俺の何気ない日常が少し重くなった。

志賀雅基

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第10話・数ヶ月後の平日午前

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 今日も朝早くから水槽掃除をやっつけて、ピカピカのクリアな天然海水でヒレを動かすプー助を眺めつつ、今週の朝食当番の母が飯の支度を終えるのを待っていた。

 プー助をこの水槽に放り込んでから、もう何ヶ月経っただろうか。

 いつもの餌はクリルだが、アサリの身も好物だ。刺身はどんなものでも余り好きじゃない。カニカマには騙されなかった。時々、水槽の下層に行ってヤドカリを狙っているようだが成功した試しはない。
 栄養が偏りそうであらゆる物を試したが、やはりクリルとアサリの剥き身だけしか積極的に食ってくれない。

 それでも、そんじょそこらの水族館に展示されている個体より美しく瑕のない透明なヒレと、これも一片の欠けもないトゲ、バランスの取れた魚体に黄色と茶色に黒い斑点が絶妙な美しさを醸す背中……全てがもう大和の自慢である。

 おまけにプー助は大和の姿を認めると水槽のふちに寄ってきて、ピューピュー水を吹くのだ。

「ご飯頂戴、大和、ご飯欲しいよ」

 とでも訴えるかのように。母が水槽の前に立ってもプー助は知らんふりなのだ。大和の時だけ「頂戴」とアピールする。
 魚が人に懐くなんて大和は思っても見なかったので、この現象に気付いた時は、にわかに感動すら覚えたものだ。人間の中でも掃除をし、餌をくれる「白瀬大和という個体」を見分けて認識し、餌をねだるまでになったのだ。

 水槽掃除の時もある程度の魚にはクーラーボックスの仮の宿に退避願うのだが、プー助だけは網に引っ掛かるので大和は両手でそっと掬うようにしている。初めは膨らんでお怒りだったのだが、いつからか大和が水槽に両手を入れると、その上にプー助は自分からふわりと泳いで載るようにもなっていた。

 自分だけにしか懐かない小動物に入れ込んでしまうのは動物好きのサガである。

 だからといってプー助だけ優遇している訳でなく、皆にきちんと行き渡るように餌をやり、大きな食い残しは回収するという、朝晩のルーチンは変わらなかった。
 何せカニのテレパシーまで受け取り起こされてしまったのだ。

 それだけじゃない。と、大和は思う。

 自分のエゴでこいつらは広い世界からこんな、最大でも60リットルしか入らない狭い世界に連れてきてしまったのだ。朝に晩に眺めて楽しませて貰っているが、こっちにとっては愛玩物でもあいつらは一度しかない生命を燃やして生きている、大和とも変わらない存在なのだ。

 そう思わせられるカニやプー助の生存戦略をこの目で見た。

 だったら本当はこんな水槽遊びなど止めて皆を海に返しに行くべきなのだろう。でも愛情が湧き、人工餌にも慣れてしまったこいつらを突然、自然に放り出すのも、タダの責任放棄である。
 せめて来年の同じ頃、海水温がこの水槽の海水と同じになる季節にもう一度、考え直そうと大和は思っていた。

 水槽のガラス蓋の斜めに切れた箇所からプー助がまた、大和を認めて水を吹いている。

「おいおい、その辺をあんまり濡らしてくれるなよ。待ってろ、一個だけやるから」

 つい可愛さに負けてクリルを一個、追加で与えてしまった。
 この後は「もうやらないぞ」との意思表示も兼ねてガラス蓋の切れ目にもプラスチック板で蓋をする。ちょっと不満そうなプー助は、それでも大和が目の前にいるからか、ヒレをパタパタ動かしてはくるくると泳ぎ回って見せた。

 可愛いなあ。でも可愛いプー助や他の仲間たちを可愛く綺麗に維持するには、俺がサボっちゃダメなんだよなあ。今はこの水槽がこいつらの全世界なんだから、その全世界のシステムを維持して初めてこうして愛でられるんだよなあ――。

 実生活で大和はあれから間もなく予想より大きなプロジェクトのチームリーダーを任され、皆に助けられながらも前より忙しい日々を送っている。趣味の釣りも毎週末という訳にはいかなくなった。

 けれど数日に一度の海水汲みと、意外と大仕事である水槽掃除は絶対に欠かさない。日々、愉しませ和ませて癒してくれる水棲生物たちの世界は、何かがひとつバランスを崩せば、あっという間に終わってしまう脆い世界だ。

