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第15話

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 なくなりかけた点滴を差し替え、リビングからウィスキーとグラスを持ち込んでナイトテーブルに置き、恭介は籠城体勢を取った。時折キッチンに煙草を吸いに出る以外ずっと病人の顔を眺めながらちびちびと飲み続ける。

 だが薫の熱は日付が変わっても下がらなかった。
 どうしたものかと思いながら携帯に入ったメールを読む。そうして取り敢えずは今現在抱えた探偵業の方の案件を片付けるべく、ライティングチェストにノートパソコンを置いて立ち上げ、クライアントへの報告書を作成し始めた。

 二時間ほど熱中して一段落つくと空腹を覚える。キッチンで昼のカレーを温めて食った。食い終えると冷蔵庫を開けて腹の中身を眺めてみる。頭を振って振り返ると薫が置きっ放しにしていた食材らしき物が目に入った。手に取ると裏面を読む。

 内容を理解した恭介はおもむろにドレスシャツの袖を捲って手を洗った。そうして冷蔵庫を再び開けると材料を次々と出してはテーブルに積み上げる。

 説明書付きだったので調理するのは簡単かと思いきや、包丁ひとつ取っても過去に二度チーズの塊を半分に切ったことがあるだけの恭介だ。非常に時間が掛かっただけでなく出来上がったシロモノは説明書の表に写った見本調理例とは、随分とかけ離れていた。だがこさえてしまったモノは仕方がない。

 袖を元に戻して寝室に顔を出すと丁度薫が目を覚まし身を起こしていた。

「持ってくるから、メシ食えるなら食ってくれ」
「まさか恭介が作ったの? それって人の食べ物?」

 聞き流して深皿に盛りつけスプーンと一緒に寝室に持ち込む。その時点で薫は白い顔をしかめて形の良い鼻を蠢かせる。深皿を見せてやると薫は仰け反った。

「う、嬉しいんだけどさ、一応は僕、病人で。病人に……中華ってマジで?」
「お前が買って置いていた『麻婆豆腐の素』。材料も揃っていた」
「そりゃあ買ったからね、でも……うーん。それが麻婆豆腐なんだ、そっかあ」
「食える物しか入っていない。病人は柔らかい食い物がいいんだろう? 病院でも入院当初はドロドロの飯だった」

 平然と言った恭介を薫は妙に痛ましそうに見つめる。その目に恭介は愚痴った。

「大体、何だ、あの箱の説明書は。手の上で豆腐を切る絵が載っていたぞ。傷害、いや自殺教唆だろう?」
「絵を真似しなくても、まな板の上で切って、そうっと移動すればいいんだよ」
「分かっている、誰も手の上でなど切っていない」
「じゃあこれ、どうやったの?」
「握り潰した」
「ああ……そう」

 薫が見るに確かにそんな感じだった。匂いで中華と分かったが見た目はかなりのインパクトだ。油と水分と粉砕された白い粒々がドロリと赤い液体に混じっている。
 じっと眺めて動かない薫に焦れた恭介が訊いた。

「で、お前に作ったんだがな、この初料理。食わんのか?」
「僕のために初料理……すごい、明日はこの辺りに魚が降るかも。ブルーギルとか」
「いい加減にしろよ?」
「あっ、待ってよ! 食べる、いただきます」

 勢いで言ったものの薫は何故だか『詰め腹を切らされる』なる言葉を思い出す。

 一方で無造作な恭介は深皿にスプーンを突っ込み薫に手渡した。平静を装った薫は吹きながら食し始める。だが恭介は眺めているうちに冷めてゆく深皿の料理に赤い油が浮いているのに気付き、そこでようやく『これは胃袋に悪いのではないか』という疑問が湧いた。
 それこそ通常の人間より強靭で殆ど病気という病気をしたことがないために、理解が及ばなかったのだ。

「おい、無理して食うな。余計に具合を悪くするぞ」
「無理してないよ。見た目はアレだけど味は大丈夫だしさ」

 気を遣っているだけのような気がした上に、食すペースからして恭介の疑問は膨らんでいたが、薫は時間こそ掛けたものの深皿一杯のドロドロを胃に収めきった。

「吐くならトイレをお勧めする」
「吐きません。美味しかった、ごちそうさまでした。ありがと、恭介」
「ん、あ、ああ」

 強がってでも食ったのだ。強がれるだけの力は取り戻したのだろう。輸液のなくなった点滴を抜いてやる。食器を片付け落ち着いたところで切り出した。

「お前、この映像データを俺に見せる気はあるか?」

 ぶら下げて見せたのは脱がせた服のポケットから回収した、緑のストラップ付きUSBメモリだ。途端にこわばった顔をして薫は手を伸ばしUSBメモリを奪い取る。胸に抱き込むようにしたそれを見られたくなどないのは承知している。
 怯えた目に対して静かに言った。

