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第51話
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五日間保養所で過ごして京哉の躰も完全になったのを見計らい霧島が切り出した。
「そろそろマンションに帰ろうと思うんだが」
「そうですね。僕もいつまでもお世話になっていられませんし、明日から出勤だし」
「ギプスを巻いて固定したし私も出勤しようと思う。だが実際問題、日常生活や通勤にも困る身の上だ。そこで京哉、お前にも協力願いたいんだが、どうだ?」
どうだと訊かれて京哉は霧島を見上げる。霧島の言いたいことは分かっていた。マンションで一緒に暮らさないかということだ。予期していたが京哉は即答できない。
自分の『利かない片腕代わりになれる』という科白は忘れていない。けれど用意された立ち位置に都合良くすっぽり収まるのも甘えではないかと思ったのだ。
何処までも甘やかしてくれる年上の愛しい男と一度一緒に暮らしてしまったら、おそらくもう二度と離れられなくなると予想はついた。しかし何れは霧島の怪我も治るのだ。
片腕としての自分が不要になった時、果たして鳴海京哉は己の立ち位置を見失わずにいられるだろうか。霧島に縋って生きるだけの存在に成り下がるのではないか。
そんな怖さを伴うくらい、この男の傍は居心地が良すぎるのである。
何も一家の大黒柱の給料で生きている人間を貶める訳ではない。帰ったらその人が待っていると思えばこそ励みになり働ける者も多いだろうし、病気その他の理由で働けず他者を頼ったとしても、その人がその人なりの生きる意味と価値を見出していれば第三者が口を挟むべき問題ではないと京哉は思う。
京哉自身は高校二年の冬に母を亡くしてから独りで生きてきて、スナイパーになるまで逆に生きる意味など考えもしなかった。警察官になるという夢を追うのに必死で哲学しているヒマもなかった訳だ。
だが強要されたとはいえ人殺しになった自分は、殺した彼らが生きたかった筈の時間をぼんやりと過ごしてしまっている。
不甲斐ない自分だからこそしっかりと立っていなければと常々思うのだが、何だか夢を追っていた頃と違って足場が酷く狭い上にグラグラしている気がするのだ。
そんな自分に霧島の誘いは中毒性のある甘いエサ同然に感じられてしまう。
霧島本人も京哉がここまでためらう理由を何かしら感じ取っているからこそ、敢えて『心置きなく使わせて貰う』とは言わずに選択権を与えてくれているのだろう。
黙考する京哉を霧島は灰色の目で真っ直ぐに見て再度訊く。
「なあ京哉。運転もできん風呂にも入れんでは私も困る。協力してくれないか?」
マンションはプライヴェート領域なのできっと霧島はダダ甘に甘やかしてくれるだろうが、職場では上司と部下。そして対等なバディだ。京哉も意地はある。この世で一番大切な者に恥などかかせはしない。
溜息ひとつで京哉は答えた。
「……分かりました、いいですよ」
結局京哉は愛しい男のお願いに弱いのだ。対して霧島は非常に嬉しげな顔をする。
「本当か? なら荷物をまとめて車も回させないとな!」
「そう慌てなくても僕と今枝さんで準備しますから、貴方は座っていて下さい」
その日の夕食後、保養所を出る際には今枝執事とメイドや厨房員に医師や看護師までが総出で別れを惜しんでくれた。白いセダンに二人が乗ると今枝執事が挨拶する。
「では、お気を付けて行ってらっしゃいませ」
「分かった、行ってくる」
そんな霧島と今枝執事の会話以外には何も必要ない気がして、京哉は運転席で深く頭を下げるに留まった。ゆっくりと発車させてロータリーを巡り坂道を下り始めるまで、ルームミラーの中で皆は大きく手を振ってくれていた。
「みんないい人ばかりでしたね……」
「確かにそうだが湿っぽく言うな。これから先もパーティーだの何だので保養所に寄る機会はある。皆にも会える。というより覚悟しておいた方が身のためだぞ」
「脅さないで下さい。僕はどうせ貴方の付属物でワルツなんか踊れませんし」
「そんなに踊りたいなら教えてやる。壁の花ならぬ壁のシミは勿体ないからな」
