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第28話

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 京哉が右こめかみと右肩を負傷して白藤大学付属病院に入院し、二度目の夜も更けようとしていた。だが未だ京哉は目覚めず霧島の不安は刻々と膨らみつつあった。

 怪我自体はそれほど深くなくて両方八針縫っただけで済んだ。
 ただ脳震盪を起こしているので大事を取って入院させたのだが、ここまで眠り続けるとは担当医も想定外だったらしい。

 故に誰に訊いても京哉がいつ目覚めるかなど分からず、まさかずっとこのままかという思いばかりが浮かんで霧島の胸には不安が募っているのだった。

 外科病棟の常連と化した不幸者に看護師が恩恵をもたらし、二人部屋の片方のベッドをタダ借りした霧島は消灯を過ぎても京哉の手を握り続けていた。
 すると読書灯で陰影が濃くなり余計に長く見える京哉のまつ毛が震え、ふいに持ち上げられる。

 慌てて霧島は覗き込んだ。消灯後というのも忘れて大声で呼びかけてしまう。

「おい、京哉……京哉!」
「う……ん、眩しいよ」
「京哉、目が覚めたか!」

 やっと意識を取り戻した京哉はぼんやりした表情で霧島を見返した。起きようとするのを留めてベッドに角度をつけてやる。
 それからナースコールで京哉が目覚めたと告げた。医療スタッフを待つ間も霧島は年下の恋人の声が聴きたくて話し掛ける。

「京哉。怪我は痛くないか?」
「ええと、怪我……これ痛い」

 差し出されたのは点滴の刺さった肘だ。今更こんなものが痛いとは思えないが取り敢えず怪我は痛くなさそうで安堵した。
 だが次に京哉が放った言葉に不安が湧く。

「あのう、おじさんは誰?」
「あのな。お前は意外と冗談を言わないたちではなかったのか?」
「……何か、怒ってるんですか?」

 明らかに身を竦めた警戒モードに入られたが再戦する気はなく大人の対応だ。

「怒っていない。だが冗談でも言うなら『お兄さん』にしておいてくれないか?」
「ごめんなさい。じゃあ、お兄さんは誰ですか?」
「ちょっと待て。お前は自分が誰なのか分かるか?」
「僕は鳴海京哉です。もしかしてお兄さんに迷惑を掛けちゃったのかな?」

 京哉は本気らしいと知り焦った霧島は再びナースコールを押して医師を催促した。その間も京哉は霧島をチラチラ見て口を開きかけては閉じる。
 霧島だって声は聴きたかったが内容が怖くてそれ以上は何も訊けない。ひたすら第三者の参入を待った。

 そんな時に限って長く待たされる。霧島は京哉のベッド脇でパイプ椅子に腰掛けていたが、傍にいたいのと現実逃避したいのとで絞った雑巾みたいな姿勢をしていた。

 やっと中年医師と若い看護師が現れると、冷静さを欠いた霧島は窮状を訴える債権者のように前のめり気味に説明する。
 話を聞いた医師は京哉に幾つもの質問を浴びせ始めた。三十分ほど会話してから医師は霧島に向かって溜息混じりに言う。

「精神科にも診せるべきですが、おそらく逆行性健忘、記憶喪失というヤツでしょうなあ。本人申告なので確実なことは言えませんが、十二歳くらいからあとの記憶を失っているようです」
「……十二歳?」
「ええ、十二歳前後。上司さんの貴方は若いが、それでも『おじさん』ですなあ」
「いや、お兄さんだ。それで失くした記憶は戻るんですか?」
「さあ、どうでしょうかねえ、わたしは外科ですし。ただ、入院時検査で脳挫傷も発見されていませんし、状況としてセカンドインパクト症候群のように重篤な症状に移行する心配も殆どありません。脳は健康ですから一晩寝て起きたら思い出しているかも知れませんよ」

 そこで医師の院内専用携帯が点滅する。少し話して切った医師が告げた。

「夜勤の精神科医師が来ますからお待ち下さい」

 まもなく精神科の医師が駆けつけてくれて京哉と様々に喋ったが何も変わらない。

「あー、記憶喪失ですねえ、多分。診断確定しづらいんですよ、一時的な混乱にすぎない可能性もありますし。まあ、それも記憶喪失に違いないですけどねえ。忘れたまま一生を送る人もいますよ。忘れ方も多種多様で期間限定だの虫食い状だの」
「京哉の場合は期間限定か、それとも虫食い状のどちらだ?」
「だから診断しづらいんですって。十二歳なのは確実です。ま、零歳まで後退しなくて幸いでしたよ。記憶喪失も酷いと赤ん坊並みに言葉まで忘れますからねえ」

 気楽そうに言ってくれても霧島には朗報に思えなかった。
 だが外科医は手を打つ。

「では明日の再検査で異常がなければ退院です」
「この状態で退院とは、それでいいのか?」
「いいんです。脳が健康なのは退院前に再度チェックしますから大丈夫ですよ。この状態の生活に早く慣れて頂く方が宜しいでしょう。単調な入院生活では刺激もなく記憶も戻りづらいですしねえ」

