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南極ではペンギンにさわれない
第33話
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苦々しく溜息と悪態をついた慧さんは、化学科職員室を経由して駐車場のランクルの運転席に収まるまで終始無言だった。過去に浸っているというよりも、僕にどうやって説明すれば納得いかせることができるだろう、それを考え続けている風だった。
エンジンキィを回していつもより少し荒っぽく思えるクラッチワークで発車させるなり、慧さんは口を開く。
「心配は要らん。あの幽霊は生きた人間に何も出来ん。そんな根性がありゃあ人生変わってましたって」
「え……でも『幽霊』って、もしかしなくても慧さんのお父さんなんですよね?」
「そうらしいなあ。俺は会ったこともないから、遭った奴の証言からの推定でしかないが」
僕が思ったのは当然ながら、さっきの幽霊がいつ出現するかも知れない慧さんと同じ屋根の下で暮らしていく事への不安。それと、これも当たり前のことだけれど、慧さんも僕に隠しておきたい事のひとつやふたつは持っていたんだという安堵。ひとつやふたつなんて軽々しく言えることじゃないけど不能の件だってそうだ。
そういうのを共に暮らす中で互いに知っていって……どうなるのかは分からないけれど、今よりいい意味で違う形になっていたらいいなと思う。
けれど幽霊は僕にとって問題だ。どうやら慧さんはPTSDからくる症状のひとつで、本人知らずしてひとつの身体に他人格を形成してしまった『解離性同一性障害』を患っている。これは厄介で、本人の認知なく別人格が勝手な行動に出たりする。……これも浅く広い知識でしかないけれど。
問題なのは本人以外の『別人格』が『一人に限らないこと』。『他人格が暴力的だったりもすること』や『他人格が植物や動物、果ては空気という場合もある』らしいのだ。
それはともかく僕にとって包丁とロープで殺し合った人が、いつ出現するか知れないのは、なかなかにスリリングな生活になると思う。
何だって慧さんはそんな重大事を先に伝えてくれなかったのか……ああ、そうか。表沙汰になったら僕を週末養子縁組に迎える話にも難が出る。
きっと慧さんの事だからPTSDや、その症状の『解離性同一性障害』等に関しては、上手くそれなりの病院に罹っているのだろう。そして思いも寄らなかったために僕は訊かずにいて、慧さんは嘘を吐かなかった。
僕はそれでいい。
でも包丁にロープなんて、おちおち寝ていられるのか。
「本当に心配要らんよ。あの幽霊は『人なんて殺せない』」
「……は? だって殺し合い――」
「確かに幽霊たる親父は自分の嫁さんに無理矢理ハメた。お蔭で嫁さんに切られ喰いちぎられて死んだ」
「でしたよね……」
「でもな、本当は母親は生きてた。自分で自分の首を絞めて死ぬのを俺は見てたよ」
「縊死で自死……読んだことはあります」
「幽霊親父は人殺しの才能もなかったんですよ」
「そんな才能、無い方がいいじゃないですか。普通に考えて、殺したくなかった、それじゃダメなんですか?」
言うなり慧さんは、さも面白そうに笑い出した。目尻の涙まで拭っている。
「ペドフィリアで自分の息子が物心つく前から『お愉しみ』だったんですよ? 目クソ鼻クソを嗤う、ですよ」
言われて唐突に僕の体内にも野菜男の感触と鋭い嫌悪が蘇って納得。
「けど……僕は後ろからロープで絞められるのも、包丁で首切られるのも勘弁なんですが……」
「ウチにロープらしきモノはないだろう?」
「包丁やペティナイフはありますよ?」
「だから『幽霊はそれで殺された』イコール『幽霊は刃物で人は殺さない』」
どう考えたって詭弁としか思えない。
ただ……どんな慧さんの『他人格』が出現しようと、僕は相対していけるような気がする。甘いのかな?
