不自由ない檻

志賀雅基

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感情の通過儀礼と摘まんだ錘

第26話

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「あのねえ、わざわざ『親になろう』って奴が里親なんですよ、お母さん。俺はあんたの息子の親に立候補したんだ。そしてカネも責任も含めて俺は水谷透の親として公に認められた」
「そう、もの好きね」

「理由は人それぞれですがね。何にしろ、こんなカネで親のツラされたくねぇんだよ、俺は」
「じゃあ『ありがとうございます、貴方は頭を割られないように気を付けて下さい』で、いいかしら?」
「まあ、そっちの方が幾分かマシだあね」
「……用が済んだなら帰って貰えるかしら。五月蠅いとこの人が起きてしまうから」

 おい、起きるのか? と、僕ら三人は顔を見合わせつつも、男が起きた時に『一番綺麗な自分を見せるために着飾り化粧をしている女』の脂粉と香水の香りが満ちた病室から出た。

 一応この先、母親が自宅に帰ってそのまま暮らすなら僕の在りようも変わるということで、ナースステーションに寄って男の容態を聞いた。
 看護師たちは男のことを『美人の奥さんの旦那』と呼んでいた。

「ときどき目は開けますが見えているかどうかは疑問です。ただ手を握ると握り返す程度の反射はあるので脳死とは違います。しかし回復が見込めるかといえば、お気の毒ですが……」
「そうですか。何か変化があったらこちらに連絡を頂戴できますでしょうか?」

 丁寧に言いながら藤村弁護士は自分の名刺と重ねて白封筒を看護師に渡す。封筒には走り書きのように『心付』と書いてあった。慣れているのか看護師は封筒ごと名刺を抵抗なく受け取った。

 こういうカネも含めて僕を殺人未遂犯にしないために、いったいどのくらいの額が動いたのだろう。
 そんなことを考えながら母親とも喋らなかった僕の喉は、もう二度と声が出ないんじゃないかと思う程に硬く強張っていた。自分の心音を聴くような思考に沈みかけた時に、それが耳に飛び込んできた。

「……そうそう、あの美人さん。旦那が目を開けるたびに『起きてわたしを見たのよ!』って大騒ぎでナースコールの連打よ、ウザいったら」
「いいんじゃないの? 付き添いの分、あたしたちの仕事も減るんだし」
「それもそっか。ま、旦那は一生ベジタブルで、化粧お化けもいつまで保つやら」
「あはは、賭ける?」

 看護師たちの他愛ないお喋り。悪意の有無など考えもしない、ただの憂さ晴らし。
 そんな中で語られた隠語か何か知らないけれど……『ベジタブル』。

 僕は、人間を人間じゃなく野菜にした。

 植物人間。ベジタブル。ものも言えない、自ら動けない、ただ時間が経てば萎んだり腐ったりするから世話をしてやらなくちゃならない、野菜。

 頭を殴りつけて血や白っぽい何かや、金属にくっついた血塗れの髪の毛などを目にしたときよりも、この『ベジタブル』という看護師たちの隠語が僕の心拍数を上げさせた。

 ――きっと刻み込まれるべくして、この言葉を聞いたのだ。

 顔色まで変わっていたのか、慧さんが殊更無造作に声をかけてくる。

「おい、透、帰るぞ。で、今日は何を食いましょうかねえ?」
「さあ……ヴィーガンの反対って難しそうですよね」
「ああん? お前さん、焼き肉屋に毎日通い詰める気かい?」
「冗談です。出る前にトイレに行ってきます」
「おー、エレベーターの前にいるからな」

 待たせているので急いでトイレで吐いた。
 吐いたら涙が出て、これでも男のために泣いたことになるのかなと思った。
 こうして吐いて気持ちを切り替えて、僕は明日からまた普通の高校生に戻るのだろう。今までと違うのは慧さんのうちで寝起きする点だけ。

 そういや慧さんは僕のプライドを買ったんだっけ。
 じゃあ今まで以上の何かを求められるのかな。慧さんを見ていると、僕に何かを要求しそうにないけれど。
 取り敢えずは家事とか……初心者用の料理雑誌買って? 笑える。ていうか、手作り料理なんて『重たい』のを押し付けるとか、馬鹿じゃないのか。

 とにかくここ数日は出歩いていたから慧さんのうちに住んでいる気はしなかった。
 今晩からきっと僕は自分を持て余すだろうな。夜行性人間のまま街なかをふらついて、それこそ補導でもされたら慧さんに迷惑がかかる。

 迷惑か。とっくに迷惑なんてかけまくってる、慧さんにプライドを買われたのをいいことに。

 やっぱり慧さんは僕で実験しているのだろうか、『取り戻せるかどうか』を。
 なら僕は折れない。折れられない。どうあっても納得した方に進まなくちゃならない。誓ってこれだけは護り抜いて、慧さんに失くしたものを『取り戻して欲しい』。

 僕は自分も含めて誰がどうなろうと大して構ってこなかった。
 嫌なことを何とか回避したら、あとは本でも読んでいれば時間も人との関わりも当たり障りなく過ぎてゆく。

 だけど、僕は、化学科職員室でキスされてから、他の人より慧さんの温度だけ高いような気がしている。サーモグラフィーで赤い感じだ。だから目が、気持ちが、素通りできない。口先だけの戯言なのに、プライドなんて形のないモノを買われたのどうのって、この僕が躍起になってる。傾いたままの天秤だ。

 そのうちもっと温度が上がって白っぽく眩いほどになるのか、それとも一過性の高温は冷めていくのかな。
 面倒かつ迷惑な厄介事に巻き込まれたのはどっちだろう?
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