不自由ない檻

志賀雅基

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タリアセン1/4

第44話

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 一週間と経っていないのにペントハウスはとても懐かしい気がした。自分で勝手に決めた『僕の部屋』のベッドに座ってみると、自分がここ数日どれだけ緊張の糸を張り詰めていたのかが分かる程、落ち着いて深く眠れそうだと思った。

 慧さんと僕の二人して最近、気に入っている定食屋で食事をして帰ってきたばかりだった。途中で実家のマンションに寄り、必要なものはまた一抱え取ってきてある。
 このままなら僕は十八歳になるまでずっと慧さんと一緒に暮らせるのかも知れない、なんて母を差し置いて考えてしまうのは仕方ないだろう。

 同じ年月を生きてきた同級生たちと比べて、フェアに見て僕は幸福量が少なかったんじゃないかな。誰にだって悩みがあって、その不幸量は他人には計れない。何かに困って女部長は飛び込み自殺までやった。でも理不尽に降って湧く痛みや悩みと違い、幸福の絶対量は推し量れるような気がする。

 勿論、幸福絶対量が多い人は不幸量が少ないとは言えないけれど。

 それでも自分のせいじゃない不幸を背負わされた僕は、飛び込み自殺をせずに自分で何とかしようとした。だから慧さんと一緒にいられる今がある。人それぞれ羞恥を感じるポイントは違うけれど、僕は『自分の不幸を他人に知られるのが一番恥かしかった』。それが怖くて街に立つことまでやった。

 他人から見たらプライドの切り売りかも知れないけど、僕にしてみたら、それはプライドを護るための一手段でしかなく、慧さんにもそう見えたのかも。
 だから同情とか使命感なんかで動いたんじゃなく、同じ地平に立つ者同士として純粋な愛情が生まれたのか。

 ははっ……僕は何を考えてるんだろう。

 流石にランクルじゃなくタクシーで行き来する間、僕は慧さんの横顔の左目――と言っても眼帯で隠れていたけれど――ばかり眺めていたし、慧さんは『心配するな』と言いたげに僕の右手指をそっと握っていてくれたからかな。

 けど、それって他者の不幸で成り立っていて。
 母が逮捕されなければ。父が自殺していなければ。
 
 僕が男を一人、野菜にしなければ。

 この世の幸福量と不幸量は決まっていて、誰かが背負えば僕は軽くなるみたいだ。
 じゃあ、何だって誰かのせいにして擦り付けてしまえば勝ち――?

 そう思い切れないのが僕の甘さであり、慧さんが買ってくれたプライドのような気もする。あるがままでいないと、水谷透は水谷透のままでいなくちゃ拝島慧にとって用無しに……今更、あんなに愛されてるのを感じるのに?

 とにかく僕の幸福は人の不幸の上に築かれている。――慧さんまで。

 そこでノックもなくドアが開いた。慧さん、目が痛むのかな。

「怪我した時くらい、お酒は控えた方がいいですよ」
「なんだァ、ガキが指図すんのかよ!」

 悠さんだと気付いた時にはベッドに押し倒されていた。のしかかられてアルコール臭い息をかけられる。暴れたけれど逃れられない。服を脱がせられそうになって見上げたら、眼帯はしていなくて血の色をした小さな傷痕が点々とあった。荒々しさに込められた強烈な敵意。何故?

