16 / 44
何より欲したその価値は
第16話
しおりを挟む
文句を言いつつも二人して手を合わせ、ラーメンを啜り始めた。味は可もなく不可もなし。僕は他の事に気を取られ過ぎて味が分からなかったのかも知れないけれど。
食べている間は黙っていたので割と早く食事は済んだ。チャーシューの山は拝島氏が頑張ったが三分の一ほど残ってしまい、だが眺めていて思い出すのにラーメン一杯を食べた自分を僕は褒めたいところだと思う。
拝島氏が煙草を一本吸うと粘らずに立つ。立地のせいか支払った額は少々高い気がした。だが奢りなので財布の残り千三百円ほどを減らさなくていいのは本当に有難い。
店の外に出るまでカウンター奥の黒ずくめ二人はずっと低く喋っていた。
「御馳走様でした」
「おう。だがリピートは無しだなあ、ここは。お前さんもこれから先の晩飯情報は積極的に集めとけよ」
「まさか毎晩……なんてことはないですよね?」
「毎晩は無理かも知れんが、水谷透に金銭的負担を掛けないのが俺の『手段』だからな。ということで、ほら」
渡されたのは一万円札が三枚だった。多すぎることもなく、まず困りもしない額。
途端に拝島先生が笑い出す。心の底から可笑しそうに笑って見ているのは、万券を手にしたまま却って途方に暮れている僕の顔だ。
これをポケットに仕舞ったら僕は夜、何処にいたらいい? 自分の部屋で安穏と眠れるとでも? あの母親の彼氏に蹴り飛ばされ、サンドバッグになって、挙げ句に持ち物を探り回り、有り金を浚えていくのに。
不思議なことに初めてそこで思った。
あれだけ僕はカネがなく、五千円が払えなくて嫌な思いをした。カネが必要だった、どうしても。読書クラブの女部長に支払ってなくなる五千円も、14ゲージのプラチナ・クリッカーリングに払って消えたカネも、どれも必要だった。だけど必要なだけ、無いと困るから稼いでいた。他にも文具や昼食代、定期の更新その他。
そんな、無いと困るカネではなく、右から左に消えてしまう訳でもないのだ、この一万円札三枚は。
これは三万円という価値のあるカネなのだと、僕は今まで手にしてきたどの一万円札とも変わらない三枚のそれを眺めて、初めて本当にカネというものを手にしたかの如く思えたのだ。
この三万円は母親の彼氏なんかに盗られてはならない。
初めて手にした、三万円という『価値がある』と思えたカネ。
手にした僕のプライドが揺らいだのかどうかは自分じゃ分からない。拝島先生の目論見通りになったのかどうか知らない。
ただ僕は渡された一万円札三枚を両手で握ってしゃがみ込み、熱い涙が次々と目から溢れてゆくのも、格好悪く嗚咽を洩らすのも止められなかった。
そのまま動けない僕に合わせて煙草を咥えた拝島氏が向かいにしゃがむ。
「そういう反応ねえ……想定の10倍過剰だわ」
「くっ、う、すみま、せん……僕が恥をかく勇気がないばかりに――」
「そいつが普通なんだ。お前さんは今まで良く護ったよ、プライドをな。自分のだけじゃない、親のプライドもだ」
「どうしたら、返せますか?」
「ああ? 俺は返せなんて言った覚えはないですがねえ」
軽い調子で返されたが僕は分かっていた。僕のプライドが揺らいで崩壊すれば拝島先生の興味は僕から失せる。だからって延々とカネが欲しい訳じゃない。僕がプライドを切り売りせず保ち続けなければ全てが崩壊する博打に僕は乗ったのだ。互いに秘密を知り合った上で圧倒的有利に立っているのは拝島先生である。
そんなことも全て承知していながら僕は『何にも増して価値ある三万円』を手にして感情の暴発を抑えることができなかった。ゲームとしては不利。……それでも。
「じゃあ……有難く使わせて頂きます」
「おー、ちゃんと飯は食えよ」
「はい。それと拝島先生」
「何だ?」
「何かが欲しい時は言って下さい。どんなものでも僕に可能な限り調達しますので」
煙草を踏み潰しながら拝島氏は黒縁眼鏡を外してスーツのポケットに入れ、前髪を掻き下ろし随分と若返った顔に薄い笑いを浮かべる。
「俺はお前さんを下僕にしたいんじゃない。それは分かってくれてるよねえ?」
「ええ。だから――」
「まあ、嫌いじゃないからストーカーしてたんだしねえ、欲しくないっちゃ嘘だよなあ」
「僕は構わないですけど?」
「んー、俺が構うんだわ。逆にプライド揺らぎそうでね」
「――えっ?」
「何でもないですよ。取り敢えずは二人でいる時くらい慧って呼んでくれますかねえ?」
「じゃあ、僕も透で」
「決まりね。それにしたってお前さん、殴られた痕らしいそれ、変色して目立つぞ。近くのホームセンターでも行って湿布と鍵を買いましょうかねえ」
何故ここで鍵なのかと僕は首を傾げる。
「泥棒、いや、強盗がいるなら自室に鍵くらいつけるのは当然でしょうが」
「ああ、内鍵」
それを付けたら付けたで厄介事の元になりそうだとは思ったけれど、せっかくの慧さんの提案を否定はせず、ようやく立ち上がった僕は慧さんと一緒に繁華街を抜け、コインパーキングのランクルに乗り込んだ。
