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第36話(最終話)
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「ああ、貴方たちね、『新城兄貴とユージン兄貴』は」
この科白には少々驚く。『県警本部の立花』だと名乗っただけで幾らエセルが一緒でも顔を一瞥しただけで言い当てられるとは思ってもみなかったからだ。テツは喉の奥で笑う。
「噂の美人コンビ、命まで張れそうな夢みたいに綺麗な二人なんて、そうそういないわよ」
「ヨシオが言ったんだな」
「ええ、そうね。目をキラキラさせて熱く語られたわ」
「じゃあ話は――」
「――聞いてる。昨日県警本部からきた刑事さんに全部ね」
和音が口を開く前にテツは手にしたグラスを振って見せた。
「ねえ、あたしの奢りよ、飲まない?」
二人は黙ってコートを脱ぐ。テツはカウンター上に重ねられたカットグラスをふたつ手に取り並べると、バーボンを少量注ぎ分けた。和音はテツの右側に腰掛ける。エセルは更に右に座った。二人にグラスを押しやり、テツは更にもうひとつグラスを出すと、それにも琥珀色の液体を注ぐ。
飲み手のいないそれにテツは自分のグラスを軽く触れ合わせた。
「あいつと……ヨシオと乾杯よ」
なるほどと思い、和音とエセルもグラスを取ると手を伸ばしてテツに倣う。
「生きてたら『兄貴たち』と乾杯なんて、あいつはきっと喜んだでしょうね。なのにあいつったらバカみたい……何やってんだろ、本当にバカなんだから……」
声を震わせてテツは自分のグラスにバーボンを注ぎ足した。
勧められるままに飲みながら和音は紫煙を漂わせる。エセルも僅かずつグラスのバーボンを減らした。誰も何も喋らず、静かにゆるゆると流れる時間を過ごす。
やがてバーボンのボトルが空になると、もう一本を封切るテツに会釈して和音とエセルは静かに腰を上げた。振り向いたテツはコートを羽織った和音に鋭く叫ぶ。
「謝らないで! あいつはそんなの、欲しがらないわ!」
「そう、だな。なら……ヨシオ、ありがとな」
言って和音は吸いかけの煙草のパッケージを飲み手のいないグラスの傍に置いた。見ていたテツはグラスの向こうにヨシオがいるかのように化粧の崩れた顔で微笑む。
「『ありがとう』か。良かったわね、ヨシオ。嬉しいわよね」
唇を噛んだテツがとうとう涙を零した。立ち上がるなり抱きついてきたテツを和音は両腕で包んでやる。震える肩を抱き締めグレイのダッフルコートに涙を吸わせた。
五分ほどもそうしていたが、自ら顔を上げてテツは和音の胸を押し返す。
「ごめんなさい、恋人の前で悪いことしちゃったわね。あたしもヨシオに怒られちゃう。内緒にして頂戴」
再び座ったテツはヨシオのグラスを相手に飲み始め、もう振り返らなかった。
静かに和音とエセルは踵を返し、スナック『ロータス』を出る。
◇◇◇◇
陽光が眩しく目を射て、和音は切れ長の目を眇めると先に立って歩き始めた。白昼の飲み屋街、それも場末といった感があるこの辺りには人通りが殆どない。人目を憚る必要もないのでエセルが左腕に抱きついたが好きにさせる。
だが歩を進めるにつれて巻きついたエセルの腕に力が入り、やがては殆どぶら下がるような状態となった。どうやら言いたいことがあるらしいと悟り、少し紅潮したエセルの横顔を和音は窺った。
「もしかしてお前、酔ったのか?」
「もしかしなくても、少し。アナタ香水臭いよ」
頬を僅かに膨らませたエセルの声と唇が尖っていて、何が気に食わないのか分からず和音は困惑する。そんな和音を見上げるとエセルはストレートに訴えた。
「僕の前で他人を抱き締めるなんて、いい根性してるよね!」
「お前の前で他人をって……ああ?」
まさかその程度で怒りに触れるとは思いも寄らず和音は呆れて立ち止まる。様々な反論が心の中で渦巻いたが、それを口に出すという愚行まではやらかさない。心して普段の顔つきを保った。だがこれが深い付き合いというヤツなのかアメジストの瞳は見透かしたように怒りを湛え、ますます不機嫌な声でエセルは言い募った。
「あんな風に僕の目の前でタラすなんて信じられないよっ!」
「ちょっと待て、いつ俺がタラしたってか?」
「無自覚なんてもっとタチが悪いよ! アナタに四分二秒も抱き締められて、今回は向こうがその気にならなかったけど、普通のシチュエーションなら相手はとっくに堕ちてるよっ!」
「細かいこと言ってんじゃねぇよ。大体、俺にも全くその気はねぇんだぞ?」
「和音にその気はなくても相手はタラされちゃうの!」