 エゴで連れてきて放り込んだそんな世界だけれど、棲んでいる連中には、
  
「何だか前より居心地いいよな」
「水も綺麗で旨いし、飯も旨い」
「敵もいないし、まあ、ここって結構いいんじゃねぇかな」

 そんな風に思って貰えていればいいなあと大和は大真面目に考えていた。
 水が綺麗じゃないと見られないカニの脱皮も、もう二度も見られたし、時々は小さなゴミを「?」と眺めると、どうやらヤドカリまでが脱皮しているらしい。

 ホクホクとした気分で眺めていると、母の声が背後からかかった。

「早く食べないと、また遠回りするんじゃなかったの、今日は」
「あ、木曜だっけ、今日? 急いで食うから」

 座卓について座り直し、手を合わせるなり大和はご飯と味噌汁(具は貝が多い)に玉子焼き、ハム野菜サラダにウィンナー炒めをものすごい勢いで胃に収めてゆく。
 どうして急がねばならないかといえば、二週に一度、木曜日にはあのライブハウス近くでバイトをしているというパンクロッカー青年を出勤ついでに送ってやる約束をしているからだ。

 本当に「ついで」なので「ガソリン代を払う」という青年の提案は却下させて貰ったが、代わりにちょっとした時間ながら水槽で生き物を飼う際の注意点や、ひとつの水槽に一緒に入れてはならない魚種の相性、フィルタの違いによる掃除の間隔等々、博識な青年の講義は非常に有益かつ面白くもあって、互いに良い関係が築けている。

 それに……助手席で長めの髪を五月蠅そうに掻き上げる青年は見目好く、心が浮き立った。

◇◇◇◇

 青年をいつもの場所で車から降ろしてやると、これもいつものように長めの髪を掻き上げながら会釈し、細い路地へと消えてゆく。大和はそれを見送るヒマもなく車で五分ほど移動して社のビルの地下駐車場に車を駐め、出勤だ。

 プロジェクトリーダーになり忙しくなったが、元々ここは誰もが幾つかのプロジェクトを抱えている部署なので、大和は特別でも何でもなく、まだペーペー扱いである。
 不満は何もない。却ってまだ新人らしく先達に何でも訊くことができるし、気付けなかった処を指摘しても貰えるからだ。良い職場に恵まれて幸せだと思う。

 その一方でプライヴェートの話となると、やけに『水槽のハリセンボン・プー助』を自慢する、今どき珍しくもないゲイだが彼氏の一人もいない、変わった大男というイメージが定着しているのを本人は知らなかった。

「結構な色男なのに、恋する相手がハリセンボンだなんて、ねえ?」
「せめて同じ空気を吸える相手を見つけたら……そんな気はなさそうよね」
「愛しい相手はガラスに囲まれた水の中だもの。勿体ないわあ」

「携帯の待ち受けまで『プー助の艶姿』ですって」
「まあ、生き物を何とも思わない男よりは優しそうだけど、なのよねぇ」 

 こういった会話がなされていても、大和にとって「俺のプー助はハリセンボン界で一番」なのだから当然であり、自分が変人扱いとは思っても見ないのが大和の鈍さであり良さでもあった。

 幸せなタイプの人間だが、お花畑の母と暮らしているのだ、仕方ない。

 性格と同様に大らかにバリバリ仕事を進めて昼飯を食い、また仕事に没頭する。だが没頭しながらも、ふと何度も頭をよぎることがあった。今朝もバイト先の近くまで送って行った、金魚屋の青年の事だ。
 最初に会った時はパンクロッカーのトゲトゲ頭で驚いたものの、喋ると意外にも人懐こくて、何より水棲生物の知識が半端でない。家業のせいだろうが、大和が訊ねて答えが得られなかった試しがないほどだ。

 それに……実際には2、3歳ほどしか離れていないであろう青年の助手席に座った横顔が、大和の中で徐々に手放し難い者のように感じられ始めていたのである。
 こうして仕事をしていても、幾度も思い出しては「次、頑張ろう!」と気合いを入れるきっかけにしてしまっているほどに。

 でも自分のように同性しか恋愛対象に出来ないタイプが世の多数派で無いのは分かっている。告げるだけで離れてしまうなら、告げずに二週に一度の愉しみを続けたい気持ちもあった。

 しかし大和は自分がここまで他人を想ってしまったら時間の問題というのも悟っていた。何度も何度も玉砕してきたし、受け入れられて天にも昇る気持ちがじつは「利害の一致」みたいなモノを要求されて暫く立ち直れなかったこともある。

 それでも次こそは自分の気持ちだけでも彼に……彼に?

「あ、あれ? 金魚屋さんの屋号は? っていうか、彼って名前は何だっけ?」
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