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第2話
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京哉の秘密レッスンなど知る由もない霧島は自分のデスクに両肘をつき指を組んで顎を載せた姿勢で緩み、ぼんやりと一台のデスクを眺めていた。
目前にはノートパソコンがブートされていたが溜まりに溜まった書類を作成する気も起こらない。報告書類の督促メールが複数届いているのは秘書たる京哉に昨夕五月蠅く言われたので知っているが、腐りはしないので取り立てに来るまで放置だ。
ここは県警本部庁舎二階にある機動捜査隊の詰め所である。
その隊長席で霧島忍警視が鳴海京哉巡査部長の片付いたデスクを眺めてかれこれ数時間が経過していた。自分の仕事は責任を取る事だと割り切っているので、これでも税金泥棒ではないと本人は認識している。
機動捜査隊・通称機捜は二十四時間交代という過酷な勤務体制で、覆面パトカーで密行警邏し、殺しや強盗に放火その他の凶悪犯罪が発生した際、いち早く駆けつけ初動捜査に従事するのが職務だ。
けれど隊長の霧島は基本的に内務で日勤なのだが、その内務も放擲して呆けているのを本日上番の二班の隊員たちが指差し笑っては揶揄する。
「相変わらず鳴海がいないとウチの隊長は全く使い物になりませんな」
「最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリア、全国の警察官約二十六万人の一パーセントにも満たないスーパーエリート警視殿も形無しだなあ、おい」
「あれでも『県警本部版・抱かれたい男ランキング』トップ独走中ですからね」
「そういや鳴海との噂で票を落とすどころか却って腐女子票の分、伸びたらしいぜ」
「女は分かんねぇな。でも実際、婦警はここまで残念な男とは知らねぇだろ」
「おまけに変人だし、スイッチ入ればキレッキレの変人だしな」
聞こえている筈だが霧島は京哉のデスクを眺めたまま彫像の如く固まっていた。完全に機能停止状態だ。だがこれで必要な時は人間離れした脳ミソの使い方をするので読めない言動から隊員たちは目が離せないのだ。
つまり若すぎる上司を面白がっている。
そこでふいに霧島が身動きした。父親の愛人だったハーフの母譲りである灰色の目を皆の方に振り向ける。席を立つと歩いてきた。昼食休憩で警邏から戻っていた皆は霧島隊長が注文した、夜食含めて一日四食三百六十五日毎食不変の幕の内弁当を食しつつ注視する。
深刻な表情に深刻な口ぶりで霧島は皆に言った。
「私は持病の胆石が痛み出しそうだ。すまんが午後から半休を取らせて貰う」
「おっ、きたきた。今回は胆石だとさ。それもまだ予定段階だぞ」
「誰より頑丈なクセに、前回は『眩暈がする』だったよな?」
「その前は『持病の癪が』とか言ってたぜ。時代劇かっつーの」
「まだ鳴海が妊娠したって方が信憑性あるんだがな」
部下たちに騒がれても構うことなく霧島は有休申請書をプリントアウトし、手書き部分を埋めて自分の印鑑を押すと決裁済み書類入れに放り込んだ。ノーパソの電源を落として皆にラフな挙手敬礼をする。皆は立ち上がって身を折る敬礼をした。
答礼した霧島の怜悧さを感じさせるほど端正な顔には生気が戻っていて、やはり誰もが笑うしかない。
皆も霧島と京哉の仲は心得ていた。キャリアのクセに現場を希望し隊長を拝命した上司が元々異性に関心のない男だと知っている上にペアリングまで嵌めているのだ。
だからといって若い隊長を甘やかすでもないが、ここぞという時の判断力と統率力は誰もが認めている。信念を持った警察官としても、しっかり責任を取ってくれる上司としても信頼しているので、普段は少々のことなら大目に見てやろうという気になるのだった。
それに霧島が京哉を心配するのも理解できる。職務中に撃たれて利き手側の右腕に重傷を負っていたのだ。
先日ようやくギプスが外れ、まだリハビリ中の独り休みが心配なのは皆も同じだった。
霧島はオーダーメイドスーツの裾を翻して詰め所を出た。出るなり遭遇した制服婦警の一団に黄色い声を上げられ囲まれる。
眉目秀麗且つ文武両道、あらゆる武道の全国大会で優勝を飾っていて更に霧島カンパニー会長御曹司という超美味しい物件だ。