人聞きの悪いことを大声で叫ばれ和音も頭にくる。ヤケのように吼えた。
「俺が誰かをタラしたら悪いのかよっ!」
「悪いに決まってるでしょ! 仕事でタラすなら仕方ないけど、職務時間中とはいえ今はプライヴェートも同然じゃない。なのにこんな処にルージュまでつけて!」
半ば酔ったエセルはグレイのダッフルコートの胸を指差す。確かにそこには鮮やかに赤い唇の跡がくっきりとついていた。それをエセルはポケットから出したハンカチで擦る。
拭き取って貰いながらエセルの言葉になるほどと思い、一気に頭の冷めた和音は一旦コートを脱ぐとバサバサと振って、香水の匂いをなるべく蒸発させた。
再びコートを着て歩き始め、途中の自販機で煙草を買いながら、十五分ほどで駅前に出る。だが和音は構内に入らず、ぐるりと辺りを見渡したのちに、外のロータリーでバスの時刻表と腕時計を見比べた。不思議そうな顔でエセルが首を傾げる。
「出勤するならバスより電車の方が絶対早いよ?」
「県警本部に出勤するならな」
「出勤……しないの?」
バスの停留所に立った和音は普段と何ら変わらぬ表情で述べた。
「本日、第三SIT所属の二名は先般の特命の裏取りに従事する。まずは関わった最初の案件について更なる詳細を得るため現場を独自に検証する。……どうだ?」
「どうだって……どういうこと?」
「海に行く。それと水族館にもな。平日だし前より空いてるぞ。おっ、あのバスだ」
そう言って和音は丁度やってきた水族館行きのバスに乗り込んでしまう。勿論エセルも倣ったが、座席に腰掛けてから傍に立ったままの和音を見上げて少々不安そうな顔をした。
「職務中に水族館なんて、いいの?」
「だから『独自に現場検証』って言ってるじゃねぇか」
「うーん、どう考えても拙い気がするんだけど……」
「お前は酔えるからいいさ、けど俺は酔いたくても酔えねぇんだぞ。だからクラゲでも眺めて酔っ払いに行くんだ。デカいヤドカリが飯食うところも見たいしな。お前は見たくねぇのかよ?」
「あっ、見たい! ハサミで貝割るの見たいよう!」
「おーし、決まりだ。現在時、十二時二十七分。一時間もあれば着くからな」
大きく頷いたエセルが嬉しそうな顔をして和音を見上げる。
頷き返した和音は頭上に貼られた二泊三日スキーツアーの広告にエセルが気付かないよう、祈りながら約一時間を過ごすことになった。
了
この科白には少々驚く。『県警本部の立花』だと名乗っただけで幾らエセルが一緒でも顔を一瞥しただけで言い当てられるとは思ってもみなかったからだ。テツは喉の奥で笑う。
「噂の美人コンビ、命まで張れそうな夢みたいに綺麗な二人なんて、そうそういないわよ」
「ヨシオが言ったんだな」
「ええ、そうね。目をキラキラさせて熱く語られたわ」
「じゃあ話は――」
「――聞いてる。昨日県警本部からきた刑事さんに全部ね」
和音が口を開く前にテツは手にしたグラスを振って見せた。
「ねえ、あたしの奢りよ、飲まない?」
二人は黙ってコートを脱ぐ。テツはカウンター上に重ねられたカットグラスをふたつ手に取り並べると、バーボンを少量注ぎ分けた。和音はテツの右側に腰掛ける。エセルは更に右に座った。二人にグラスを押しやり、テツは更にもうひとつグラスを出すと、それにも琥珀色の液体を注ぐ。
飲み手のいないそれにテツは自分のグラスを軽く触れ合わせた。
「あいつと……ヨシオと乾杯よ」
なるほどと思い、和音とエセルもグラスを取ると手を伸ばしてテツに倣う。
「生きてたら『兄貴たち』と乾杯なんて、あいつはきっと喜んだでしょうね。なのにあいつったらバカみたい……何やってんだろ、本当にバカなんだから……」
声を震わせてテツは自分のグラスにバーボンを注ぎ足した。
勧められるままに飲みながら和音は紫煙を漂わせる。エセルも僅かずつグラスのバーボンを減らした。誰も何も喋らず、静かにゆるゆると流れる時間を過ごす。
やがてバーボンのボトルが空になると、もう一本を封切るテツに会釈して和音とエセルは静かに腰を上げた。振り向いたテツはコートを羽織った和音に鋭く叫ぶ。
「謝らないで! あいつはそんなの、欲しがらないわ!」
「そう、だな。なら……ヨシオ、ありがとな」
言って和音は吸いかけの煙草のパッケージを飲み手のいないグラスの傍に置いた。見ていたテツはグラスの向こうにヨシオがいるかのように化粧の崩れた顔で微笑む。
「『ありがとう』か。良かったわね、ヨシオ。嬉しいわよね」
唇を噛んだテツがとうとう涙を零した。立ち上がるなり抱きついてきたテツを和音は両腕で包んでやる。震える肩を抱き締めグレイのダッフルコートに涙を吸わせた。
五分ほどもそうしていたが、自ら顔を上げてテツは和音の胸を押し返す。
「ごめんなさい、恋人の前で悪いことしちゃったわね。あたしもヨシオに怒られちゃう。内緒にして頂戴」
再び座ったテツはヨシオのグラスを相手に飲み始め、もう振り返らなかった。
静かに和音とエセルは踵を返し、スナック『ロータス』を出る。
◇◇◇◇
陽光が眩しく目を射て、和音は切れ長の目を眇めると先に立って歩き始めた。白昼の飲み屋街、それも場末といった感があるこの辺りには人通りが殆どない。人目を憚る必要もないのでエセルが左腕に抱きついたが好きにさせる。
だが歩を進めるにつれて巻きついたエセルの腕に力が入り、やがては殆どぶら下がるような状態となった。どうやら言いたいことがあるらしいと悟り、少し紅潮したエセルの横顔を和音は窺った。
「もしかしてお前、酔ったのか?」
「もしかしなくても、少し。アナタ香水臭いよ」
頬を僅かに膨らませたエセルの声と唇が尖っていて、何が気に食わないのか分からず和音は困惑する。そんな和音を見上げるとエセルはストレートに訴えた。
「僕の前で他人を抱き締めるなんて、いい根性してるよね!」
「お前の前で他人をって……ああ?」
まさかその程度で怒りに触れるとは思いも寄らず和音は呆れて立ち止まる。様々な反論が心の中で渦巻いたが、それを口に出すという愚行まではやらかさない。心して普段の顔つきを保った。だがこれが深い付き合いというヤツなのかアメジストの瞳は見透かしたように怒りを湛え、ますます不機嫌な声でエセルは言い募った。
「あんな風に僕の目の前でタラすなんて信じられないよっ!」
「ちょっと待て、いつ俺がタラしたってか?」
「無自覚なんてもっとタチが悪いよ! アナタに四分二秒も抱き締められて、今回は向こうがその気にならなかったけど、普通のシチュエーションなら相手はとっくに堕ちてるよっ!」
「細かいこと言ってんじゃねぇよ。大体、俺にも全くその気はねぇんだぞ?」
「和音にその気はなくても相手はタラされちゃうの!」
人聞きの悪いことを大声で叫ばれ和音も頭にくる。ヤケのように吼えた。
「俺が誰かをタラしたら悪いのかよっ!」
「悪いに決まってるでしょ! 仕事でタラすなら仕方ないけど、職務時間中とはいえ今はプライヴェートも同然じゃない。なのにこんな処にルージュまでつけて!」
半ば酔ったエセルはグレイのダッフルコートの胸を指差す。確かにそこには鮮やかに赤い唇の跡がくっきりとついていた。それをエセルはポケットから出したハンカチで擦る。
拭き取って貰いながらエセルの言葉になるほどと思い、一気に頭の冷めた和音は一旦コートを脱ぐとバサバサと振って、香水の匂いをなるべく蒸発させた。
再びコートを着て歩き始め、途中の自販機で煙草を買いながら、十五分ほどで駅前に出る。だが和音は構内に入らず、ぐるりと辺りを見渡したのちに、外のロータリーでバスの時刻表と腕時計を見比べた。不思議そうな顔でエセルが首を傾げる。
「出勤するならバスより電車の方が絶対早いよ?」
「県警本部に出勤するならな」
「出勤……しないの?」
バスの停留所に立った和音は普段と何ら変わらぬ表情で述べた。
「本日、第三SIT所属の二名は先般の特命の裏取りに従事する。まずは関わった最初の案件について更なる詳細を得るため現場を独自に検証する。……どうだ?」
「どうだって……どういうこと?」
「海に行く。それと水族館にもな。平日だし前より空いてるぞ。おっ、あのバスだ」
そう言って和音は丁度やってきた水族館行きのバスに乗り込んでしまう。勿論エセルも倣ったが、座席に腰掛けてから傍に立ったままの和音を見上げて少々不安そうな顔をした。
「職務中に水族館なんて、いいの?」
「だから『独自に現場検証』って言ってるじゃねぇか」
「うーん、どう考えても拙い気がするんだけど……」
「お前は酔えるからいいさ、けど俺は酔いたくても酔えねぇんだぞ。だからクラゲでも眺めて酔っ払いに行くんだ。デカいヤドカリが飯食うところも見たいしな。お前は見たくねぇのかよ?」
「あっ、見たい! ハサミで貝割るの見たいよう!」
「おーし、決まりだ。現在時、十二時二十七分。一時間もあれば着くからな」
大きく頷いたエセルが嬉しそうな顔をして和音を見上げる。
頷き返した和音は頭上に貼られた二泊三日スキーツアーの広告にエセルが気付かないよう、祈りながら約一時間を過ごすことになった。
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