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第29話

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 エレベーターから降りる寸前にシドからのリモータ発振を受けたハイファは、ラボのエントランス、車寄せまで慌てて走った。

 愛し人の姿を認めて思わず叫ぶ。

「どうしたの、シドっ!」

 ハイファはタクシーから降りるのにも難儀しているらしいシドに肩を貸した。上着に袖も通さず両肩に引っ掛けただけ、ワイシャツの襟元も裾もはだけた状態のシドに最悪の結果を予想する。痛々しくもワイシャツには血痕までついていた。

「……すまん。まだ、左だけ、麻痺が少し」
「スタン浴びたの? それとも……?」
「ん、あ、クスリ」
「ごめん、いいよ、もう無理して喋らなくて」

 他人が見れば相当派手な喧嘩でもやらかしたような様相で、自分より重いバディを支えながら時間的に少ないとはいえ避けられない通行人の奇異の目を引きずりつつ、ようやく一七五号室に辿り着いた。二人になってからやっと気付く。

「あっ、怪我までしてるじゃない!」

 見ればスラックスまでが破れていて、左大腿部に血の染みが広がり固まっている。

「や、テメェでテメェの脚、撃ってりゃ世話ねぇけどな」
「って、銃撃戦でもしたの? ちゃんとトドメは刺した?」
「まさかってねぇって。言っとくが最後の一線は越えてねぇからな、マジで」
「……ホントの本当に?」
「ヤバかったのは確かだが、官舎の床に二発ぶちかまして大穴開けたら下の階の奴と目が合って、さすがに泡食ってたぜ。その一発で跳弾食らっちまったんだけどな」

 元々薬物の類に並外れて強い体質のシドは馴染みの病院で射たれる麻酔も倍量処方されるくらいなので、オリビン所長の盛ったクスリからも予想より遙かに早く回復した。甘く見ていたのだろう、レールガンも見える場所に置かれていたのだ。

 痺れた躰が回復するまで、ゆるゆると嬲られながら我慢するのは非常な努力を要した。だが相手が油断しきった頃合いというより、いよいよ下衣まで剥かれそうになりシド自身の精神的限界がやってきて愛銃に飛びついた。

 マックスパワーでオリビン所長の足許に連射、遠慮なくぶちかましたのは良かったが、うち一発が抉れた床の建築鋼材に当たり跳弾、シド自身の左大腿部を傷つけたのだった。

 天井に穴を空けられて階下の住人に通報されそうになり、さすがにオリビン所長も自室から出て言い訳に走らざるを得なくなった。
 その間にシドはファーストエイドキットを掘り起こして自分で脚の処置をした。

 あっちもこっちも急いで戻ってきた上司に玄関ドア前で『本日もお疲れ様でした』とポーカーフェイスで敬礼して帰ってきたのだった。

「あああ、良かった~っ! 麻痺も殆ど取れたみたいだね。リフレッシャは大丈夫かな? なら先に入ってきて。あとでまた傷の手当てしようね。お腹は空いてない?」

 心配しすぎたあとの過剰な安堵でハイファは甲斐甲斐しくも愛し人の世話を焼きたがった。やたらと明るく振る舞って見せるのに苦笑しつつ、シドは右手で明るい金髪を撫でてやる。

「喫茶室にでも付き合ってくれれば有難いんだが」
「アレク、食堂のアレキサンドルに頼んで夕食、ボックスに詰めて貰ってるよ」
「おっ、気が利くじゃねぇか」
「用意しておくから何かあったら呼んで」

 バスルームへ向かうシドをハイファは追わない。未遂だとの本人申告を信用してはいるが、見られたくないものもあるかも知れないと気遣ってのことだ。

 水音がし始めてから着替えを用意してバスルーム前、ダートレス上に置いてやる。あれ以来この部屋は、狭いシングルベッドから何度転げ落ちても自室のベッドで寝ようとしないシドとの完全共有部屋になっていて、荷物も全て引っ越ししてきていた。
 原因はさておき、ハイファにとって嬉しくはあったが。

 シドがリフレッシャを終える頃合いを見計らってインスタントコーヒーを淹れた。
 衣擦れを聞いてハイファがまた気を利かせる。

「食事、温めるよ」
「んー、頼む。メチャメチャ腹減ったぜ」
「シドが好きそうなメニューだったから、特別にテイクアウトさせて貰っちゃった」
「おっ、大正解だな。マジで旨そう」

 出てきて嬉しそうに紙箱を開けるその首筋、襟で隠れるギリギリ辺りに赤いアザを発見した。だが麻痺が殆ど治まった今は言動もいつもと何ら変わらず、歩き方などに異常はない。これはやはり申告通りだったのだろうとハイファは一応の安心はした。

