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第3話

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 アーケードを出るとそろそろ梅雨入りなのに風が少々冷たく感じられ、ジーンズと長袖Tシャツの上に羽織った紺のジャケットのボタンを留めた。こうしていると誰も自分をヤクザだとは思わない。それも博打をするための手の内で大抵の人間が油断してくれる。

 夜空の下、五分ほど待って停留所からバスに乗った。暫くして降りると電車に乗り換える。ふっかけてきた樫原組への腹いせ半分で樫原のシマまで出張る気だった。

 高城たかしろ市内でも一番大きな高城市駅で電車を降りる。改札を経てコンコースから出ると、ロータリーの周囲は二、三十階建てのビルの林立だ。二十時過ぎの今はまだ殆どの窓明かりが灯っている。これら表通りに面しているのはホテルやオフィスビルばかりだ。

 歩道橋を渡ってビジネスホテルの脇道に入り込む。裏通りに出るとそこはもう夜専門の店舗が並ぶ盛り場だった。電子看板やネオンが輝き、人々がそぞろ歩いて店々を物色している。明日は月曜だというのに、既に出来上がり大声で歌いながら千鳥足になっている集団もいた。
 いい気なもんだと思っていると酔っ払いの一人が電子看板に突っ込むように転ぶ。

「大丈夫、だあいじょーぶ!!」

 バカでかい声で喚きつつ酔っ払いは立ち上がったが、仲間が引くほど顔から流血していた。おまけに電子看板が一部破損して『スナック・チサコ』の『サ』の字だけが部分的に欠けて違う字に見えてしまう、ありがちながら割と被害が大きい事態に陥っている。

 そんなモノを眺め、澱んだ空気の臭いを嗅ぎながら薫は目的の雀荘まで辿り着く。雑居ビル三階にある雀荘のドアを開けると途端に濃い煙草の煙とぶつかった。顔見知りのマネージャーと挨拶すると、マネージャーは丁度面子の足らなかった卓を指し、目で訊いてくる。

 見たところ素人さんが二人と、明らかにその筋らしき中年が一人。薫は頷いた。

 飲料ディスペンサーで紙コップにウーロン茶を注ぎ、それを手にして卓に着いた。軽く挨拶すると素人の一人が「若いね、大学生?」と笑いながら訊いてくる。曖昧に返しながら喉を潤し、目つきの鋭い中年を見た。中年男がオート雀卓を作動させる。

 オート雀卓でイカサマをするのは非常に難しいが、できないこともない。だがそんな手を使わずとも半荘ハンチャン六回で素人さん二人はギヴアップした。一番負けが込んだのは中年のスジ者だったが、自ら身を退くことなどできないのは承知していて、薫は帰る素振りを見せてやる。

 中年のスジ者はホッとしたように雀荘を出て行った。

 それから他の卓で日付が変わるまで粘り、薫はテラ銭を支払った残り九枚の万札を手にして雀荘をあとにする。昨今は大負けした素人さんが警察に駆け込む恐れもあって大したゲームはできない。あまり粘りすぎて『シマを荒らした』などと因縁をつけられるのも厄介だった。

 それでも大勝ちには変わりなく、気分良く裏通りを歩き出す。

 すると既に電子看板やネオンも三分の一が消えた中、前方から大迷惑にも黒塗りの外車が近づいてきた。薫はレンタカーを凹ませた当たり屋紛いの奴らを思い出し少々気分を害する。だが駐められた自転車を避け、歩く人々を押し分けるように進んできた黒塗りは、薫のすぐ傍で濃いスモークを貼った後部ウィンドウを下げた。

 そうして車内から気さくな声が掛けられた。

「梅谷の薫さんじゃないですか」
「あ、今里さん。ご苦労様です」

 それは上納金百五十万円アップをふっかけてきた樫原組の組長だった。当然ながら先日の襲名式前から若頭カシラを張っていて、直下団体の構成員としては見知っていて当然の人物である。
 そうでなくとも三十代半ばの若さで国立大学院・経済学部の修士サマという肩書きと、誰に対しても丁寧な物腰で接する今里は目立ち、自然と記憶に残っていた。

 だがこの男のひとことで梅谷組はピンチに陥っているのだ。内心では『この野郎、馬鹿にしやがって』と怒りを押し隠す薫は見つめる目に力を込める。

「そう睨まないでくれたまえ。綺麗な顔が台無しだよ」
「顔のことを言われるのは好きじゃありません」
「ふむ、それは悪いことをした。お詫びに本家まで送るが、どうかね?」

 樫原組組長であり、近く一次団体である滝本組の直参じきさん入りが確実な今里の申し出に、慌てて薫は首を横に振った。足に使っていい人物ではない。
 しかし『畏れ多いです』と辞退したが『まあそう言わず』と、わざわざ車から降りてきてラフに肩まで組まれると固辞することもできなくなる。おまけに、

「梅谷組の上納金アップについて、訊きたいことくらいあるんじゃないのかな?」

 などと囁かれては、もう断れない。今里に続いて黒塗りに乗り込んだ。

 走り出した黒塗りにはドライバーの他、助手席にガードらしき男が一人乗り込んでいるだけだった。意外なまでに手薄だ。それでも平然としている男の横顔を眺める。視線に気付いたか今里は企業役員のような容貌を決定づけるツーポイント眼鏡の奥から余裕の微笑みを返してきた。

「私に文句がありそうだね。上納金のことだろう、言ってみたまえ」
「じゃあ訊くけど、あんた……あののなんなのさって歌が昔ありましたよね!?」

 拙い、本音で喋るところだった、危なかったと薫は背中に冷や汗を伝わせながらもホッとする。そして急旋回ブレイクすると可哀想な子を拾ってしまったかの如く反応に困っているらしい今里組長に訊き直した。

