切り替えスイッチ~割り箸男2~

志賀雅基

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第9話

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 微妙に重い空気を載せていたがタクシーは快調に走り、公共交通機関だと二時間近く掛かる距離を約四十分で消化して丘島市内の浜口会事務所近くに辿り着いていた。
 まだ早いのを見取った和音が、かなり手前でタクシーを停めさせる。料金を精算して降りるとドライバーはあからさまにホッとした様子だった。

 タクシーを見送った和音はエセルを伴って歩き出す。ここは海が近い浜通りとでもいった界隈で、直接海が見える訳ではないが居並ぶ商店には海産物屋が多く目に飽きない。

「わあ、魚が干してある。洗濯物みたい」
「あっち見てみろよ、タコがもっと洗濯物みたいだぜ」
「ホントだ、薄っぺらいのがいっぱい。あっ、海苔が安ーい、買いたいなあ」

 ヤクザの事務所に乾物の土産はどうかと思い、主夫の買い物は次の機会にさせる。そうしてぶらぶらと十五分ほども歩くと浜口会の事務所が見えてきた。
 事務所の前に立ってエセルが素直な感想を述べる。

「何だか町の消防団みたいだね」
「そいつは消防団に失礼だと思うがな」

 全国に企業舎弟を五十社以上も抱えていた夏木組に比べれば、喩え武器弾薬を密輸し流していても長瀬組はまだ売り出し中で、その傘下の浜口会は更に小さい。そんな博徒系ヤクザの事務所は周囲の商店と並んでいて、うっかりすると通り過ぎてしまいそうだった。

 建物はそう小さくないのだが周囲と馴染みすぎているのである。商店を改造したような雰囲気で、入り口は間口がいやに広い磨りガラスの引き戸となっていた。そして消防団というのが分からないでもない、表に面した壁の一部はシャッター付きのガレージである。
 そんな建物だが割と新しい木製の看板が縦に貼り付けてあり、それには筆文字で『浜口会』と大きく書いてあった。ひとつだけだが監視カメラもついている。

「ふん、間違いねぇな。現在時、十二時六分。入っちまうか?」
「そうだね。でもその前に――」

 監視カメラの撮影範囲外で、エセルに素早くソフトキスを奪われた。

「――和音だけなんだからね」

 という耳元に背伸びしての囁き付きである。周囲の通行人も気付かないこのタイミングには敵わねぇなと思いながら、和音は重要なことをエセルに確認した。

「俺は前回と同じ、偽名でいくからな」
「分かってるって、『新城しんじょうさとし』でしょ」

 そう言ったエセルはもう目から感情の色を消し、無表情を作っている。それを見て和音は初めて出会ったときのエセルを思い出した。あのときのアメジストの瞳は氷の欠片が潜んでいるように冷たく思えた上に、事実として放っておけば人が殺されるのを平気で看過し、複数の人間を撃ち殺してなお心を動かさないように見えた。

 だが今は無表情も他人に隙を与えないよう、単に『作っている』だけに過ぎないと分かる。しかしそれでもエセルの切り替えは見事としか言いようがなく、和音は僅かに切れ長の目を眇めて白い顔を眺めたのち監視カメラの撮影範囲内へと踏み込んだ。

 看板の横に付いたチャイムを鳴らす。エージェントがいるなら出てくる筈だった。
 果たして名も知らぬエージェントは十秒ほどで引き戸を開けて出てきた。ここでは新入りチンピラの一人である男に、まずは和音が小声で訊く。

「あんた、名前は?」
吉本よしもとと呼んで下さい。では、中にどうぞ」

 招き入れられた事務所の中は本当に零細企業のオフィスのようだった。灰色の事務机が突き合わせて並べられ、パーテーションで区切られたスペースには古い応接セットだ。

 そしてチンピラが十余名、それぞれ掃除をしカードゲームをし喋り合いメールを打っている。だが和音とエセルが事務所に足を踏み入れると一瞬で静まり返った。数秒でざわめきが戻ってきたが大声を出す者はいない。誰もが囁き声を交わしている。