「大丈夫だ、勝手に見たりはしていない」
「どうして……あんたがこれを見て何になるのさ!」
「落ち着け。悪いが昨日お前の携帯だけは見た。お前と今里のナンバーとメアドが欲しかったからだ。その今里のメアドに昼間、俺は脅迫状を送った。【石動薫の映像データを手に入れた。当局に提出されたくなければ五千万円を用意して待て】ってな」

「何であんたはそんなことをしたの? カネのため?」
「今里の興味の対象をお前から俺に移すためだ。理由は不明だが今里のターゲットはずっとお前だった。だが思わぬ第三者が噛んでカネまで要求され、今里は焦っている筈だ。もっと揺さぶりをかけるための材料として手許にあるそれを利用したい」

 暫し俯いて考えた薫が顔を上げて首を傾げる。

「これに今里たちの顔が映ってるかどうかは分からないよ?」
「お前もそいつを見ていないのか?」

 黙って薫は頷いた。確かに撮られた本人にしてみればトラウマを刺激するだけの代物である。だがもし今里たちを特定できる映像が入っていれば、そこだけ切り取って警察に持ち込むことも可能なのだ。上手くすれば薫のことは伏せ、被害者不詳のまま検挙できるかも知れない。
 そう説明して恭介は薫の表情を窺った。

「どうする、やってみる価値はあると思うが」
「でも、僕は恭介……あんたにこれを見られたくない!」
「何を見ても俺はお前を蔑まないと誓う。大体、刑事時代で慣れているからな」
「ホントに、本当に何を見ても僕を嫌いにならない?」

「ああ。嫌ったりしないから安心しろ」
「そっか。でもどうして恭介は僕にそこまでしてくれるのさ? あんたはもう刑事でもないんだし、相手はヤクザで命懸けだよ?」

 言われて恭介は不意を突かれたような気分で薫を見返した。自分は薫の笑顔や仕草に、小柄な躰に、亡くしたバディを重ねてしまっている。傍に薫を置くことであの頃を思い出し、刑事だった自分をも蘇らせてしまっていたのだ。
 だが薫も自分も刑事ではない。刑事の時のバディは命が懸かったときにでも背を護り合う関係だが、薫と自分はそうじゃないのだ。
 それなのに博打に出てしまったのは何故なのか。

「さあな、分からん。単なる巡り合わせだろう」
「ふうん。じゃあ、そのパソコンで見る?」
「お前の熱が下がってからでいい」
「構わない。決心が揺らがないうちに見てしまいたい」

 言い切って口を引き結んだ薫の決心は固いようだ。そこでノートパソコンをベッド上に移動し早速USBメモリをセットした。中には映像ファイルがひとつだけ入っている。薫が頷くのを待って恭介はタッチパッドで再生させた。

「かなりクリアだな」
「ご自慢のデジタルムービーだそうだから」

 平気そうに薫は言ってのけたが顔色を真っ白にしている。毛布の上できつく握り締めたこぶしを恭介はそっと左手で包んでやった。その間にも映像の薫はシャブを使われ、無理矢理に男に挿入されて自身も欲望を零してしまっている。更に酔って甘くも切ない声で男たちに懇願し腰を振って快感に狂い始めると、薫はもう映像を直視できないらしく目を瞑った。

 映像は四時間近くにも及んでいた。恭介は事務的な動きで早送りしながら映像をチェックしてゆく。だが撮った側も注意を払っていたのだろう、薫以外の誰かの顔がはっきりと映っていることはなかった。映像もラスト二十分ほどになる。

 そこで血に塗れた薫の細い躰にのしかかった男の背を見た恭介は慌てて映像をストップさせた。まさかと思った。
 ここでこれを再び見ることになるとは。

「薫、こいつを見てくれ。これは誰だ?」

 真っ白な顔色をした薫が閉じていた目を開く。

「これは今里だよ」
「そうか、今里本人か――」

 今里の背には忘れようにも忘れられない蛇の入れ墨が入っていた。
 それはバディと自分を撃った男の背にあった入れ墨と同じものだった。
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