れさせてくれたが、まだ若かった頃は好きでもない男に抱かれた自分に激しく嫌悪感を覚えた。抱かれてすぐはなんともなかったが、それから数時間していつも一人トイレに駆け込むと嘔吐していた。
 ふと、坂崎の言葉を思い出す。
「セックスは意中の相手と……か。やっぱあいつ、面白い奴だな……」
 少しだけ笑みが浮かぶ。今度はいつ会える事やら。
 その時、不意に地面に落としたジャケットからメールの着信音が聞こえてくる。
 のろのろとベッドをはってジャケットから携帯電話を取り出すと、知らないアドレスからのメールだった。
 中を開くと、タイトルには『坂崎啓一です』の文字。
「噂をすれば影ってやつか……」
 携帯電話を持ったまま、ベッドの中心に仰向けに横たわり直す。
 携帯電話を顔の前に高く掲げる。視界の脇に入る天井がぼやけて見えた。
「あれからそんなに経っていないのにメールしてごめんなさい。明後日の夜は空いていないですか? 是非お会いしたいです……か」
 坂崎のメールを読み上げると、少しだけ、心が弾むような気がした。
「なんだろうな。ちょっとだけ、癒やされたかも」
 小さく笑って、虎は携帯電話を握り締めたまま目を瞑った。
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