不自由ない檻

志賀雅基

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いたたまれなくて第五元素

第39話

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 心の底から慧さんは僕と、どうにかなりたいんだろうな。そう思い知った翌朝から僕の方が挙動不審者になってしまった。朝食は面倒だからいつもトーストにカップスープとコーヒー。それかシリアルに牛乳をかけて二人して流し込む。ギリギリまで眠っていたいのは誰でも同じ。
 
 それなのに、髪を梳かれてからドキドキして眠りが浅かった僕は、殆どうつらうつらしただけで起きてしまった。端から流血騒ぎで余り寝る暇もなかったけれど。でもベッドから出た僕は慧さんから通学停止を申し渡され、届けも『風邪』で出しておくと言われたのに、いきなり朝食を作ってみたくなったのだ。

 つまりは慧さんに僕が作ったものを食べて欲しいと思った……彼女とか、ましてや奥さんでもあるまいし。自分でもどうかしていると考えつつ、冷蔵庫にあった材料を出してみた。
 けれど何とかなりそうなのは卵とハムくらいだ。ハムエッグにコンビニのスティック野菜を添えればワンディッシュも見栄えがするかも。

 なんて簡単にはいかなかった。利き手を怪我して包帯グルグル巻きなのだ。鎮痛剤は飲んでいるけど敏感な処の縫った程、深い傷はチクチクと痛くて思ったように動いてくれない。お蔭で卵は四個残っていたのが二個、無惨に潰れる。残りの二個は慎重に……と、ボウルに割ってからフライパンに移そうとしたけど、普段の癖って怖い。ボウルを右手で持とうとして滑らせ、敢え無く生卵は三個目までがシンクに流れていった。

「何をやらかしているんですかねえ、透よ?」

 言いつつ慧さんがフライパンの載ったヒータのスイッチを切る。

「油、引いたまま……」
「その辺の紙で拭きますよ、冷めたら仕舞いますし。んで、いきなり何なんだ?」
「えーと、卵の消費期限がもうすぐでした」

 言い訳にもならない事を口先から垂れ流しながら、僕は初めて目が覚めた気がして恥ずかしくて堪らなくなった。そういう時こそ慧さんは面白そうに僕の顔をまともに見ながら突っ込んでくる。

「ほう、カルボナーラにチャレンジしたのは先一昨日の晩ですが。その日のネットスーパーとやらで購入した鶏卵が既に消費期限とね。……知ってるか、卵ってえのは消費期限を随分すぎても火ぃ通せば結構食えるんですと」

 滔々と捲し立て、僕の羞恥を掘り進めて喜ぶ慧さんは絶対サド属性だ。悠氏とは違うって怒りそうだから言わないけど。人を殺し損ねた僕といい勝負かも知れない。でも今に限っては僕の旗色は最悪だった。

「で、卵焼いてどうするんですかね?」
「……いいじゃないですか、たまにはハムエッグも」
「あんた、怪我人らしく茹で卵くらいにしておけばいいものを。バカですか?」
「ああ、茹で卵……茹でハム?」

 呆れ果てたようで慧さんは意外なほどに手際良く残り一個の卵をボウルに割り、牛乳と砂糖に塩を一摘み入れて泡だて器で掻き混ぜ、朝食用の食パンを三枚ワイルドにちぎって放り込む。液体が無くなると再びヒータのスイッチを入れ、フライパンに卵液を吸わせたパンを並べた。弱火で蓋をすると次はシンクの卵の残骸の始末だ。

「すごい、慧さんが料理してる。ってゆうか、料理できるんじゃないですか」
「言いたかないが、カビの生えたパンを如何にして腹を壊さず食うか、それとも飢え死ぬかってガキの頃な」
「そっか……すみません」
「ふん。お前は何も悪くねぇさ、単なる事実だからな」

 僕のネグレクトや暴力男なんて比べ物にならないような目に遭ってきたんだろうな。そう思ったけれど、すぐに思い違いだと気付く。そのとき誰がどれだけ辛かったかなんて比べられるもんじゃない。
 どうしてお金に困ったのかは分からないにしろ、僕は稼ごうとしたし、慧さんは盗ってでも生きたのだし、読書クラブの女部長は電車に飛び込んで死んだのだから。

「あの、慧さん。フライパンそのままでいいんですか?」
「透、お前さんこそ、卵べったりの包帯はそのままでいいんですかねえ?」

 全く、本当に焦げないか心配してるのに。でも何だかふんわりとした、いい匂いがキッチンに立ち込めてきて、僕は朝から腹が鳴りそうな気分になった。匂いを堪能しながら救急箱のところに行き、今朝方の医者が置いていったガーゼと包帯のセットを掴んでキッチンに戻る。

 慧さんは椅子に腰かけて暢気に煙草を吸っていた。フライパンはまだそのまま。

「慧さんってば、フライパンは?」
「引っ繰り返さず弱火でじっくり焼く。底がカリカリで上はプリン味、フレンチトーストの醍醐味ですよ」

 思わず僕は笑ってしまう。
 煙草を咥えた無精ひげまである三十男が『プリン味』好きとか可愛いことを言うなんて。

 きっと御菓子もなくて甘い物を食べたい子供が工夫し行き着いた最高の味なんだろうな。最初の頃は火傷もしただろう。フライパンに焦げ付かせて殴られ蹴られたかも。そういうことを僕が勝手に考えている間も慧さんは涼しく煙を吹かしているけれど。

「ようし、頃合いだ。いい、透は座ってろ。包帯も後で巻き直してやる」
「フォークくらいは出せますよ」
「皿は割るなよ、両手をやられたらケツまで拭いてやるハメになるからな」

 食事前でも男二人の会話は遠慮がない。
 結局、プレート二枚にフレンチトーストを分けて盛り、ハムとスティック野菜を添えて朝食だ。

「いただきます。……え、うわっ、美味しい!」
「だろうが? 余計なモンは何ひとつ入ってなくても、創意工夫で化けるんですよ」
「化学教師をこんなに見直したことは過去、ありませんでした」

 慧さんのフレンチトーストは本気で美味しくて、使い慣れない左手なのに僕はあっという間に食べてしまった。今だけは行儀悪くもお皿に口を近づけてかき込むように。カリカリとふわふわ、甘みと少しの塩気が絶妙だった。

「ごちそうさまでした。また食べたい、なんて言ってもいいですか?」
「構わんですよ、これしか作れんからな……ま、俺も久々に食ったわ」
「あ……久々、ですよね」

 そこでネガティヴになるなという意味か慧さんはニヤリと笑い、咥え煙草で立ってくると僕の右手の包帯を解き始める。生卵で汚れた包帯を解かれると、怪我の影響のない小指と薬指、中指の三本をそっと掴まれた。

 黙って持ち上げられたと思ったら、慧さんは僕の指に口づけようとして、止めた。

 怪我なんかしていなかったら慧さんは口づけ、僕を胸に抱き締めてくれたかも知れないのに。
 ――だめだ。こんな感じ方をしてばかりいたら身が保たない。
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