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アリアドネの糸は縺れて切れて
第32話
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本当の職員会議らしく欠けた教員の顔は覚えている限り無かった。そこに呼ばれた僕は教頭先生の席の隣に立たされたまま、重々しい口調の校長に訊かれたのだ。
「水谷透君。一連の事件……と言えば分かると思うが、君自身の口からも一通り説明して欲しい」
「……えっと、僕の家庭の事情はご存知――」
「なんだなんだ、警察でも放免、法的に完全無罪の少年を吊し上げですか。やだねえ」
「拝島先生。意見を述べたければキチンと――」
「キチンと言ってますよ、黙ったまま顔色だの視線のやり取りだので事なかれを貫くよりは」
「では、そうまで仰るなら水谷の前に拝島先生の方から御説明を戴きましょうか。それでいいですね?」
「構いませんとも」
そうして拝島慧先生は職員全員の前で『水谷透があらゆる家庭内DVを受けていたこと』『金銭的にも困窮していたが、母親の男に全て盗られていたこと』『揉めた挙げ句に水谷透と母親の男は両者とも怪我を負ったこと』『母親が男に着いたため、元々気にかけていた自分・拝島が水谷を一時的に預かったこと』を話した。
僕が予想したような嘘は混じっていなかった。本当のことだから当然かも知れないけれど、怪しく思える箇所は無かったようで、居並ぶ教師たちの中には僕に同情めいた視線を向けている者もいた。
だが聞き終えた教頭は同情どころか薄く嗤いながら慧さんに訊いた。
「しかしだね、噂では拝島先生と水谷は遠縁だと……そこはどうなのかね?」
「遠縁なんかじゃないですがね。自分以外にあの場をスピーディーに収めて水谷を護ってやれる人間は他にいなかったんだが、それじゃあ可笑しいんですか?」
「可笑しいでしょう? 他人の学生一人、猫の仔じゃないんですから。何故そこで拝島先生が出しゃばらなきゃならなかったんですか?」
「出しゃばる、ねえ。……そうしなきゃ、この水谷透のプライドが、メンタルが砕け散っていたかも知れん。人間ってなあ、堕ちるなら何処までだって堕ちる。テメェでケツの下の土を、爪の剥がれた指で掻いて掻いて穴はもっと深く暗くなるんだ。そうなると這い上がれる奴は限られてくる」
「は……? 何を?」
「人間、苦労なんてもんはしないで済めば、それに越したことは無いということですよ」
そこからも教頭とのやり取りで意外なまでに慧さんは良く喋り、藤村弁護士とはまた違った話法でその場を納得したような気分にさせてしまったのだった。勿論、全てに於いての書類に不備は無く、法的根拠も伴っていると校長・教頭には繰り返し刷り込んでいた。教育委員会の方は藤村弁護士が手続きを済ませているらしい。
ずっと立たされたままだった僕は散会して振り向き、もう19時過ぎだと知って少々驚く。
もっと驚いたのは慧さんがあれだけ喋ったことと、端々にいつものシニカルさが垣間見えていたものの、これまでになく真面目に『水谷透を拝島慧が預かり監督する』ため、言葉を尽くして他の教員たちを説得していたように思えた事実だった。
全員が捌けた会議室で慧さんがやってくると、まだ立ち尽くしている僕の背をパシンと叩く。それだけで僕はふらついて会議用の折り畳み机に両手をついた。その机は乾いていたが、眺めていると雫が垂れそうで……垂れても構わなかったけれど。
「だから、美少女でもあるまいし、ベソベソされてもなあ。全然そそられんぞ」
「護られるのに、慣れて、ないん、です」
「俺がお前さんを護ったって?」
「言ったじゃないですか?」
「まんま、受け取るんじゃありませんよ。俺が護ったのは俺の生活だ」
「それでも、いいん、です……僕が、望んでいるのも、同じ、ですから」
本心から出た科白だったし、それが勘違いだなんて欠片だって疑いもしなかった。お蔭で暫く沈黙が続いたのは、僕が泣き止むのを待ってくれていて、いつも通りに旧いランクルに同乗して帰る、それだけだと思い込んでいた。
ううん、この時点では勘違いなんかじゃなかったと思いたい。そう信じたかった。
だが。
「ほう……俺の居場所がお前さんと同じだとでも思っているのかい?」
やけに低い声で訊かれて顔を上げ、慌ててポケットからティッシュを出して目と洟を拭く。
そうして確保した視界には、今まで見たことのない人物がいた。
いや、拝島慧には違いない。姿は同じ。でも表情が、醸す雰囲気が全く違った。
怖い、危ない。この人物は危険だ。頭の中でコーションが鳴る。
でも出口側は塞がれて逃げられない。……逃げなきゃならない、だめだ――!