 確かにその通りかも知れないが霧島は十二歳の京哉との生活を思い、今から眩暈がしていた。当の京哉はベッドのふちに腰掛けて足をぶらぶらさせている。
 点滴も抜いて貰い、頭に巻いた包帯に手をやっては看護師にたしなめられていた。

 こうして見る分には以前とまるで変わらない。急に別人になった訳でもなく独特の鷹揚で柔らかな雰囲気といい惚れた京哉のままである。
 ただ、事実として鳴海京哉の時間は十二年前まで後退し、霧島と共に過ごした記憶は全て消えた。おそらく育んだ愛情も……一気にそこまで辿り着き、思わずうろたえてしまった。

 だが京哉が困難に直面した今こそ自分の出番ではないかと思い直す。京哉が大事なものを失くしたのなら一緒に探せばいいだけだ。
 それを取り戻すまで京哉に不自由させまい、これしきのことで京哉に対する愛情は微塵も目減りしていないのだから。

 そう考えて霧島は心の中で己に活を入れる。

「分かりました。明日の検査の方もお願いします」
「承知しています。午前中一発目でやっつけましょう」

 医師は京哉の傷を消毒してガーゼを替え、包帯を巻き直して看護師と共に去った。
 二人きりになると京哉がじっと見つめてくる。

「どうした、京哉?」
「お兄さんの名前を知りたいんだけど。何て呼んだらいいのか分からないから」
「霧島忍だ。忍と呼んでくれ」
「じゃあ忍さん。貴方は僕の何に当たるのかな?」
「職場の上司だ。県警本部の機動捜査隊で私は隊長、お前は私の秘書をしている」
「えっ、それなら僕も警察官なの? うわあ、格好いい!」

 単純に警察官で喜ぶ『男の子』に霧島は目を眇めた。現実の警察官を知って落胆しなければいい、自分は今も『男の子』の理想の警察官であるのだろうか――。

 そんな場違いな思いに囚われていると、ふいにまた京哉と険悪だったのを思い出した。険悪といっても自分の側が一方的に怒っているだけで、どうやら京哉は取るべき策もなくお手上げ状態らしいが、それも暫くは本当に休戦するしかないようだ。

 大体、今、蒸し返したらチンピラの因縁レヴェルである。覚えもない理由で凄まれるのだから。怖がらせて泣かせるのが何より霧島は怖かった。これまで周囲に子供が存在しなかったので余計に避けたい事態だ。

 しかし観察している分には京哉は驚くほど落ち着いている。医師との対話や自分の成長度合いから既に自分の中で整合性を保つことに成功しているのだ。置かれた状況をある程度把握し、足りない知識を埋めるのが優先だと心得ている。

 『目覚めたら異世界』のパターンに十二歳で放り込まれたにしては理解が速い。

「でも上司さんっていうだけで僕の付き添いまでしてくれてるの? 何で?」

 いきなりの核心を突く質問だったが、霧島は十二歳相手でも容赦しなかった。

「私とお前は一生を誓い合ったパートナー同士でもあるからな」
「一生を誓い合ったパートナーって、忍さんはすごく綺麗だけど男の人だよね?」
「お前の方が余程綺麗だが、ああ、男だ。それがどうかしたか?」
「僕……ちょっと確かめてもいいかな?」
「確かめなくても、お前も男だ。それでもお前は私の妻、私はお前の夫だからな」
「うーん……」

 ペアリングを見せても京哉はピンと来ないらしく困った顔をして次の質問に及べないでいる。それともデリケートな話題に触れたと思いこちらを気遣っているのか。
 何れにせよ頑強に否定したりする、疲れる自己主張などせず、抑制の利いた態度を維持する辺りも霧島は気に入る。十二歳でもさすがは私の京哉だと内心ベタ褒めだ。

 けれど十二歳といえば思春期に差し掛かって異性にも興味が湧く頃である。京哉にだって好みのタイプの女子が一人や二人いたかも知れない。いや、いない方が不自然だ。
 そこで勝手に『おじさん』の妻にされたら呆然とするだろう。その辺りに思い至った霧島は少しだけ持論を枉げて譲歩してみる。

「まあ、私のことは保護者とでも思ってくれ」
「保護者って、お父さんみたいなもの?」
「……お父さん」
「だって僕にはお父さんがいないから……あっ、ところで僕のお母さんはどうしたのかな? 連絡してなかったらお願いしたいんだけど」

 幾ら霧島が鬼畜でも『お前が高二の冬に強盗に殺された』とは言えず、旅行中という定番の言い訳で誤魔化した。
 これ以上突っ込まれても困るのと地味に『お父さん』がボディブローの如く効いていたので、今夜は京哉を寝かせにかかる。

「眠っておかんと明日の検査結果にも響くからな。私も寝る」
「あ、そうだよね、忍さんは眠いよね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。ではそっちに少し詰めろ」
「えっ、一緒に寝るの?」
「パートナーだぞ、何か問題があるか?」
「あるような気がするんだけど……でもいいや。じゃあそっち側でいい?」

 半ば強引に霧島は京哉のベッドに押しかけ、背後から華奢な躰を抱き締めた。足まで絡めると京哉はくすくす笑って身を捩らせる。それも暫くすると静かになり規則正しい寝息が聞こえだした。

 霧島も明日からのことを考えつつ、ゆっくりと眠りに落ちてゆく。
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