「すまない、先を急いでいる」
低い声を響かせながら百九十近い長身故に婦警のつむじばかり見てかき分け進む。人垣を抜け出すと彼女たちにもラフな敬礼をし、再び黄色い声を浴びつつ階段を降りて裏口から外に出た。
古くも重々しいレンガに似せた外観を持つ十六階建て庁舎の陰になり、真夏の日差しは遮られて思ったほど暑くはなかった。
関係者専用駐車場に駐めた白いセダンに乗り込む。車内は蒸れていたのでエンジンを掛けると窓を開け、空気を入れ替えてから閉めてエアコンを調節し発車した。
裏門から出ると機捜隊長を張る霧島の本領発揮だ。
普通なら選ばないであろう互いにすれ違うのも難しい細い路地や一方通行路を通り抜け、最短でバイパスに乗って向かったのは僅かに内陸寄り方面である。
県警本部の所在地は白藤市、海側の隣が貝崎市で内陸側の隣が霧島と京哉の暮らすマンションがある真城市だ。
ラッシュ時でもないので四十分ほどで真城市のマンション近くに辿り着く。
月極駐車場にセダンを駐め、暑さから逃れるように足早に歩いてマンションのエントランス前に立った。汗を拭いつつポストをキィで解錠して中身を手にすると再びロックし、テンキーでコード入力しエントランスのオートロックを解く。
エレベーターで五階建ての最上階へ。角部屋の五〇一号室のキィロックを解いた。
「京哉……京哉?」
ドア口から声を掛けてはみたが人の気配がないのは既に気付いている。だが今日は病院でのリハビリの予定もなかった筈だ。
右尺骨の粉砕骨折に右橈骨のヒビという大怪我をしてから京哉が一人で出掛けたことはなく、僅かなつまらない思いと大きな心配とが同時に胸に湧いた。
一応、部屋を見て回りバスルームまで覗くがいない。
「何処に行ったんだ、あいつは」
口に出しながら何か飲んで落ち着こうと思い、手にしていたダイレクトメールやチラシの類をキッチンのテーブルに投げ出す。
すると全て不要物と思っていた紙束の中で一通の白封筒が目を惹いた。切手も貼られていないそれはダイレクトメールらしからぬ定規とボールペンで引いた線で『霧島忍様・鳴海京哉様』と書かれていた。
定規とボールペンでこれは結構な労力を要したと思われる。特に『霧』などブチキレそうになっただろう。その事実だけでも恨みの材料になるかも知れん、などと考えながら霧島はスーツのポケットから白手袋を出して嵌め、料理用のハサミで慎重に開封した。
中に入っていた白いコピー用紙一枚を引っ張り出す。
固い感触がしたので封筒を逆さにした。小さな物がカチャンとテーブルに落ちる。
まず白いコピー用紙を開くと赤い文字で『霧島忍・鳴海京哉』と二人の名前が並べて書かれていた。他は真っ白でただの余白だ。次に落ちた小さな物を摘み上げる。
「金バッジ……何処かの組の幹部バッジか」
組のバッジに血の如き赤い文字は脅しだろうが、不親切な送り主は署名していないので生憎誰に脅されているのか霧島には分からない。結構マヌケな話だと思いつつ封筒とコピー用紙にバッジを食材用の密封袋に収める。これはあとで鑑識に提出だ。
おそらく優先すべきは差出人の特定だろうが、職業上こういった脅しをやらかしそうな相手には事欠かない。むしろ心当たりがありすぎて特定できなかった。
そして肝心な事だが今年の春に京哉が機捜に異動してきてからというもの、隊長と秘書は共に日勤で内務専門の筈なのに実質の相棒として二人で捜査に出る機会も増えた。
挙げ句に京哉は撃たれたのだ。
あれも組関係の案件だった。指定暴力団組長をパクったのは海保と麻取の合同チームだが、きっかけを作ったのは霧島と京哉である。二人して面も割られていた。
そう思うと京哉が心配で堪らなくなる。一言もなくあの男は何処に行ったのか。大体、昨日の帰り際に一人で代休申請したのも気に食わない。
手っ取り早く京哉の携帯にコールした。やけに待たせてから京哉が出る。
《――はい、京哉です。どうしたんですか、忍さん》
「どうもこうもない。お前は今、何処にいる?」
《あー、ええと、ちょっと買い物に……夕方には戻ります》
「そうか、気をつけて帰ってこい。バスではなくタクシーを使え。分かったな?」
返事を聞いて通話を切ったが不審な思いが通話前より募っていた。京哉の声と同時に何故か今枝の声が聞こえ、更にはBGMに花のワルツが流れていたからだ。
「全く、何をやっているんだ」