「慧、さん?」
「悠だよ、悠然の悠。初めてだな、お前」
「悠さん……は、慧さんの……別人格ですか?」
いい処を突いていたらしく『悠』と名乗った慧さんの身体は、さも可笑しそうに笑い出した。
「人格なあ……死人に人格があるのか?」
「死人……?」
「ああ、そうさ。俺はな、こいつの母親にハメてる間に包丁で首を切られて死んだんだ。同時に縊り殺してやったがな。そうしたらよう、こいつの母親は俺のイチモツを下の口で食いちぎりやがった! は、はっはっは――」
自分の事はさておいて、本物の殺人者と相対している怖さ、その身体が慧さんという事実、慧さん自身は解離性同一性障害を自分が患っていると知っているのか、もしかして慧さんが不能なのはこの『悠』の体験からじゃないのか、それから――。
山ほど疑問は湧いたが一番の問題は、自分がいつまで『悠』なる人物と付き合い、いつ慧さんが戻ってくるのかということだ。誰かを呼びに行って……だめだ。メンタルに問題ありと見做されたら自分は引き離される。
そのときポケットで携帯が振動し、飛び上がるほど驚いた。だが目前の悠氏からは怖くて視線を外せない。
しかし最短で振動が止まってみれば、目前にいた白衣男は大あくびしていた。
「ふあーあ。長かったですねえ。荷物は化学科職員室か。一本吸って帰りますか」
「……慧さん、ですよね?」
「そうだが。――あー、もしかして幽霊が出ちまったか? はあーっ、くそう」
「水谷透君。一連の事件……と言えば分かると思うが、君自身の口からも一通り説明して欲しい」
「……えっと、僕の家庭の事情はご存知――」
「なんだなんだ、警察でも放免、法的に完全無罪の少年を吊し上げですか。やだねえ」
「拝島先生。意見を述べたければキチンと――」
「キチンと言ってますよ、黙ったまま顔色だの視線のやり取りだので事なかれを貫くよりは」
「では、そうまで仰るなら水谷の前に拝島先生の方から御説明を戴きましょうか。それでいいですね?」
「構いませんとも」
そうして拝島慧先生は職員全員の前で『水谷透があらゆる家庭内DVを受けていたこと』『金銭的にも困窮していたが、母親の男に全て盗られていたこと』『揉めた挙げ句に水谷透と母親の男は両者とも怪我を負ったこと』『母親が男に着いたため、元々気にかけていた自分・拝島が水谷を一時的に預かったこと』を話した。
僕が予想したような嘘は混じっていなかった。本当のことだから当然かも知れないけれど、怪しく思える箇所は無かったようで、居並ぶ教師たちの中には僕に同情めいた視線を向けている者もいた。
だが聞き終えた教頭は同情どころか薄く嗤いながら慧さんに訊いた。
「しかしだね、噂では拝島先生と水谷は遠縁だと……そこはどうなのかね?」
「遠縁なんかじゃないですがね。自分以外にあの場をスピーディーに収めて水谷を護ってやれる人間は他にいなかったんだが、それじゃあ可笑しいんですか?」
「可笑しいでしょう? 他人の学生一人、猫の仔じゃないんですから。何故そこで拝島先生が出しゃばらなきゃならなかったんですか?」
「出しゃばる、ねえ。……そうしなきゃ、この水谷透のプライドが、メンタルが砕け散っていたかも知れん。人間ってなあ、堕ちるなら何処までだって堕ちる。テメェでケツの下の土を、爪の剥がれた指で掻いて掻いて穴はもっと深く暗くなるんだ。そうなると這い上がれる奴は限られてくる」
「は……? 何を?」
「人間、苦労なんてもんはしないで済めば、それに越したことは無いということですよ」