「その上納金アップは今里さんの一存なんですか?」

 こちらもホッとしたように元の企業役員的スマイルを取り戻した今里が答える。

「まさか。上の滝本組執行部の決定だ。私はそれを伝えただけだよ」
「そうなんですか?」
「そんな目で睨まないでくれと言っているだろう。梅谷にとって厳しいのは承知しているよ。だが私には梅谷を窮地に追い込んでも何のメリットもない。そうだろう?」

 言われてみればその通りだった。敵対組織でもない梅谷を潰しても、月に二百万の収入が減るだけで樫原組にも今里個人にも何の得もない。
 それなりに納得した薫は今里から目を逸らして窓外を眺めた。それでも滝本組執行部と交渉してくれたって良かったんじゃないかという思いを消せず、今里をじっと睨み続けてしまいそうだったからだ。

 下手に喋ってまた懐メロ独唱も避けたい。レパートリーが少ないので非常に危険なタイトロープを渡るハメになる。

 黒塗りは盛り場から抜け、林立するビルの谷間をバイパス方面へと向かっていた。

「いや、しかし薫さんと偶然会えたのはラッキィだったよ」
「僕に何かご用でもあったんですか?」

 振り向いて訊くと今里は余裕の笑みを浮かべたままの口許を更にほころばせた。

「用という訳でもないが、この業界で毛色の変わった者同士、親交を深めてみたくてね。つまりは一度、一緒に飲んでみるのもいいと思っていたんだ。どうかな?」
「どうって……僕なんかと飲んでも、あまり面白くはないと思いますけど」

 酒に強くない薫はどうやって誘いを断ろうかと考えを巡らせながら言ったが、今里はまるで意に介さず、やたらとフレンドリーに押してくる。

 まさか、これはヘッドハンティング!? いや、それこそ今里にメリットがない。それなら、まさかアッチ系の趣味なのだろうか……そんな薫の戸惑いを払拭するように今里は声を上げて笑った。

「はっは。まあ、そう言わずに付き合ってくれてもいいだろう。今回の上納金アップについては私も滝本に対して特に思うところがある。それについての話もしたい」

 そこまで言われては薫も断ることができなかった。
 もしかして近く滝本組執行部員となる今里なら上納金アップを撤回させることもできるのではないか、そんなことがチラリと脳裏を掠めて、薫は酒でも醤油でも飲んでやろうという気になった。

 黒塗りはバイパスを海の方へと一直線に走り、三十分ほどで高城市の隣に位置する佐波さなみ市に入ってバイパスを降りた。樫原組のシマは殆どが佐波市内の繁華街にある。旧い梅谷と違い本家は持たず幹部は全員、郊外の専用マンション住まいだった。

 ともあれ佐波市内の繁華街に黒塗りは入り込む。てっきり薫はシマの店で飲むのだろうと思い込んでいたが、黒塗りが停止したのは樫原組の事務所前だった。これもマンションの一階に居を構えている。軒には監視カメラが三台も据えられライトが煌々と辺りを照らしていた。

 周囲は自らのシマとはいえ繁華街で、日曜の夜といえども人通りはある。だが胆が太いのか気さくな性質なのか、今里は自分でドアを開けると無造作に黒塗りから降りた。薫も続く。

 樫原組の事務所はカチコミ防止なのか窓もなかった。焦げ茶色のスチール製ドアが一枚あるきりだ。カチ込まれて身体を壊すのも嫌だろうが、長く過ごすと心を病みそうな部屋だなと薫は思う。そのドアを開けて今里が入ると、中にいた十名ほどの手下たちが一斉に立ち上がった。

「組長、ご苦労さんです!」

 鷹揚に片手を挙げた今里は薫を応接セットに案内する。事務所内は適度にエアコンが利いて清涼な空気が気持ちいい。それに座らされた三人掛けソファも本革張りで非常に座り心地が良かった。電気代まで節約している梅谷組との格の違いを感じさせられ、少々もの悲しくなる。

「女っ気もなくて悪いね。だがいいのが入っているんだ、たらふく飲ませてやろう」
「それはどうも」

 近くの店で調達したのか手下がロウテーブルにオードブルを準備する。グラスや酒瓶も並ぶと薫と今里のサシでの酒宴が始まった。まずはシャンパンで乾杯だ。シャンパンなど薫は思い出せる限り飲んだことがなく、言われたからシャンパンと分かっただけである。クリスマスのシャ〇メリーと同じだろうかと予想して口を付けた。

「……あ、これ、美味しいかも」
「ローラン・ペリエ・グラン・シエクル、そう高くはないが味はいいだろう?」
「ええ、シャンパンをこんなに美味しいと思ったのは初めてです」

 意地があるので気取ってみた。シャンメ〇ーみたいに甘くないですねとは口が裂けても言わない。更に場数を踏んでいる風に香りを確かめて口に含んでみたりする。

 本音では自分に酒の味など分からないと思い込んでいた薫だったが、これは本当に旨かった。褒めたのが嬉しかったのか今里は赤ワインやブランデーなどを次々と薫に勧め始めた。お蔭で食うヒマもなく飲まされ、あっという間に酔いが回った。

 本当は上納金の話がしたいのに、何故か知れぬうちにヤクザになったきっかけを喋っている。だが喋りつつも酒が上物だったためか心地良い眩暈に引き込まれて、薫の記憶は途中で消え失せた――。
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