「その、解離人格は『幽霊』さんだけですか?」
「近しい人間が認知しているのは幽霊だけらしい」
「幽霊の間、慧さんは?」
「ごく短時間だが……記憶は飛ぶ。だが誰にも物理的危害を加えたことは無い。それで助かってる」
エンジンキィを回していつもより少し荒っぽく思えるクラッチワークで発車させるなり、慧さんは口を開く。
「心配は要らん。あの幽霊は生きた人間に何も出来ん。そんな根性がありゃあ人生変わってましたって」
「え……でも『幽霊』って、もしかしなくても慧さんのお父さんなんですよね?」
「そうらしいなあ。俺は会ったこともないから、遭った奴の証言からの推定でしかないが」
僕が思ったのは当然ながら、さっきの幽霊がいつ出現するかも知れない慧さんと同じ屋根の下で暮らしていく事への不安。それと、これも当たり前のことだけれど、慧さんも僕に隠しておきたい事のひとつやふたつは持っていたんだという安堵。ひとつやふたつなんて軽々しく言えることじゃないけど不能の件だってそうだ。
そういうのを共に暮らす中で互いに知っていって……どうなるのかは分からないけれど、今よりいい意味で違う形になっていたらいいなと思う。
けれど幽霊は僕にとって問題だ。どうやら慧さんはPTSDからくる症状のひとつで、本人知らずしてひとつの身体に他人格を形成してしまった『解離性同一性障害』を患っている。これは厄介で、本人の認知なく別人格が勝手な行動に出たりする。……これも浅く広い知識でしかないけれど。
問題なのは本人以外の『別人格』が『一人に限らないこと』。『他人格が暴力的だったりもすること』や『他人格が植物や動物、果ては空気という場合もある』らしいのだ。
それはともかく僕にとって包丁とロープで殺し合った人が、いつ出現するか知れないのは、なかなかにスリリングな生活になると思う。
何だって慧さんはそんな重大事を先に伝えてくれなかったのか……ああ、そうか。表沙汰になったら僕を週末養子縁組に迎える話にも難が出る。
きっと慧さんの事だからPTSDや、その症状の『解離性同一性障害』等に関しては、上手くそれなりの病院に罹っているのだろう。そして思いも寄らなかったために僕は訊かずにいて、慧さんは嘘を吐かなかった。
僕はそれでいい。
でも包丁にロープなんて、おちおち寝ていられるのか。
「本当に心配要らんよ。あの幽霊は『人なんて殺せない』」
「……は? だって殺し合い――」
「確かに幽霊たる親父は自分の嫁さんに無理矢理ハメた。お蔭で嫁さんに切られ喰いちぎられて死んだ」
「でしたよね……」
「でもな、本当は母親は生きてた。自分で自分の首を絞めて死ぬのを俺は見てたよ」
「縊死で自死……読んだことはあります」
「幽霊親父は人殺しの才能もなかったんですよ」
「そんな才能、無い方がいいじゃないですか。普通に考えて、殺したくなかった、それじゃダメなんですか?」
言うなり慧さんは、さも面白そうに笑い出した。目尻の涙まで拭っている。
「ペドフィリアで自分の息子が物心つく前から『お愉しみ』だったんですよ? 目クソ鼻クソを嗤う、ですよ」
言われて唐突に僕の体内にも野菜男の感触と鋭い嫌悪が蘇って納得。
「けど……僕は後ろからロープで絞められるのも、包丁で首切られるのも勘弁なんですが……」
「ウチにロープらしきモノはないだろう?」
「包丁やペティナイフはありますよ?」
「だから『幽霊はそれで殺された』イコール『幽霊は刃物で人は殺さない』」
どう考えたって詭弁としか思えない。
ただ……どんな慧さんの『他人格』が出現しようと、僕は相対していけるような気がする。甘いのかな?
「その、解離人格は『幽霊』さんだけですか?」
「近しい人間が認知しているのは幽霊だけらしい」
「幽霊の間、慧さんは?」
「ごく短時間だが……記憶は飛ぶ。だが誰にも物理的危害を加えたことは無い。それで助かってる」
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