不自由ない檻

志賀雅基

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近づきすぎて、ぼやけてぶつかる

第36話

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 最初は夜中に目が覚めたら、逆光でシルエットになった慧さんがいきなり喚いたのが始まりだった。言葉にならない唸り声のような喚きの寸前、ドアが開いた部屋の圧の変化で身体が覚えた危機で僕は寝たふりか起きて身構えるか一瞬迷った。

 でも、ここは自宅マンションじゃなく、無意味にサンドバッグにされることは無いのだと思い出したのと、事は慧さんだという焦りが急激に湧いて起き上がる。
 途端に短い距離を詰められ、ベッドの僕は押し倒された。慧さんじゃない、別人格だと悟る。

 そういや慧さんの父親の悠さんってペドフィリアだっけ、どのくらいまでの年齢が対象なんだろうと妙に冷静に思った。僕が同性と経験しているのもあったし、お蔭で『もしも』の時でもどうすれば自分のダメージを少なくできるかも、ある程度は心得ていたから。

 ――けれど慧さんは、できないんだ。

 いや、こういうのは精神的なものが大きいような気もするし、悠さんなら分からない。

 そして……僕は慧さんの身体なら悠さんとでもいい、なんて慧さんに対してとんでもなく失礼で口が裂けても言えないようなことを確かに考えていたのである。

 馬鹿じゃないのか、僕は。『好きだから躰だけでも』って、自分に酔い過ぎだ。慧さんが僕をストーカーするくらい好きでいてくれて、更に色々と助けてくれて今がある。
 飄々として頭も切れる慧さんが僕も好きになった。

 でも、僕と慧さんの躰の関係を阻んだのは、果たして慧さんの機能の問題だけなのかな?

 どうしてだか僕は違うと思えてならない。
 敢えて言えば……早すぎる? 慧さんが買った『僕のプライド』が値下がりするというか……。

 一瞬でそんな風に考えている間にも、少しアルコール臭い吐息が顔にかかった。キスされるのかと思えば頬をねっとり舐められる。僕の中では相手は慧さんの身体、気持ち悪くはならない。

「何だ、お前さん。胆、据わってんな」
「悠さん、ですよね?」
「いちいち訊くな、馬鹿かお前さんは。俺は幽霊だぞ?」
「それは以前にも聞きましたけれど……」

 ベッド上で薄い毛布越しにのしかかられても、慧さんは痩躯なのであまり重たくはない。

「あのう、何で幽霊の悠さんは息子さんの慧さんに憑りついてるんですか?」
「そりゃあよ、家族三人で殺し合ったからよ。生き残りに憑いただけさ」
「家族三人……三千円のことですか?」

 訊いたら悠氏は粗暴な雰囲気を引っ込めてまで数秒間、薄暗い中で僕をまじまじ見つめた。

「知らねぇのか……そういうことになってんのか?」
「え、何ですか?」
「何でもねぇよ、この小賢しいガキが! 慧の野郎と似てるぜ」

 急にベッドから降りて悠氏は部屋から出て行ってしまう。勿論、僕は後を追った。連休中で未だ着替えてもいない背がリビングに消えかけ、ふいに振り向いた。

「どうしたんですかね、こんな時間に。お子ちゃまは寝ている時間ですよ」

 ああ、慧さんだ。ホッとしたが、また窓を割って怪我されるのも困る。ここは黙っている手だ。

「喉、渇いたんで」
「ふん。ならデカい方の水のボトル、開けようや。俺も飲む」
「センセー、飲み過ぎの先生がいますー。ウィスキー、半分も飲んでるじゃないですか」
「放っといてくれませんかねえ。これでも分解酵素を二種とも持ってる体質なんですよ、ADHとALDH2」

 言い訳する慧さんにヒラヒラと手を振りつつキッチンへ。二リットルペットボトルのミネラルウォーターを出してリビングへ戻る。封切って渡すと慧さんは口を付けて豪快に三分の一以上飲んだ。
 煙草の匂いを感じながら僕も飲む。間接キスなんて今更な距離感。

 でも、僕の脳裏には一枚の画が浮かんで消えなかった。

 幽霊の悠氏が言った「家族三人で殺し合った」。慧さんの目前で父親と母親は交わりながら殺し合いした。父親は母親に首を切られて絶命。母親は縊死。つまり首を括った訳だが、首に紐を巻き自分の手で絞めて縊死する場合があり、この場合もこれに当たる。そしてその際に体内の夫の性器をちぎり取ったらしい。

 酷い家庭で財布から慧さんが三千円盗ったのが殺し合いのきっかけだったという。

 けれど本当に慧さんは三千円を盗っただけなのか。そんな疑念が幽霊のひとことで僕にまで憑りついていたのである。まさか慧さんも殺し合いの何処かに組み込まれているんじゃないか。本当に切ったのは母親? 縊死で自死なんて実際、難しいんじゃないかな?

 そういうのも全部、慧さん自身は記憶障害で覚えていないのかも知れない――。

 勝手に想像は膨らんだけれど顔に出さないようにするのは簡単だった。学校にいる時と同じ。ただ、慧さんは勘がいいのでリビングに長居は無用だ。お互い二度ずつ水を飲むとキャップを閉め、僕は冷蔵庫に仕舞いに行って、そのままリビングを通過する。

「おやすみなさい」
「おー、明日は午後から朝が始まるぞ」
「何、言ってるんですか。シジミも買っていませんからね」

 いつもの会話に安堵したものの、年単位でしか出なかったという幽霊氏と、僕は連休中の真夜中に連続で語り合うことになったのである。

 それだけなら構わなかった。

 幽霊の悠さんと会っているのが慧さんにバレたのだ。
 洗いざらい話した内容を吐かされた挙げ句、追及されて僕は抱いていた疑念までしぶしぶ口にするしか無くなった。

「幽霊は何も出来んとタカを括りすぎたなあ、やってくれる」
「……すみません」
「まあ、仕方ないでしょうよ。それだけ仄めかされたら誘導されますって」

「でも、事件は捜査済みで鑑識だって……すみません」
「闇雲に謝ると侮られるから止した方がいいぞ。それより幽霊親父と寝たか?」
「えっ……は? いいえ。……あっ、慧さん!」

 鋭い大音響が響いた。

 慧さんはまた窓ガラスを殴り割っただけでなく、黙って部屋から出て行った。暫くして聞き慣れた旧いランクルのエンジン音がして、それも遠ざかる。
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