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第39話

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「わあ、やっぱり黒髪に黒がしっとり似合って、カッコいい~っ!」
「騒ぐなよ。くそう、肩が凝って堪んねぇな」

 二十二時からの王室主催パーティーを一時間後に控え、伯爵邸のゲストルームで着替えたシドは両腕をぶんぶん振り回した。珍しくポーカーフェイスを崩して口がへの字だ。

「自分で承知したんでしょ、文句言わないの。それに何度か任務で着てるじゃない」
「そのたびに新鮮に嫌気が差すんだ」
「ンなことばっかり言って。おまけに本当なら正礼装でホワイトタイの燕尾服だったのを、準礼装のタキシードにして貰ったんだからね」

 それも採寸スキャン時に執銃する分の余裕を持たせ、カマーバンドもサスペンダーも抜きにしてベルト使用という注文をつけた他星人は、この惑星マールでも有名な伝統ある仕立て屋に渋い顔をされたのだった。
 仕方なくベストを着用し幅広のタイを締めて誤魔化している。

 一方のハイファもタキシード、内懐には執銃しているものの、こちらは正統派の着こなしで黒の蝶タイを締めていた。手にした黒のコートも新調品だ。髪は藍色のリボンで結んでいる。

「おまけに対衝撃ジャケット、プラス貴方の銃は見えちゃってるし相当目立つよね」
「どうせ目立ちに行くようなもんだろ、他星の平刑事ふぜいが物件を横取りしたんだからな」
「向こうから仕掛けてくれれば、ヘンリーの仕事もやりやすいんだけどね」
「って、マジでタラすと思ってるのか?」
「じゃあ僕がタラそうか?」

 不機嫌のオーラが倍増したのを感じ取り、ハイファは微笑んで愛し人の長めの前髪に手を伸ばした。黒髪をかき分けた指先を頬に滑らせる。そこには昨日の傷痕が残っていて、端正な顔に凄味を付け加えていた。

「僕よりも貴方が心配だよ……お願い、誰にも笑いかけないで」
「バカ。俺はお前だけだって」

 そっと互いの腰に腕を回して口づける。ハイファはソフトキスのつもり、だがシドは唇を捩る勢いで求めた。歯列を割って侵入してきた柔らかな舌が蠢き、ハイファの思考に一瞬で紗を掛ける。口内を優しくねぶり回されて、数秒と経たずに応えてしまっていた。

「ん、ぅうん……っん……はぁん」
「チクショウ、このまま押し倒したいぜ」
《――失礼致します。ご用意はできましたでしょうか?》

 音声素子から流れたのは執事殿の慇懃な声、その隙にハイファはシドから逃れた。

「いいところだったのによ」
「そんなヒマはないでしょ。ほら、行こ」

 シドは巨大レールガンを保持する大腿部のバンドを素早く締め直し、対衝撃ジャケットを手にする。ハイファもコートを左腕に掛け、揃って部屋を出た。
 廊下で待っていた執事殿は二人を見て僅かに目を細めたのち、先に立って歩き出す。案内されたのは一階のサロンで、ヴァレリー伯が足元に猫二匹を遊ばせていた。

「お待たせしまして……」

 二人が入ってゆくとヴァレリー伯は目を瞠った。

「これは……いや、参るね。娘が霞んでしまいそうだな」
「そんな。王室主催なのに、この格好で伯爵の顔に泥を塗ることになりませんか?」
「心配無用だよ。しかし驚いたな、誰よりも貴族らしいじゃないか」

 促されてシドと並び、ハイファはソファに腰掛ける。すぐに紅茶が目の前に置かれた。繊細な絵付けをされたカップに口をつけながら絨毯の上でじゃれ合っているシャム猫と三毛猫に目をやる。ジュリエッタと喉を鳴らしているのはタマだ。