「結構です。僕が女性と踊ったらご機嫌斜めになる人がいますから」
「当たり前だ。お前は私の妻だろう、私以外と踊るなど許さんからな!」
またも人語が通じなくなり出した男を乗せ、京哉の運転するセダンは四十分ほどで真城市内のスーパーマーケットの駐車場に滑り込む。まずは食料の買い出しだ。
幸い雨も上がり二人でビニール袋三つ分の大荷物を運ぶのにも支障はなかった。
車を出して今度は京哉の官舎に寄る。今日は取り敢えず当座の着替えだけ手早くまとめて持ち出した。これでようやく寄り道は終わり、霧島のマンションに向かう。
マンションの傍に車を停めて荷物の第一陣と共に霧島を五階の自室に押し込んでおき、京哉は衣服や食料品などを抱えて三往復した。
あとは近所の月極駐車場にセダンを駐車しに行くとマンションの部屋まで駆け戻る。
部屋に戻ってみると荷物はあらかた霧島が片付けてくれていた。
片付けは霧島に任せて京哉は風呂の準備をする。ギプスを巻いての風呂は難事業だが、躰を拭くだけより入浴した方が血行も良くなって治りが早くなると聞いていた。
「さあて、お湯も溜まったし脱いで下さい」
身ぐるみ引っぺがして医師から貰った筒状のビニールをギプスに被せ、テープでキッチリと隙間を塞いでから霧島を風呂に追いやる。
妙な気を起こされないよう京哉は服を着たまま腕捲りして全身を洗ってやった。シャワーで泡を流すと自分は風呂から一旦出る。
次はスーパーで購入した超初心者用の料理本を見ながら明日の朝食の仕込みだ。炊飯器を前に計量カップをひねくり回しているとバスローブを着た霧島が出てくる。
「京哉、お前も風呂に入れ。日付が変わるぞ」
「えっ、もうそんな時間ですか?」
慌てて風呂を済ませると再びキッチンで料理本と格闘だ。結局ベッドに潜り込んだのは二時過ぎだった。霧島から右腕の腕枕を貰って横になると胸に抱き込まれる。
「すまん。予想以上にお前には世話を掛けてしまうようだ」
「愉しんでいるから構いません。僕も思っていた以上に役に立てるみたいで嬉しいんですから。それにやっぱり忍さんの傍は気持ち良くて――」
もう寝息を立て始めた京哉の頬に霧島はキスをした。耳元に囁きを吹き込む。
「京哉。お前はどれだけ私を甘やかせば気が済むんだ?」
「そろそろマンションに帰ろうと思うんだが」
「そうですね。僕もいつまでもお世話になっていられませんし、明日から出勤だし」
「ギプスを巻いて固定したし私も出勤しようと思う。だが実際問題、日常生活や通勤にも困る身の上だ。そこで京哉、お前にも協力願いたいんだが、どうだ?」
どうだと訊かれて京哉は霧島を見上げる。霧島の言いたいことは分かっていた。マンションで一緒に暮らさないかということだ。予期していたが京哉は即答できない。
自分の『利かない片腕代わりになれる』という科白は忘れていない。けれど用意された立ち位置に都合良くすっぽり収まるのも甘えではないかと思ったのだ。
何処までも甘やかしてくれる年上の愛しい男と一度一緒に暮らしてしまったら、おそらくもう二度と離れられなくなると予想はついた。しかし何れは霧島の怪我も治るのだ。
片腕としての自分が不要になった時、果たして鳴海京哉は己の立ち位置を見失わずにいられるだろうか。霧島に縋って生きるだけの存在に成り下がるのではないか。
そんな怖さを伴うくらい、この男の傍は居心地が良すぎるのである。
何も一家の大黒柱の給料で生きている人間を貶める訳ではない。帰ったらその人が待っていると思えばこそ励みになり働ける者も多いだろうし、病気その他の理由で働けず他者を頼ったとしても、その人がその人なりの生きる意味と価値を見出していれば第三者が口を挟むべき問題ではないと京哉は思う。
京哉自身は高校二年の冬に母を亡くしてから独りで生きてきて、スナイパーになるまで逆に生きる意味など考えもしなかった。警察官になるという夢を追うのに必死で哲学しているヒマもなかった訳だ。
だが強要されたとはいえ人殺しになった自分は、殺した彼らが生きたかった筈の時間をぼんやりと過ごしてしまっている。
不甲斐ない自分だからこそしっかりと立っていなければと常々思うのだが、何だか夢を追っていた頃と違って足場が酷く狭い上にグラグラしている気がするのだ。