愚痴りながら冷蔵庫で冷えていたアイスティーをグラスに注いで一気飲みし、不審物の密封袋を手にして部屋を出るとロックして駐車場の白いセダンに駆け戻った。
目前にはノートパソコンがブートされていたが溜まりに溜まった書類を作成する気も起こらない。報告書類の督促メールが複数届いているのは秘書たる京哉に昨夕五月蠅く言われたので知っているが、腐りはしないので取り立てに来るまで放置だ。
ここは県警本部庁舎二階にある機動捜査隊の詰め所である。
その隊長席で霧島忍警視が鳴海京哉巡査部長の片付いたデスクを眺めてかれこれ数時間が経過していた。自分の仕事は責任を取る事だと割り切っているので、これでも税金泥棒ではないと本人は認識している。
機動捜査隊・通称機捜は二十四時間交代という過酷な勤務体制で、覆面パトカーで密行警邏し、殺しや強盗に放火その他の凶悪犯罪が発生した際、いち早く駆けつけ初動捜査に従事するのが職務だ。
けれど隊長の霧島は基本的に内務で日勤なのだが、その内務も放擲して呆けているのを本日上番の二班の隊員たちが指差し笑っては揶揄する。
「相変わらず鳴海がいないとウチの隊長は全く使い物になりませんな」
「最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリア、全国の警察官約二十六万人の一パーセントにも満たないスーパーエリート警視殿も形無しだなあ、おい」
「あれでも『県警本部版・抱かれたい男ランキング』トップ独走中ですからね」
「そういや鳴海との噂で票を落とすどころか却って腐女子票の分、伸びたらしいぜ」
「女は分かんねぇな。でも実際、婦警はここまで残念な男とは知らねぇだろ」
「おまけに変人だし、スイッチ入ればキレッキレの変人だしな」
聞こえている筈だが霧島は京哉のデスクを眺めたまま彫像の如く固まっていた。完全に機能停止状態だ。だがこれで必要な時は人間離れした脳ミソの使い方をするので読めない言動から隊員たちは目が離せないのだ。
つまり若すぎる上司を面白がっている。
そこでふいに霧島が身動きした。父親の愛人だったハーフの母譲りである灰色の目を皆の方に振り向ける。席を立つと歩いてきた。昼食休憩で警邏から戻っていた皆は霧島隊長が注文した、夜食含めて一日四食三百六十五日毎食不変の幕の内弁当を食しつつ注視する。
深刻な表情に深刻な口ぶりで霧島は皆に言った。
「私は持病の胆石が痛み出しそうだ。すまんが午後から半休を取らせて貰う」
「おっ、きたきた。今回は胆石だとさ。それもまだ予定段階だぞ」
「誰より頑丈なクセに、前回は『眩暈がする』だったよな?」
「その前は『持病の癪が』とか言ってたぜ。時代劇かっつーの」
「まだ鳴海が妊娠したって方が信憑性あるんだがな」
部下たちに騒がれても構うことなく霧島は有休申請書をプリントアウトし、手書き部分を埋めて自分の印鑑を押すと決裁済み書類入れに放り込んだ。ノーパソの電源を落として皆にラフな挙手敬礼をする。皆は立ち上がって身を折る敬礼をした。
答礼した霧島の怜悧さを感じさせるほど端正な顔には生気が戻っていて、やはり誰もが笑うしかない。
皆も霧島と京哉の仲は心得ていた。キャリアのクセに現場を希望し隊長を拝命した上司が元々異性に関心のない男だと知っている上にペアリングまで嵌めているのだ。
だからといって若い隊長を甘やかすでもないが、ここぞという時の判断力と統率力は誰もが認めている。信念を持った警察官としても、しっかり責任を取ってくれる上司としても信頼しているので、普段は少々のことなら大目に見てやろうという気になるのだった。
それに霧島が京哉を心配するのも理解できる。職務中に撃たれて利き手側の右腕に重傷を負っていたのだ。
先日ようやくギプスが外れ、まだリハビリ中の独り休みが心配なのは皆も同じだった。
霧島はオーダーメイドスーツの裾を翻して詰め所を出た。出るなり遭遇した制服婦警の一団に黄色い声を上げられ囲まれる。
眉目秀麗且つ文武両道、あらゆる武道の全国大会で優勝を飾っていて更に霧島カンパニー会長御曹司という超美味しい物件だ。
「すまない、先を急いでいる」
低い声を響かせながら百九十近い長身故に婦警のつむじばかり見てかき分け進む。人垣を抜け出すと彼女たちにもラフな敬礼をし、再び黄色い声を浴びつつ階段を降りて裏口から外に出た。