 昨夜のうちにヘンリーはロシェルへの寄生・潜伏を果たしている。
 寝込みを襲った訳だが、伯爵には事前に『ガードとして必要』だと告げてあり、鷹揚にも許可は得られたので何処にも波風は立たない。

「遅いな、ロシェルは。女の支度はAD世紀の昔から時間が掛かるものらしいが」

 ヴァレリー伯が呟いた時ようやくルイーズを付き添いにロシェルが入ってきた。
 ロシェルはシドとハイファを見て頬を紅潮させる。

「まあ、シド、ハイファス! 何て素敵なの!」
「ロシェル、貴女こそとっても綺麗だよ」
「そう……かしら?」

 結い上げた薄い色の金髪には長年のダイアモンドの地位を奪ったラクリモライトの髪飾りが虹色に輝いている。裾の膨らんだイブニングドレスはすみれ色で肘より長い白手袋をしていた。大きく開いた白く眩い胸元にもラクリモライトのネックレスだ。

 だが高価な宝石より薄化粧の珊瑚色の唇の方が数倍愛らしい。素直にハイファはそう思い、心から賛辞を送った。
 しかしロシェルは何よりも欲しいものを求め、恐る恐るという風に口を開く。

「シドは……ねえ、シドはどう思ってらっしゃる?」
「ん、マジで可愛いよな。お姫様みたいだぞ」

 そう言ったシドに、ハイファが気付いてロウテーブルに飾られていたオレンジ色のバラを一輪取って手渡した。頷いたシドはロシェルに近寄り、結い上げられた髪にそっと挿してやる。それだけで上品にまとめられていた盛装がパッと華やかになった。

 ハイファはロシェルが泣き出すんじゃないかと危惧したが、顔を真っ赤にしたロシェルは化粧をした女の意地か、灰色の瞳を潤ませただけに留まった。

「さあ、もう出なくてはなりませんよ」

 手を打って仕切ったのはルイーズ、愛娘の成長に感動しているのか黙ったままの伯爵と黒服二人を立ち上がらせる。シドとハイファは自分の役目を思い出し、それぞれジャケットとコートを羽織るとロシェルの両側に就いた。
 ハイファがルイーズから毛皮のコートを受け取りロシェルに着せかけたのち腕を取らせる。

 猫二匹を除く全員で玄関ホールに出た。大扉を開けると外は雪がちらついていたがドライバーが車寄せに駐めた黒塗りのコイルはピカピカに磨かれてスタンバイしていた。コイルの前にはシドとハイファ、ロシェルと執事殿だけが立つ。

「お父様、叔母様、行ってきます」
「ゆっくり愉しんでおいで。シド君、ハイファス君、娘を頼んだよ」

 二人は頷いてロシェルを挟む形で黒塗りに乗り込んだ。最後に執事殿がドアを閉め回り込んでナビシートに収まる。時間が押しているのか黒塗りはすぐに発進した。
 シドは窓外を眺めたが夜というのを差し引いても吹きつける雪で何も見えない。

「ウェザコントローラも、こんな日に降らせなくたっていいのにな」

 呟いたシドの隣でロシェルが笑った。心なしかその声も上品になっている。

「わたしたちは雪には慣れているから平気だわ」
「だからって、せっかくの服が濡れちまうかも知れないだろ」
「いいのよ雪が降るたびに今日のことを思い出せるもの」

 そう言ったロシェルは少し淋しそうではあったが、いじけたところはなかった。すぐに晴れやかな笑顔になり、そして何気ない調子で呟いた。

「……お腹が空いたわ」

 シドとハイファは驚かなかった。喩えロシェルが一時間前の夕食の席でロールパンを七個も食べてルイーズにしかられていても、だ。
 そう、これがヘンリーの潜入した弊害、人間という知能の高い生物に本人の了解なしに寄生すると、とんでもなく腹が減るのである。

 ヘンリーたちの言う『高等技術』とは『異常食欲を我慢すること』だったのだ。
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