そこからも教頭とのやり取りで意外なまでに慧さんは良く喋り、藤村弁護士とはまた違った話法でその場を納得したような気分にさせてしまったのだった。勿論、全てに於いての書類に不備は無く、法的根拠も伴っていると校長・教頭には繰り返し刷り込んでいた。教育委員会の方は藤村弁護士が手続きを済ませているらしい。
ずっと立たされたままだった僕は散会して振り向き、もう19時過ぎだと知って少々驚く。
もっと驚いたのは慧さんがあれだけ喋ったことと、端々にいつものシニカルさが垣間見えていたものの、これまでになく真面目に『水谷透を拝島慧が預かり監督する』ため、言葉を尽くして他の教員たちを説得していたように思えた事実だった。
全員が捌けた会議室で慧さんがやってくると、まだ立ち尽くしている僕の背をパシンと叩く。それだけで僕はふらついて会議用の折り畳み机に両手をついた。その机は乾いていたが、眺めていると雫が垂れそうで……垂れても構わなかったけれど。
「だから、美少女でもあるまいし、ベソベソされてもなあ。全然そそられんぞ」
「護られるのに、慣れて、ないん、です」
「俺がお前さんを護ったって?」
「言ったじゃないですか?」
「まんま、受け取るんじゃありませんよ。俺が護ったのは俺の生活だ」
「それでも、いいん、です……僕が、望んでいるのも、同じ、ですから」
本心から出た科白だったし、それが勘違いだなんて欠片だって疑いもしなかった。お蔭で暫く沈黙が続いたのは、僕が泣き止むのを待ってくれていて、いつも通りに旧いランクルに同乗して帰る、それだけだと思い込んでいた。
ううん、この時点では勘違いなんかじゃなかったと思いたい。そう信じたかった。
だが。
「ほう……俺の居場所がお前さんと同じだとでも思っているのかい?」
やけに低い声で訊かれて顔を上げ、慌ててポケットからティッシュを出して目と洟を拭く。
そうして確保した視界には、今まで見たことのない人物がいた。
いや、拝島慧には違いない。姿は同じ。でも表情が、醸す雰囲気が全く違った。
怖い、危ない。この人物は危険だ。頭の中でコーションが鳴る。
でも出口側は塞がれて逃げられない。……逃げなきゃならない、だめだ――!
「慧、さん?」
「悠だよ、悠然の悠。初めてだな、お前」
「悠さん……は、慧さんの……別人格ですか?」
いい処を突いていたらしく『悠』と名乗った慧さんの身体は、さも可笑しそうに笑い出した。
「人格なあ……死人に人格があるのか?」
「死人……?」
「ああ、そうさ。俺はな、こいつの母親にハメてる間に包丁で首を切られて死んだんだ。同時に縊り殺してやったがな。そうしたらよう、こいつの母親は俺のイチモツを下の口で食いちぎりやがった! は、はっはっは――」
自分の事はさておいて、本物の殺人者と相対している怖さ、その身体が慧さんという事実、慧さん自身は解離性同一性障害を自分が患っていると知っているのか、もしかして慧さんが不能なのはこの『悠』の体験からじゃないのか、それから――。
山ほど疑問は湧いたが一番の問題は、自分がいつまで『悠』なる人物と付き合い、いつ慧さんが戻ってくるのかということだ。誰かを呼びに行って……だめだ。メンタルに問題ありと見做されたら自分は引き離される。
そのときポケットで携帯が振動し、飛び上がるほど驚いた。だが目前の悠氏からは怖くて視線を外せない。
しかし最短で振動が止まってみれば、目前にいた白衣男は大あくびしていた。
「ふあーあ。長かったですねえ。荷物は化学科職員室か。一本吸って帰りますか」
「……慧さん、ですよね?」
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