古くも重々しいレンガに似せた外観を持つ十六階建て庁舎の陰になり、真夏の日差しは遮られて思ったほど暑くはなかった。
関係者専用駐車場に駐めた白いセダンに乗り込む。車内は蒸れていたのでエンジンを掛けると窓を開け、空気を入れ替えてから閉めてエアコンを調節し発車した。
裏門から出ると機捜隊長を張る霧島の本領発揮だ。
普通なら選ばないであろう互いにすれ違うのも難しい細い路地や一方通行路を通り抜け、最短でバイパスに乗って向かったのは僅かに内陸寄り方面である。
県警本部の所在地は白藤市、海側の隣が貝崎市で内陸側の隣が霧島と京哉の暮らすマンションがある真城市だ。
ラッシュ時でもないので四十分ほどで真城市のマンション近くに辿り着く。
月極駐車場にセダンを駐め、暑さから逃れるように足早に歩いてマンションのエントランス前に立った。汗を拭いつつポストをキィで解錠して中身を手にすると再びロックし、テンキーでコード入力しエントランスのオートロックを解く。
エレベーターで五階建ての最上階へ。角部屋の五〇一号室のキィロックを解いた。
「京哉……京哉?」
ドア口から声を掛けてはみたが人の気配がないのは既に気付いている。だが今日は病院でのリハビリの予定もなかった筈だ。
右尺骨の粉砕骨折に右橈骨のヒビという大怪我をしてから京哉が一人で出掛けたことはなく、僅かなつまらない思いと大きな心配とが同時に胸に湧いた。
一応、部屋を見て回りバスルームまで覗くがいない。
「何処に行ったんだ、あいつは」
口に出しながら何か飲んで落ち着こうと思い、手にしていたダイレクトメールやチラシの類をキッチンのテーブルに投げ出す。
すると全て不要物と思っていた紙束の中で一通の白封筒が目を惹いた。切手も貼られていないそれはダイレクトメールらしからぬ定規とボールペンで引いた線で『霧島忍様・鳴海京哉様』と書かれていた。
定規とボールペンでこれは結構な労力を要したと思われる。特に『霧』などブチキレそうになっただろう。その事実だけでも恨みの材料になるかも知れん、などと考えながら霧島はスーツのポケットから白手袋を出して嵌め、料理用のハサミで慎重に開封した。
中に入っていた白いコピー用紙一枚を引っ張り出す。
固い感触がしたので封筒を逆さにした。小さな物がカチャンとテーブルに落ちる。
まず白いコピー用紙を開くと赤い文字で『霧島忍・鳴海京哉』と二人の名前が並べて書かれていた。他は真っ白でただの余白だ。次に落ちた小さな物を摘み上げる。
「金バッジ……何処かの組の幹部バッジか」
組のバッジに血の如き赤い文字は脅しだろうが、不親切な送り主は署名していないので生憎誰に脅されているのか霧島には分からない。結構マヌケな話だと思いつつ封筒とコピー用紙にバッジを食材用の密封袋に収める。これはあとで鑑識に提出だ。
おそらく優先すべきは差出人の特定だろうが、職業上こういった脅しをやらかしそうな相手には事欠かない。むしろ心当たりがありすぎて特定できなかった。
そして肝心な事だが今年の春に京哉が機捜に異動してきてからというもの、隊長と秘書は共に日勤で内務専門の筈なのに実質の相棒として二人で捜査に出る機会も増えた。
挙げ句に京哉は撃たれたのだ。
あれも組関係の案件だった。指定暴力団組長をパクったのは海保と麻取の合同チームだが、きっかけを作ったのは霧島と京哉である。二人して面も割られていた。
そう思うと京哉が心配で堪らなくなる。一言もなくあの男は何処に行ったのか。大体、昨日の帰り際に一人で代休申請したのも気に食わない。
手っ取り早く京哉の携帯にコールした。やけに待たせてから京哉が出る。
《――はい、京哉です。どうしたんですか、忍さん》
「どうもこうもない。お前は今、何処にいる?」
《あー、ええと、ちょっと買い物に……夕方には戻ります》
「そうか、気をつけて帰ってこい。バスではなくタクシーを使え。分かったな?」
返事を聞いて通話を切ったが不審な思いが通話前より募っていた。京哉の声と同時に何故か今枝の声が聞こえ、更にはBGMに花のワルツが流れていたからだ。
「全く、何をやっているんだ」
愚痴りながら冷蔵庫で冷えていたアイスティーをグラスに注いで一気飲みし、不審物の密封袋を手にして部屋を出るとロックして駐車場の白いセダンに駆け戻った。
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