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第8話

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 目が覚めた霧島は一瞬どうしてソファで寝ているのか分からずボーッとした。
 大欠伸をしつつ腕時計を見るともう八時十分で、だが休日としては早起きである。

 しかし今週の食事当番を背負っているので、とっとと定番メニューを作ってしまおうと立ち上がりかけて飲みかけのウィスキーに目を留め、昨晩の京哉との喧嘩をようやく思い出した。

 そこでまだ京哉が寝ているのなら、そっと抱き締めて耳元に『すまん』と囁けば許して貰えるだろう、などという年上のずるい浅知恵で静かに寝室に足を踏み入れる。
 けれどベッドに京哉の姿はなく毛布も綺麗に畳まれていて、拍子抜けすると同時に焦りが這い寄ってきた。こんな早くに独りで出かけたことなどなかったからだ。

 京哉は独りで何処に行ったのか。これまで霧島に断りもなく京哉が単独行動を取ったことなど殆どなかったのだ。
 もしかしたらSAT案件でも入ったのかも知れない。だがそれなら『一生、どんなものでも一緒に見てゆく』という二人の誓いを京哉は破り、更には『独りでトリガを引かせない』という霧島の誓いまで勝手に反故にさせたことになる。

 そうでなく近所のコンビニに煙草を買いに出ただけならいいがと考える一方で、昨日の帰りに京哉は煙草を買っていたことも思い出していた。

 だからといってメールやコールをしてみようとは思わない。危険な特別任務に就く時のためにお互いの携帯はGPS機能で位置を特定可能だが、それも試そうとはしなかった。年上の男として捨てがたいプライドを護らんとする最後の意地でもあった。

 室内をうろうろしTVを点けてみたが、ニュースでもSAT出動案件は報じられていない。だが京哉の銃とスペアマガジンが消えていて、とにかく出掛けたのは確かなようである。ここはひとまず自分も出勤し情報収集するしかないだろう。

 休日出勤は隊員たちに気を使わせるが仕方ない。顔を洗って歯を磨いた。

 独りでは朝食を食う気にもなれず、さっさとオーダーメイドスーツに着替える。ジャケットの下にショルダーホルスタで銃を吊るのも忘れない。休日なので敢えて帯革は巻かずベルトにスペアマガジンパウチだけしか着けなかった。

 室内の火元やロックを点検し、目に留まった京哉の吸いかけの煙草のパッケージと使い捨てライターをスーツの内ポケットに入れる。特別任務中でもないのに京哉行方不明の緊急事態でストレス性の喫煙症を発症しそうだったのだ。
 今は我慢して玄関を出るとロックする。

 月極駐車場まで走ると有難いことに白いセダンは残っていた。京哉はバスかタクシーを使ったらしい。運転席でステアリングを握って一路、県警本部を目指す。
 五十分ほどかけて本部庁舎裏の駐車場に着くまで携帯を意識していたが、一度もそれは震えることがなかった。腹も立ったが心配の方が割合が高い。

「私はこんなに心配しているというのに、あいつはそうではないのか……」

 呟いてみて余計に心配になる。狙撃で人を殺した際、京哉はPTSDから必ず高熱を出すのだ。喩えSAT事案のような肯定すべき職務でも。
 だがここで心配を募らせていても仕方ない。まずは事実関係を確かめるのが先決である。車から降りると軽く走って裏口から入り二階まで階段を駆け上った。

 左側一枚目のドアから入ると詰め所に残っていた本日上番の三班の隊員たちが怪訝な顔をしつつ、予定になかった休日出勤の隊長に身を折る敬礼をする。
 霧島はラフな挙手敬礼で応えた。

 そうしながらも、もしかしてという思いで詰め所内を見回している。無論京哉の姿を探したのだが見当たらない。代わりに見つけたのは同じく休日出勤の副隊長だ。

「小田切、もしかして貴様もSAT案件か?」
「は? 何のことだい?」
「訊いているのは私なのだがな」
「あー、いや、じつはまた怜から膝蹴りを食らってね」

 なるほど、自分もお揃いだとは霧島は口が裂けても言わない。

 ただ浮気心を出して恋人から制裁を食らい、逃げ出してきて職場のノートパソコンでオンライン麻雀をやるしかない男を冷たい目で眺めたのち、皆の視線を引きずりながら自分のデスクに就いて警電を取る。
 京哉の性格からいって喧嘩をしたから憂さ晴らしに遊びに出たとは考えづらい。

 それを信じてコールしたのはSAT隊長の寺岡てらおか警視のデスクだった。
 階級こそ同じ警視でも寺岡は叩き上げで霧島とは犬猿の仲だ。できれば口も利きたくない相手だが遠回りしてはいられない。

《――何だ、霧島、貴様も鳴海も休日だろうが!》
「いきなり吼えるな。だがSAT案件は起こっていないのか?」
《ああ? 何を寝惚けているんだ、貴様は?》
「分かった、もういい」

 失礼にもそれだけで警電を切ると、ここにきて残る可能性に思い至った。

「くそう、京哉の奴、昨日の今日でもう見合いとは……」

 呟きは殆ど声にしなかった筈だがサツカンの耳は地獄耳である。デスクが隣の小田切は勿論、警邏に出掛けるために偶然デスクの前を通り過ぎようとした三班の隊員であり、機捜のお笑い担当である栗田くりた巡査部長もその点に関しては誰にも引けは取らなかった。

「ええっ、鳴海がお見合いっすか!」

 その馬鹿デカい声は朝の喧騒が収まりかけた詰め所内に響き渡った。

「ってことは霧島さんは京哉くんにフラれたのかい?」
「気の毒に、それじゃあ隊長と鳴海はバディも解消かも知れんな」
「ってか、見合い相手は何処の誰なんだ?」
「誰か調べろ!」

 一気に盛り上がる詰め所内で帰宅前だった機捜の長老・田上警部補が代表するかのように進み出ると、デスク越しに若すぎる機捜隊長の肩に手を置いて諭す。

「隊長さん。今ならまだ間に合うかも知れん。泣いて縋って土下座すれば――」
「田上さんまで何を言い出すんですか!」
「悪いことは言いませんから、素直に謝ることですな」

 まるで昨日からの一連の出来事を見てきたかのように言われ、さすがに霧島の鉄面皮もヒビが入って引き攣った。恥ずかしいやら情けないやらで思わず肩に置かれた手を振り払う。 
 それでも何とか平静を装って、普段と変わらぬ低い声を絞り出した。

「これは私事ですから放っておいて貰いたい」
「意固地になりなさんな。隊長さんの面倒なんぞ鳴海の他に誰が見てくれるっちゅうんですか?」
「私は意固地になど……鳴海が何処のご令嬢と結婚しようが……」
「おいっ、相手はご令嬢らしいぞ、検索かけろ!」

 小田切副隊長の指示が飛び、その場にいた隊員らは本気で調べ始めていた。いたたまれなくなった霧島だったが、そのまま帰ってしまっては傷ついたプライドを回復するきっかけを失う。そんなことを計算する余裕は辛うじて残っていた。

 いや、人間は余裕を失った時ほど却って些末な事を気にするのかも知れない。

 とにかく一時退却し戦術を練るのに目を留めたのは武器庫と給湯室と仮眠所だ。

 一瞥して霧島は即、武器庫に戦術的撤退の活路を見出すことに決め、武器庫係も休日ということで自分のデスクの引き出しから武器庫の鍵を取り出そうとした。

 その時だった、詰め所の中央に二人の男が出現したのは。
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