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第19話
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再び歩き出してハイファは答えた。
「まあ、理由のひとつだね。例えばこのトキアの街にはデリンジャー伯爵が封ぜられてる」
「ふうん。でも普通にしてれば伯爵サマなんかには縁がねぇだろ」
「まあ、普通ならね……普通なら」
「リピートするなよ、俺だって好きで事件にぶち当たってるんじゃねぇんだぞ」
「分かってるよ。でも何の手掛かりもないんだもん」
「ふん。お前までが俺を棒に当たる犬扱いするとはな」
鼻を鳴らしてすたすたと先に行ってしまうシドに、ハイファは本気で機嫌を損ねてしまったかと少々慌てる。刑事としてのシドをハイファは尊敬していた。時折、畏怖まで覚えるような勘のキレを見せる愛し人の捜査能力に絶大な信頼を置いている。
けれどここまで手掛かりがないとストライクに期待してしまうのも仕方ない。
一方シドは他でもない自分が何故この任務に投入されたのかを充分承知していて、別室長ユアン=ガードナーの思惑をバディにダメ押しされたことに腹を立てていた。怒りの対象はユアン=ガードナーであり、ハイファに対してはタダの八つ当たりをしているに過ぎない。
足早に街の大通りを縦断するように歩きながら、この街の大まかな地理を頭に入れてゆく。大通りは二本で十字を描いていた。あとは中くらいの通りが数本直角に交差し、ブロックごとに裏通りが迷路の如く入り組んで、間に高くとも三階建て程度の建物が並び立っている。
建物は石と木で出来たものばかり、大通り沿いの建造物は殆どが一階に店舗を構えていて、見て歩くには目に飽きず面白かった。だが街は思ったよりも広大で、全てを歩いて回るにはかなりの時間と体力が必要だろうと思われる。
気付けば街の建物の歪んだガラス窓からは明かりが洩れ始めていた。リモータを見ればもう十九時半で、空は紺色から群青色のグラデーションとなり、恒星コリスは影も形もない。瞬く星々の中に大きく赤い月が満月よりも少し欠けてぶら下がっていた。
「あの赤い月は何ていうんだ?」
「えっ、あ……確かアリエスだったと思う」
赤い月は血を連想させるためか、不吉なイメージであまり嬉しくねぇなと思いながら、シドは目で宿を探している。いい加減にハイファを休ませてやりたかった。
そうして見つけたのが大通り沿いの看板で、木製のそれにはステンシルで花を咥えた小鳥が描かれ、『ドロップスの宿屋』と書いてある。振り向いて伺うと頷いたハイファが前に出て、ドアに取り付けられたノッカーを二度鳴らした。ロックの掛かっていないドアを引き開ける。
「お邪魔しまーす」
入ってすぐに中は食堂になっていた。大型のランプが幾つか天井から下がっていて、まず目に付いたのはバーカウンターだ。他にテーブル席が四つある。テーブルはふたつが使用中でカウンターの椅子もふたつが塞がっていた。カウンター内にいた老年に近い男が首を傾げてシドとハイファを見つめている。こういうときに口を利くのはハイファの役目だ。
客の全員からも振り向かれ、全力で視線を向けられたがハイファは怯まない。
「二人なんですけど、泊まれますか?」
「部屋は空いておるが、ツインはない。シングルふたつでいいかね?」
「ダブルで喫煙、ありますか?」
「……ああ、空いてるよ」
カウンター内の主人らしい老年の男とハイファの会話を、今やその場の全員が聞いていて、シドはかなり恥ずかしかった。だが表面上はポーカーフェイスを保ちながら、ここが結構大らかな土地らしいことも知って多少の安堵を得る。
老年の主人は茶色い目で二人をじっと観察したのち、また首を傾げた。
「食事が要るならここで摂ってくれるかね?」
「あ、夕食と朝食もお願いします。お幾らですか?」
「一泊二食で一人五千フラドだ。ところで何処から来なさったかね?」
「イラドの町から今日着いたばかりで……」
「ほう、遠くからはるばる……まあ、座ってゆっくりしなされ」
勧められてシドとハイファは八つあるカウンターの椅子、真ん中辺りに並んで腰掛けた。椅子もカウンターも磨かれ使い込まれた飴色の木材だ。
二人が着席すると食堂内の空気がやっと流れ出したようにシドは感じた。色々と主人が訊くのは自分たちの見慣れぬ風体から、おかしな客に関わるのを警戒してのことだろう。興味を満たし安心させる役目はハイファに任せきって、シドはカウンターにあった陶器の灰皿を目の前に引き寄せた。数時間ぶりの煙草を咥えてオイルライターで火を点ける。
紫煙を吐いた途端に腹が鳴った。朝食も摂らずにテラ標準時ではもう昼だ。
「お腹空いちゃったよね。さあて、何を食べようかな」
「メニューは少ないが、どれも自信作だからの」
「じゃあ、ご主人の一番の自信作を食わせてくれるか?」
そうシドが言うと、ベージュのエプロンを着けた主人は笑って調理に取り掛かった。
「わしのことはジェフでいい。あんたらはそこの宿帳に名前を書いてくれるかの」
分厚い宿帳は年代を感じさせるシロモノで、紐で束ねた紙が茶色に染まっている。アドレスまでは書かずともいいらしく、安堵して二人はガラスペンで名前を記入した。
インク壺で汚れた指先を擦ってシドが誤魔化していると、ハイファが先に立って隅の洗面所で手を洗ってくる。交代で立つとシドはポンプ式の水道から試行錯誤して水を出した。
カウンター席に戻ってみると、もうサラダとパンにスープが出されていた。サラダは木をくり抜いた小ぶりのボウルに入っていて結構な量、既にドレッシングも掛かっていて、生野菜が得意ではなく酸っぱいもの嫌いのシドは、ポーカーフェイスの眉間にシワを寄せる。
「いただきます。シド、ちゃんと食べて」
「いただきます。食うってばよ」
意外にもドレッシングは酸味が少なく食べやすかった。フォークでつついていると白身魚のフリッターの小鉢が出され、次にメインディッシュらしきプレートが差し出される。
プレートの上にはガーリックの香るソースの掛かった肉が載っていた。人参のグラッセと焼いたポテト付きなのがジェフの洒落心を感じさせる。だがシドは肉ばかりをじっと眺めた。
「まあ、理由のひとつだね。例えばこのトキアの街にはデリンジャー伯爵が封ぜられてる」
「ふうん。でも普通にしてれば伯爵サマなんかには縁がねぇだろ」
「まあ、普通ならね……普通なら」
「リピートするなよ、俺だって好きで事件にぶち当たってるんじゃねぇんだぞ」
「分かってるよ。でも何の手掛かりもないんだもん」
「ふん。お前までが俺を棒に当たる犬扱いするとはな」
鼻を鳴らしてすたすたと先に行ってしまうシドに、ハイファは本気で機嫌を損ねてしまったかと少々慌てる。刑事としてのシドをハイファは尊敬していた。時折、畏怖まで覚えるような勘のキレを見せる愛し人の捜査能力に絶大な信頼を置いている。
けれどここまで手掛かりがないとストライクに期待してしまうのも仕方ない。
一方シドは他でもない自分が何故この任務に投入されたのかを充分承知していて、別室長ユアン=ガードナーの思惑をバディにダメ押しされたことに腹を立てていた。怒りの対象はユアン=ガードナーであり、ハイファに対してはタダの八つ当たりをしているに過ぎない。
足早に街の大通りを縦断するように歩きながら、この街の大まかな地理を頭に入れてゆく。大通りは二本で十字を描いていた。あとは中くらいの通りが数本直角に交差し、ブロックごとに裏通りが迷路の如く入り組んで、間に高くとも三階建て程度の建物が並び立っている。
建物は石と木で出来たものばかり、大通り沿いの建造物は殆どが一階に店舗を構えていて、見て歩くには目に飽きず面白かった。だが街は思ったよりも広大で、全てを歩いて回るにはかなりの時間と体力が必要だろうと思われる。
気付けば街の建物の歪んだガラス窓からは明かりが洩れ始めていた。リモータを見ればもう十九時半で、空は紺色から群青色のグラデーションとなり、恒星コリスは影も形もない。瞬く星々の中に大きく赤い月が満月よりも少し欠けてぶら下がっていた。
「あの赤い月は何ていうんだ?」