 夕食のハンバーグはバンズに挟まれて二つのバーガーになっており、シドは早速ぱくついている。一服もせずに食べ始めたのだ、よっぽど空腹だったらしい。

「医務室は……嫌だよね?」
「掠っただけだ。処置はそれなりにしたし、こんなもん、このままで上等だ」
「ならいいけど。痛覚ブロックテープくらい巻こうか?」
「いや、それもいい。それより制服の損傷の方が痛いぜ」
「外回りで業務部にも知り合いができたから、週明けに申請出しといたげるよ」
「さっさと任務が終われば、そんなのも不要なんだがな」
「空間的にも時間的にも今回別室が遠いからね、ギルド絡みの返事もなかなか来ないし……って、シド、そんなにがっつかなくても誰も盗らないよ」

 デスク付属の椅子に座らせたシドに対し、自分は傍らで立ったまま、売店で買った菓子をゆっくりつまみながらコーヒーを飲む。

「いや、このあとまだデザートも食わなきゃならねぇしさ」

 ポーカーフェイスで言われてハイファも心して涼しい表情を保った。

「貰ったリンゴ、あとで剥いてあげるよ」

 などと返したものの見つめてくる黒い瞳にはぐらかす事などできなくなる。

「ふふん。じゃあリフレッシャ浴びてくる」
「まだだったのか?」
「子羊がオオカミと出掛けて帰ってこないんだもん、予測通りの事態にそれどころじゃなかったよ。てっきりトドメを刺してくるかと……ねえ、一人にしても平気?」

 何処までも心配するハイファに笑ったのち、シドはシリアスに宣言した。

「ここまで来たら今度こそトドメを刺す。FCからいい弁護士寄越せ。正当防衛だ」
「とびきり優秀な人材を寄越すよ。じゃあ音声オープンで入るから」

 モード設定により、建材に紛れた音声素子で会話可能だ。素子は水音から人の声帯域だけを抽出し、音声はクリアに聞こえる。

《ベリル警部補からの返事はまだ?》
「『承知した』とだけは、きた。けど幾ら惑星警察でも管轄外、俺たちみたいに別室カスタムメイドを持ってるのとは違うからな。多少の時間は仕方ねぇだろ」

 ものの数分で食事を終えたシドは、これも元の自室から引っ越した灰皿を引き寄せて、煙草を咥えオイルライターで火を点ける。
 二杯目のコーヒーを淹れ、熱いカップを口にして、まだ左側に微かな麻痺が残っているのに気付いた。気をつけないと火傷するところだ。煙草も右側で咥える。

 その仇名もダテではないイヴェントストライカは、過去にはスタンレーザーだって食らったこともあるがあのクスリは結構効いた。自身の特異体質に感謝である。
 というよりあんなブツを使うとは犯罪じゃねぇのか? などと思うシドはここ暫く続く神経戦でかなり何処かが麻痺している。紛れもなく犯罪だ。

 とにかくさっさと任務を終えて除隊なり転属なりしなければ、この分ではガチで所長を撃ち殺してしまう。何とか糸口を見つけないと――。
 そう思った途端に入ったリモータ発振を麻痺のせいか軽く感じる。

「おい、言った傍からベリルの返事だ」
《何て?》
「セレスタイン=ジェイドとユナ=ヘリオドールは初等部からの知り合いどころか、現在も付き合っている形跡がみられる。毎週末ユナはアジュルに渡っているそうだ」
《へえ、意外なまでに単純な繋がりだね。でも大学院を十八で上がった秀才研究者が、あのオツムの軽そうなサイキ持ちとねえ。他には?》
「ユナ側に前科まえがねぇからそれ以上は出ないらしい。そろそろ絞め頃だな」
「そうだね」

 とバスルームから出てきたハイファが首を傾げて見せた。

「連休中にアジュルまで出張る?」

 寝間着代わりの紺色の柔らかいドレスシャツの背に明るい金糸が流れ、薄地の黒いズボンと共にテラ本星での自室でくつろぐ時と同じ格好でシドは和んだ目をする。

「どうするかな、表を出歩くのもなあ」
「ストラ……訂正、休みは休みで満喫したい?」
「実際、疲れたな。エセ軍人役も、付録の秋波にも。もう沢山だ」
「そっか、そうだよね」

 ハイファにとっては思いがけなかったほどのシドの本気の弱音を聞いて初めて自分と違って潜入任務などに慣れていないのだと考え至る。涼しいポーカーフェイスで大概のことをこなしてしまうので当然のことに気付いてやれなかったのだ。

「ごめんね、ここまで別室に巻き込んで」
「お前のせいじゃねぇだろ。せめてお前がいてくれたのが救いだ」

 椅子に腰掛けているシドの額にそっとハイファは口づける。
 されたことは同じなのに何故こうも感じ方が違うのかとシドは思った。
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