そんな自分に霧島の誘いは中毒性のある甘いエサ同然に感じられてしまう。
霧島本人も京哉がここまでためらう理由を何かしら感じ取っているからこそ、敢えて『心置きなく使わせて貰う』とは言わずに選択権を与えてくれているのだろう。
黙考する京哉を霧島は灰色の目で真っ直ぐに見て再度訊く。
「なあ京哉。運転もできん風呂にも入れんでは私も困る。協力してくれないか?」
マンションはプライヴェート領域なのできっと霧島はダダ甘に甘やかしてくれるだろうが、職場では上司と部下。そして対等なバディだ。京哉も意地はある。この世で一番大切な者に恥などかかせはしない。
溜息ひとつで京哉は答えた。
「……分かりました、いいですよ」
結局京哉は愛しい男のお願いに弱いのだ。対して霧島は非常に嬉しげな顔をする。
「本当か? なら荷物をまとめて車も回させないとな!」
「そう慌てなくても僕と今枝さんで準備しますから、貴方は座っていて下さい」
その日の夕食後、保養所を出る際には今枝執事とメイドや厨房員に医師や看護師までが総出で別れを惜しんでくれた。白いセダンに二人が乗ると今枝執事が挨拶する。
「では、お気を付けて行ってらっしゃいませ」
「分かった、行ってくる」
そんな霧島と今枝執事の会話以外には何も必要ない気がして、京哉は運転席で深く頭を下げるに留まった。ゆっくりと発車させてロータリーを巡り坂道を下り始めるまで、ルームミラーの中で皆は大きく手を振ってくれていた。
「みんないい人ばかりでしたね……」
「確かにそうだが湿っぽく言うな。これから先もパーティーだの何だので保養所に寄る機会はある。皆にも会える。というより覚悟しておいた方が身のためだぞ」
「脅さないで下さい。僕はどうせ貴方の付属物でワルツなんか踊れませんし」
「そんなに踊りたいなら教えてやる。壁の花ならぬ壁のシミは勿体ないからな」
「結構です。僕が女性と踊ったらご機嫌斜めになる人がいますから」
「当たり前だ。お前は私の妻だろう、私以外と踊るなど許さんからな!」
またも人語が通じなくなり出した男を乗せ、京哉の運転するセダンは四十分ほどで真城市内のスーパーマーケットの駐車場に滑り込む。まずは食料の買い出しだ。
幸い雨も上がり二人でビニール袋三つ分の大荷物を運ぶのにも支障はなかった。
車を出して今度は京哉の官舎に寄る。今日は取り敢えず当座の着替えだけ手早くまとめて持ち出した。これでようやく寄り道は終わり、霧島のマンションに向かう。
マンションの傍に車を停めて荷物の第一陣と共に霧島を五階の自室に押し込んでおき、京哉は衣服や食料品などを抱えて三往復した。
あとは近所の月極駐車場にセダンを駐車しに行くとマンションの部屋まで駆け戻る。
部屋に戻ってみると荷物はあらかた霧島が片付けてくれていた。
片付けは霧島に任せて京哉は風呂の準備をする。ギプスを巻いての風呂は難事業だが、躰を拭くだけより入浴した方が血行も良くなって治りが早くなると聞いていた。
「さあて、お湯も溜まったし脱いで下さい」
身ぐるみ引っぺがして医師から貰った筒状のビニールをギプスに被せ、テープでキッチリと隙間を塞いでから霧島を風呂に追いやる。
妙な気を起こされないよう京哉は服を着たまま腕捲りして全身を洗ってやった。シャワーで泡を流すと自分は風呂から一旦出る。
次はスーパーで購入した超初心者用の料理本を見ながら明日の朝食の仕込みだ。炊飯器を前に計量カップをひねくり回しているとバスローブを着た霧島が出てくる。
「京哉、お前も風呂に入れ。日付が変わるぞ」
「えっ、もうそんな時間ですか?」
慌てて風呂を済ませると再びキッチンで料理本と格闘だ。結局ベッドに潜り込んだのは二時過ぎだった。霧島から右腕の腕枕を貰って横になると胸に抱き込まれる。
「すまん。予想以上にお前には世話を掛けてしまうようだ」
「愉しんでいるから構いません。僕も思っていた以上に役に立てるみたいで嬉しいんですから。それにやっぱり忍さんの傍は気持ち良くて――」
もう寝息を立て始めた京哉の頬に霧島はキスをした。耳元に囁きを吹き込む。
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