「えっ、あ……確かアリエスだったと思う」
赤い月は血を連想させるためか、不吉なイメージであまり嬉しくねぇなと思いながら、シドは目で宿を探している。いい加減にハイファを休ませてやりたかった。
そうして見つけたのが大通り沿いの看板で、木製のそれにはステンシルで花を咥えた小鳥が描かれ、『ドロップスの宿屋』と書いてある。振り向いて伺うと頷いたハイファが前に出て、ドアに取り付けられたノッカーを二度鳴らした。ロックの掛かっていないドアを引き開ける。
「お邪魔しまーす」
入ってすぐに中は食堂になっていた。大型のランプが幾つか天井から下がっていて、まず目に付いたのはバーカウンターだ。他にテーブル席が四つある。テーブルはふたつが使用中でカウンターの椅子もふたつが塞がっていた。カウンター内にいた老年に近い男が首を傾げてシドとハイファを見つめている。こういうときに口を利くのはハイファの役目だ。
客の全員からも振り向かれ、全力で視線を向けられたがハイファは怯まない。
「二人なんですけど、泊まれますか?」
「部屋は空いておるが、ツインはない。シングルふたつでいいかね?」
「ダブルで喫煙、ありますか?」
「……ああ、空いてるよ」
カウンター内の主人らしい老年の男とハイファの会話を、今やその場の全員が聞いていて、シドはかなり恥ずかしかった。だが表面上はポーカーフェイスを保ちながら、ここが結構大らかな土地らしいことも知って多少の安堵を得る。
老年の主人は茶色い目で二人をじっと観察したのち、また首を傾げた。
「食事が要るならここで摂ってくれるかね?」
「あ、夕食と朝食もお願いします。お幾らですか?」
「一泊二食で一人五千フラドだ。ところで何処から来なさったかね?」
「イラドの町から今日着いたばかりで……」
「ほう、遠くからはるばる……まあ、座ってゆっくりしなされ」
勧められてシドとハイファは八つあるカウンターの椅子、真ん中辺りに並んで腰掛けた。椅子もカウンターも磨かれ使い込まれた飴色の木材だ。
二人が着席すると食堂内の空気がやっと流れ出したようにシドは感じた。色々と主人が訊くのは自分たちの見慣れぬ風体から、おかしな客に関わるのを警戒してのことだろう。興味を満たし安心させる役目はハイファに任せきって、シドはカウンターにあった陶器の灰皿を目の前に引き寄せた。数時間ぶりの煙草を咥えてオイルライターで火を点ける。
紫煙を吐いた途端に腹が鳴った。朝食も摂らずにテラ標準時ではもう昼だ。
「お腹空いちゃったよね。さあて、何を食べようかな」
「メニューは少ないが、どれも自信作だからの」
「じゃあ、ご主人の一番の自信作を食わせてくれるか?」
そうシドが言うと、ベージュのエプロンを着けた主人は笑って調理に取り掛かった。
「わしのことはジェフでいい。あんたらはそこの宿帳に名前を書いてくれるかの」
分厚い宿帳は年代を感じさせるシロモノで、紐で束ねた紙が茶色に染まっている。アドレスまでは書かずともいいらしく、安堵して二人はガラスペンで名前を記入した。
インク壺で汚れた指先を擦ってシドが誤魔化していると、ハイファが先に立って隅の洗面所で手を洗ってくる。交代で立つとシドはポンプ式の水道から試行錯誤して水を出した。
カウンター席に戻ってみると、もうサラダとパンにスープが出されていた。サラダは木をくり抜いた小ぶりのボウルに入っていて結構な量、既にドレッシングも掛かっていて、生野菜が得意ではなく酸っぱいもの嫌いのシドは、ポーカーフェイスの眉間にシワを寄せる。
「いただきます。シド、ちゃんと食べて」
「いただきます。食うってばよ」
意外にもドレッシングは酸味が少なく食べやすかった。フォークでつついていると白身魚のフリッターの小鉢が出され、次にメインディッシュらしきプレートが差し出される。
プレートの上にはガーリックの香るソースの掛かった肉が載っていた。人参のグラッセと焼いたポテト付きなのがジェフの洒落心を感じさせる。だがシドは肉ばかりをじっと眺めた。
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