食べている間は黙っていたので割と早く食事は済んだ。チャーシューの山は拝島氏が頑張ったが三分の一ほど残ってしまい、だが眺めていて思い出すのにラーメン一杯を食べた自分を僕は褒めたいところだと思う。
拝島氏が煙草を一本吸うと粘らずに立つ。立地のせいか支払った額は少々高い気がした。だが奢りなので財布の残り千三百円ほどを減らさなくていいのは本当に有難い。
店の外に出るまでカウンター奥の黒ずくめ二人はずっと低く喋っていた。
「御馳走様でした」
「おう。だがリピートは無しだなあ、ここは。お前さんもこれから先の晩飯情報は積極的に集めとけよ」
「まさか毎晩……なんてことはないですよね?」
「毎晩は無理かも知れんが、水谷透に金銭的負担を掛けないのが俺の『手段』だからな。ということで、ほら」
渡されたのは一万円札が三枚だった。多すぎることもなく、まず困りもしない額。
途端に拝島先生が笑い出す。心の底から可笑しそうに笑って見ているのは、万券を手にしたまま却って途方に暮れている僕の顔だ。
これをポケットに仕舞ったら僕は夜、何処にいたらいい? 自分の部屋で安穏と眠れるとでも? あの母親の彼氏に蹴り飛ばされ、サンドバッグになって、挙げ句に持ち物を探り回り、有り金を浚えていくのに。
不思議なことに初めてそこで思った。
あれだけ僕はカネがなく、五千円が払えなくて嫌な思いをした。カネが必要だった、どうしても。読書クラブの女部長に支払ってなくなる五千円も、14ゲージのプラチナ・クリッカーリングに払って消えたカネも、どれも必要だった。だけど必要なだけ、無いと困るから稼いでいた。他にも文具や昼食代、定期の更新その他。
そんな、無いと困るカネではなく、右から左に消えてしまう訳でもないのだ、この一万円札三枚は。
これは三万円という価値のあるカネなのだと、僕は今まで手にしてきたどの一万円札とも変わらない三枚のそれを眺めて、初めて本当にカネというものを手にしたかの如く思えたのだ。
この三万円は母親の彼氏なんかに盗られてはならない。
初めて手にした、三万円という『価値がある』と思えたカネ。
手にした僕のプライドが揺らいだのかどうかは自分じゃ分からない。拝島先生の目論見通りになったのかどうか知らない。
ただ僕は渡された一万円札三枚を両手で握ってしゃがみ込み、熱い涙が次々と目から溢れてゆくのも、格好悪く嗚咽を洩らすのも止められなかった。
そのまま動けない僕に合わせて煙草を咥えた拝島氏が向かいにしゃがむ。
「そういう反応ねえ……想定の10倍過剰だわ」
「くっ、う、すみま、せん……僕が恥をかく勇気がないばかりに――」
「そいつが普通なんだ。お前さんは今まで良く護ったよ、プライドをな。自分のだけじゃない、親のプライドもだ」
「どうしたら、返せますか?」
「ああ? 俺は返せなんて言った覚えはないですがねえ」
軽い調子で返されたが僕は分かっていた。僕のプライドが揺らいで崩壊すれば拝島先生の興味は僕から失せる。だからって延々とカネが欲しい訳じゃない。僕がプライドを切り売りせず保ち続けなければ全てが崩壊する博打に僕は乗ったのだ。互いに秘密を知り合った上で圧倒的有利に立っているのは拝島先生である。
そんなことも全て承知していながら僕は『何にも増して価値ある三万円』を手にして感情の暴発を抑えることができなかった。ゲームとしては不利。……それでも。
「じゃあ……有難く使わせて頂きます」
「おー、ちゃんと飯は食えよ」
「はい。それと拝島先生」
「何だ?」
「何かが欲しい時は言って下さい。どんなものでも僕に可能な限り調達しますので」
煙草を踏み潰しながら拝島氏は黒縁眼鏡を外してスーツのポケットに入れ、前髪を掻き下ろし随分と若返った顔に薄い笑いを浮かべる。
「俺はお前さんを下僕にしたいんじゃない。それは分かってくれてるよねえ?」
「ええ。だから――」
「まあ、嫌いじゃないからストーカーしてたんだしねえ、欲しくないっちゃ嘘だよなあ」
「僕は構わないですけど?」
「んー、俺が構うんだわ。逆にプライド揺らぎそうでね」
「――えっ?」
「何でもないですよ。取り敢えずは二人でいる時くらい慧って呼んでくれますかねえ?」
「じゃあ、僕も透で」
「決まりね。それにしたってお前さん、殴られた痕らしいそれ、変色して目立つぞ。近くのホームセンターでも行って湿布と鍵を買いましょうかねえ」
何故ここで鍵なのかと僕は首を傾げる。
「泥棒、いや、強盗がいるなら自室に鍵くらいつけるのは当然でしょうが」
「ああ、内鍵」
それを付けたら付けたで厄介事の元になりそうだとは思ったけれど、せっかくの慧さんの提案を否定はせず、ようやく立ち上がった僕は慧さんと一緒に繁華街を抜け、コインパーキングのランクルに乗り込んだ。
2
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
フラレたばかりのダメヒロインを応援したら修羅場が発生してしまった件
遊馬友仁
青春