「すっげぇ美人が二人も……驚いたぜ」
「両方とも夏木組の殺し屋って噂は本当なんスかね?」

「でも『伝説のヒットマン』がここまでシャンとは想定外っすよ」
「どっちかってぇと黒髪の方が危ねぇ目つきしてるよな」
「いや、外人も相当場数踏んでるぞ、ありゃあ」 

 どうやら吉本が既にある程度の噂を流し済みらしかった。和音は普段の顔を維持しエセルは無表情で囁きを聞き流して、吉本から勧められるままに応接セットのソファに腰掛ける。

 すると奥にも部屋があるらしく、ざわめきに誘われるように出てきたのはニボシのように痩せた中年男だった。その姿を見て緊張した面持ちのチンピラたちが一斉に立って勢いよく頭を下げる。どうやらこの中年男が彼らの直属上司らしい。

 一応和音とエセルも立ち上がった。頭までは下げない。

「ああ、きましたね。そこに座って頂けますか?」

 ニボシのような中年男は意外と丁寧な口調で二人を促した。頬には人の良い微笑みさえ浮かべている。思っていたヤクザの幹部とは随分と違うイメージに戸惑いながらも、和音とエセルは二人掛けソファに並んで座り直した。向かいにニボシ男が腰を下ろす。

 すぐにチンピラが熱い緑茶の湯飲みを三つ、ロウテーブルに配した。

「落とし前もつけずに夏木組を出られたとは幸いでしたねえ」

 人の良さそうな微笑みのまま、ニボシ男は和音たちの欠けていない指を見る。

 微笑みを向けられながら、イメージと違った相手を和音は観察した。髪はオールバックで顔立ちは何処といって特徴もない。目立たなさは吉本と五分を張る。着替えれば会社員、それも係長クラスといった風だ。だが紺の生地にくっきりとした白ストライプという、まずカタギは着ないタイプのスーツを着用し、そこだけでヤクザと主張しているようだった。

「で、綺麗な兄さん方のお名前は何と仰いましたっけ?」
「新城聡だ」
「エセル=ユージンです」

「新城さんにユージンさんですか。私はこの事務所を預かる代貸で石原いしはらと申します」

 名刺を差し出さないのが不思議なくらいの口調で石原代貸は言った。

 代貸といえば暴力団では若頭カシラだという吉本の説明を和音は思い出す。組織にも依るが若頭といえば殆どの場合、組のナンバー2だ。そんな上級幹部がこのようなシケた事務所を仕切っているとは、やはり浜口会の規模はごく小さいようだと和音は思う。

 だが小さな事務所に係長のような男が妙に似合うのも事実だった。
 しかしこのような男が代貸を務める組織から、今や破竹の勢いで売り出し中の長瀬組へと、本当に潜入が可能なのだろうかという思いが和音の中で膨れ上がる。

 考えを読んだように石原代貸はそのことを口にした。

「腕が立つそうですね。それにお二人とも大変な美人さんだ。お二人がガードに就くことになれば、長瀬の組長さんはさぞかし喜ぶことでしょう」
「俺たちは早々に長瀬組送りか?」
「長瀬組長のガードを希望されていると伺いましたが、何か問題でもありますか?」

「いや、これでも元は夏木の幹部だしな。どうせ転向するならと敵対していた長瀬を選んだのも俺たちだ。夏木のチンピラヒットマンに簡単に殺られたくはねぇしな」
「なるほど。喩え雇われガードでも中枢にいた方がタマを取られづらいということですね」

 ニボシで係長でもヤクザである。ヤクザらしい思考で和音の言いたいことを読み取って石原代貸は深く頷いた。そのスーツはいったい何処で買ったのだろうと思いつつ和音も頷く。

「まあな。上手く『上納』して貰えると助かる」
「今夜、貸元と私は長瀬組に呼ばれています。そのとき『上納』することになりますね」

「今夜か。えらく話が早いな、有難いが」
「うちの貸元も承知しております、ご安心を。それで何か他にご希望はおありで?」

 訊かれたが全ては順調で何も思いつかなかった。
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