 ああ、僕は幽霊の悠さんが護る慧さんを傷つけた女の息子だ。
 
「やってくれたな、おい。危うく目ん玉だけ幽霊になる処だったぜ」
「くっ……見え、ますか?」
「幸いな。だがテメェは慧に不幸しか運んでこない。去れ」
「いや、だ! やめっ!」
「それで『嫌だ』ってか? 笑わせる。慧の野郎は包丁とロープを持ってきたぞ」

 そういうことかと僕は頭の片隅で納得した。『三人で殺し合った』謎が解けた。けれど痩躯の慧さんの身体なのに太い鎖を巻き付けたかのように重くて押し退けられず、長袖Tシャツの裾が裂けた。
 このまま悠さんにヤラれるのだけはだめだ。あんなに慧さんが怒りを、嫉妬を露わにしていたんだから。

 暴れまくっていたら、いつの間にか悠さんの手が僕の首にかかっていた。徐々に力が籠められる。

「絞めろよ……殺せ、殺せよ!」
 
 ふいに力が緩んだと思ったら目を瞬かせる悠さんが見降ろしていた。違う、慧さんだ!

「慧さん? 慧さん!」
「おー、透よ。すまん、大丈夫だったか?」
「大丈夫ですけど、謝るのは慧さん、貴方じゃない」
「お前さんのいう処の『気分』ってヤツだ。何処も痛くしてないなら少し付き合いませんかね」

「酒を勧めるなんて悪徳教師」
「酒とは言ってませんよ、ジュースでもミルクでもコーヒーでもビールでもいい」
「ビールは水なんてオッサンですね。じゃあ、着替えて行きますので」

 殊更ゆっくりと着替えた。破られた服はダストボックスの底の方に突っ込んで。僕はその間、ずっと涙が止まらなかった。どうして僕らばかりに不幸が集中するのだろう。慧さんが何を言い出すのか僕には予想がついていて、余計に悲しくて悔しくて。

 リビングに行ってみたら慧さんと僕の二人分の紅茶が淹れられていた。お揃いの洒落たカップを前にソファーに向かい合って座る。もう僕は紅茶にシュガーを入れる気力もないくらい泣いてしまっていて、上等らしい茶葉の金色の香りの湯気を吸うだけで精一杯だった。

「何を言いたいのか分かってるようですねえ……俺たちはだめだ。一緒にいられる人種じゃないんですよ、やってみて解ったんだがな」
「……」
「不幸者が不幸を持ち寄せ合って、透、お前の将来も――」
「――将来なんか要らない! この、貴方といられる今があれば僕は他に何があろうと構わない! 何もかもを失くしても……買って、困ったから誰かに売るんですか?」

 捨てられる発想は全くなくて、でも藤村先生辺りに押し付けるくらいはされそうだと思う。

「それが僕のため? 何のジョークですか?」
「俺は……幽霊が、俺のこの手が、お前さんを傷つけるのに耐えられん」
「構いませんよ、僕は。何ならヤラれてもいい。でも慧さんは僕のプライドを買った。それって僕の不幸も同時に背負い込んだんです。見たんじゃないですか、初めて男とヤって歩くのもやっとだったところとか」

 黙り込んだのを見ると、その通りなのだろう。

「全部まとめて僕のプライドです。美味しいとこ取りなんて止めてください」
「本当に……本当に後悔しないのか?」
「いい加減に僕だって怒りますよ。いえ、もう怒ってます。一度は手放そうとしたことを」

「透、お前さんの意志はずっと俺の専属だったんだなあ」
「当然です。慧さんの事を好きで、愛してますから」

 唐突に驚いた顔で慧さんは僕をまともに見返す。

「どうしたらそのプライドで、そこまでストレートに言えるんですかね?」
「慧さんがくれるものを言葉にしただけですよ。二人で不幸になりませんか?」
「ふん。互いに男だろうが。そこは意地でも『幸せ』ですよ」
「嘘は吐かないんでしたよね」

 苦笑いした慧さんに僕はもう一度言い直す。

「なら、他人から不幸に見えていても、僕ら二人は幸せでいませんか、一緒に」

 次にはもう慧さんは大笑いしている。人がこんなに大真面目なのに。

「はっはっは、腹痛いですよ。青いねえ。青い青い……だがな、透、青い大人も悪くないと俺は思うぞ」

 慧さんらしさが戻ってきたみたいで僕はそれだけでこんなに嬉しい。
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