校内ぼっちの立花宗重は、クラス委員の上坂部葉月が幼馴染にフラれる場面を目撃してしまう。さらに、葉月の恋敵である転校生・名和リッカの思惑を知った宗重は、葉月に想いを諦めるな、と助言し、叔母のワカ姉やクラスメートの大島睦月たちの協力を得ながら、葉月と幼馴染との仲を取りもつべく行動しはじめる。
一方、宗重と葉月の行動に気付いたリッカは、「私から彼を奪えるもの奪ってみれば?」と、挑発してきた!
宗重の前では、態度を豹変させる転校生の真意は、はたして―――!?
※本作は、2024年に投稿した『負けヒロインに花束を』を大幅にリニューアルした作品です。
【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》
小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です
◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ
◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます!
◆クレジット表記は任意です
※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください
【ご利用にあたっての注意事項】
⭕️OK
・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用
※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可
✖️禁止事項
・二次配布
・自作発言
・大幅なセリフ改変
・こちらの台本を使用したボイスデータの販売

未冠の大器のやり直し
Jaja
青春
中学2年の時に受けた死球のせいで、左手の繊細な感覚がなくなってしまった、主人公。
三振を奪った時のゾクゾクする様な征服感が好きで野球をやっていただけに、未練を残しつつも野球を辞めてダラダラと過ごし30代も後半になった頃に交通事故で死んでしまう。
そして死後の世界で出会ったのは…
これは将来を期待されながらも、怪我で選手生命を絶たれてしまった男のやり直し野球道。
※この作品はカクヨム様にも更新しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
土俵の華〜女子相撲譚〜
葉月空
青春
土俵の華は女子相撲を題材にした青春群像劇です。
相撲が好きな美月が女子大相撲の横綱になるまでの物語
でも美月は体が弱く母親には相撲を辞める様に言われるが美月は母の反対を押し切ってまで相撲を続けてる。何故、彼女は母親の意見を押し切ってまで相撲も続けるのか
そして、美月は横綱になれるのか?
ご意見や感想もお待ちしております。

切り札の男
古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。
ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。
理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。
そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。
その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。
彼はその挑発に乗ってしまうが……
小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。
僕は 彼女の彼氏のはずなんだ
すんのはじめ
青春
昔、つぶれていった父のレストランを復活させるために その娘は
僕等4人の仲好しグループは同じ小学校を出て、中学校も同じで、地域では有名な進学高校を目指していた。中でも、中道美鈴には特別な想いがあったが、中学を卒業する時、彼女の消息が突然消えてしまった。僕は、彼女のことを忘れることが出来なくて、大学3年になって、ようやく探し出せた。それからの彼女は、高校進学を犠牲にしてまでも、昔、つぶされた様な形になった父のレストランを復活させるため、その思いを秘め、色々と奮闘してゆく
ヤマネ姫の幸福論
ふくろう
青春
秋の長野行き中央本線、特急あずさの座席に座る一組の男女。
一見、恋人同士に見えるが、これが最初で最後の二人の旅行になるかもしれない。
彼らは霧ヶ峰高原に、「森の妖精」と呼ばれる小動物の棲み家を訪ね、夢のように楽しい二日間を過ごす。
しかし、運命の時は、刻一刻と迫っていた。
主人公達の恋の行方、霧ヶ峰の生き物のお話に添えて、世界中で愛されてきた好編「幸福論」を交え、お読みいただける方に、少しでも清々しく、優しい気持ちになっていただけますよう、精一杯、書いてます!
どうぞ、よろしくお願いいたします!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる