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ヘモグロビン、OかCOか
第29話
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言うだけ言って慧さんは受け取ったプリントに目を通し始め、何をどう考え捉えれば良いのかサッパリ分からなくなった僕は、以前に横になったボロいソファに腰かけて、投げられた缶コーヒーをチビチビと減らしていた。甘すぎない微糖のコーヒーはぬるくなっていたけれど、今の僕には他に何もできることなんてなかったから。
意外と早くプリントのチェックが終わったらしく、慧さんはわざわざ離れた所に座った僕に紙束を掴んで突き出した。デスクで揃えるくらい自分でやった方が楽なのに。煙草を吸いたい訳でもないだろう、チェックしながら咥え煙草だったんだし。
仕方なく僕はロウテーブルに空き缶を置き、そこでプリントの角を揃えて気付く。席順に並んでいない。そういうことかと溜息ひとつ、ロウテーブル上を正月の百人一首大会の如く埋めて何とかクラスの席順に並べ直し揃えた。
慧さんは相変わらず椅子が金属疲労でいつか折れるだろう凭れ方で、胸に上にアルミの灰皿を置いている。立って行って紙束を黒縁眼鏡の前で振った。
「おー、透よ。お前さんがクラスの席順なんぞ覚えているとは意外だな。感心感心」
「だってまだ席替えしてませんから。五十音順ですよ」
「何だ、褒めて損したなあ。損失分の埋め合わせに何してくれるんだ?」
「また訳の分からないことを……『感心感心』の埋め合わせなら『慧さん色男』。はい、いいですよね」
慧さんは「ああ、ああ、色気のないこって」などと愚痴りながらも帰る用意をし始めた。あっていいのか分からない一斗缶に灰皿の中身を捨て、窓の戸締りを点検すると、あのプリントをクリップで留めて引き出しに突っ込み鍵をかける。合わせて僕も学生鞄代わりのスポーツバッグと、いつも手放さない小ぶりのショルダーバッグを持って待機した。
鍵の掛かったドアを開ける前に慧さんはまた僕に、頭の後ろの方が白熱するようなキスを仕掛ける。膝が萎えて座り込みそうなほどのテクニックを披露しながら、僕の腰を支えて抱き締めるような格好で耳元に囁いた。
「分かっただろう。俺が色男ぶりを発揮したって、困るのはおまえさんじゃない。俺自身だぞ」
「……すみ、ま、せん。でも――」
「何だ?」
「僕の前でだけでも、その『変装』というか『鎧?』『ガード?』、ええと、バリアを脱げませんか?」
意味が通じるかどうかすら怪しい僕の言葉に慧さんは「ふん」と鼻を鳴らし、煙草を咥えて火を点けた。盛大に紫煙を吐く。ほんのちょっとした表情や雰囲気で僕は慧さんの機嫌が大抵分かるようになっていた。きっと、ここ数日間とはいえ、それだけ慧さんを意識して僕はずっと見ていたからだ。
今は急転直下、酷く機嫌を害したらしいのが察せられて、僕は『助けて貰わなければ何もできず、今頃は警察署に居た筈の子供』の立場だったことを思い出し、自分は何を言ってるんだろうと悔いた。恥ずかしくて俯き、慧さんの顔も見られなくなる。どれだけ馬鹿な子供なんだろう、僕は。
二人して黙ったままドアに鍵をかけ、廊下と階段を辿り駐車場の旧式ランクルに着いた。運転席と助手席に乗る。目立たないよう僕は後部座席に乗ると初めは言い張ったけれど、
『バレて拙い関係じゃあないんですがねえ……気持ちは分かるが時間の問題だ、前に乗れ』
などと言われて確かに尤もだと降参した僕は助手席が定位置になっている。直ぐにエンジンをかけて慧さんは学校の裏門から出た。晩御飯を何処で食するのかいつも通り迷っているような、慧さん自身が持て余している不機嫌の捨て場所を探しているみたいな、はっきりした目的地の無い運転っぽい。
とんでもなく慧さんを馬鹿にした発言を撤回し謝りたかったけれど、それこそバリアで弾き返されそうな気がして僕は黙っている他ない。
これで呆れられて里親その他の、僕の為に奔走してくれた結果を覆されるとは欠片も思っていなかったけれど、それは『法で縛っている』安心感じゃなくて、どれだけ気まずい思いをしようが、同居人として喧嘩をしようが、僕のプライドを買った慧さんは僕を放り出す程、未だ飽きていないという僕の勝手な推測にしか過ぎない。
でも、その推測は間違いじゃなく、確信に近かった。
だって誰が何の意味もなくストーカーなんてする?
慧さんは自分のプライドに踏み込まれて不機嫌になった。
僕以外の他人が同じことを言っても、ここまで感情を露わにするタイプの人じゃないし。きっとヘラリと笑ってジョークのひとつでも吐き誤魔化すだけだろう。
溜息を吐きそうになって僕は呑み込む。最初から分かってたのに僕は僕の事情で精一杯どころか溢れてしまい、慧さんの助けで今、こうしている。
助け……契約した相手を失くさないように、水谷透を自分の手から引き離されないために、慧さんはあらゆる先手を打ちカネをバラ撒いて僕を護った。
僕から出した条件は嘘をつかない約束。慧さんからは『演技だと悟らせない』こと。
逆に云えば僕は『慧さんがストーカーしていた水谷透』を演じ続けなきゃならないのかな?
違う、幾ら何でもそんなの無理。慧さんだって分かってる筈。だけど僕は慧さんに『素の慧さんを見せて欲しい』イコール『仮面を剥がせ』と言ったも同然で、それは演技や嘘を吐かないとかいう契約の条件とはまるでベクトルの違う要求であり、僕の好奇心から出た言葉であり、きっと今までの慧さんが恃みにしてきたプライドを丸裸にして見てみたいと僕は何のためらいもなく口にしてしまったのだ。
どんな生まれ育ちをし、酷い仕打ちを受け、身体と心に消えない瑕を負っても、今、生きているのならドン底に居たって恃みになる何かを持っているんじゃないかと思う。そうして自分を捨てない理由を持ち続けていれば、どれだけ折られようと何度でも芽吹く。そういう人がサヴァイバーと呼ばれる大人なんじゃないかと僕は思ってる。
慧さんはサヴァイバーだけど、治らない傷跡を隠さず僕に話したし藤村先生も知っていた。
それって晒すことで他人の興味を満たし、未だ膿んでいる傷を本当は隠している気がする。
実際、両親が殺し合った事実を冗談めかして話し、その原因が慧さんの三千円抜き取りだったとしても、男として不能とまではジョークじゃ通じないだろうし。
その『ジョークじゃ通じない領域』に僕は安易に踏み込もうとした。いつだって軽く、身なりにも殆ど構わず、カネは唸るほど持っているらしいのに、使い方といったら全く以て独身三十男の典型。
かと思えば相当本気でストーカーしていた節もあり、結果としてその相手を手元に置き飼うためなら、おそらく七、八桁のカネを惜しまない。
黙ってそこまで考えたところで、やっと慧さんは一本吸い終えて声を発した。
意外と早くプリントのチェックが終わったらしく、慧さんはわざわざ離れた所に座った僕に紙束を掴んで突き出した。デスクで揃えるくらい自分でやった方が楽なのに。煙草を吸いたい訳でもないだろう、チェックしながら咥え煙草だったんだし。
仕方なく僕はロウテーブルに空き缶を置き、そこでプリントの角を揃えて気付く。席順に並んでいない。そういうことかと溜息ひとつ、ロウテーブル上を正月の百人一首大会の如く埋めて何とかクラスの席順に並べ直し揃えた。
慧さんは相変わらず椅子が金属疲労でいつか折れるだろう凭れ方で、胸に上にアルミの灰皿を置いている。立って行って紙束を黒縁眼鏡の前で振った。
「おー、透よ。お前さんがクラスの席順なんぞ覚えているとは意外だな。感心感心」
「だってまだ席替えしてませんから。五十音順ですよ」
「何だ、褒めて損したなあ。損失分の埋め合わせに何してくれるんだ?」
「また訳の分からないことを……『感心感心』の埋め合わせなら『慧さん色男』。はい、いいですよね」
慧さんは「ああ、ああ、色気のないこって」などと愚痴りながらも帰る用意をし始めた。あっていいのか分からない一斗缶に灰皿の中身を捨て、窓の戸締りを点検すると、あのプリントをクリップで留めて引き出しに突っ込み鍵をかける。合わせて僕も学生鞄代わりのスポーツバッグと、いつも手放さない小ぶりのショルダーバッグを持って待機した。
鍵の掛かったドアを開ける前に慧さんはまた僕に、頭の後ろの方が白熱するようなキスを仕掛ける。膝が萎えて座り込みそうなほどのテクニックを披露しながら、僕の腰を支えて抱き締めるような格好で耳元に囁いた。
「分かっただろう。俺が色男ぶりを発揮したって、困るのはおまえさんじゃない。俺自身だぞ」
「……すみ、ま、せん。でも――」
「何だ?」
「僕の前でだけでも、その『変装』というか『鎧?』『ガード?』、ええと、バリアを脱げませんか?」
意味が通じるかどうかすら怪しい僕の言葉に慧さんは「ふん」と鼻を鳴らし、煙草を咥えて火を点けた。盛大に紫煙を吐く。ほんのちょっとした表情や雰囲気で僕は慧さんの機嫌が大抵分かるようになっていた。きっと、ここ数日間とはいえ、それだけ慧さんを意識して僕はずっと見ていたからだ。
今は急転直下、酷く機嫌を害したらしいのが察せられて、僕は『助けて貰わなければ何もできず、今頃は警察署に居た筈の子供』の立場だったことを思い出し、自分は何を言ってるんだろうと悔いた。恥ずかしくて俯き、慧さんの顔も見られなくなる。どれだけ馬鹿な子供なんだろう、僕は。
二人して黙ったままドアに鍵をかけ、廊下と階段を辿り駐車場の旧式ランクルに着いた。運転席と助手席に乗る。目立たないよう僕は後部座席に乗ると初めは言い張ったけれど、
『バレて拙い関係じゃあないんですがねえ……気持ちは分かるが時間の問題だ、前に乗れ』
などと言われて確かに尤もだと降参した僕は助手席が定位置になっている。直ぐにエンジンをかけて慧さんは学校の裏門から出た。晩御飯を何処で食するのかいつも通り迷っているような、慧さん自身が持て余している不機嫌の捨て場所を探しているみたいな、はっきりした目的地の無い運転っぽい。
とんでもなく慧さんを馬鹿にした発言を撤回し謝りたかったけれど、それこそバリアで弾き返されそうな気がして僕は黙っている他ない。
これで呆れられて里親その他の、僕の為に奔走してくれた結果を覆されるとは欠片も思っていなかったけれど、それは『法で縛っている』安心感じゃなくて、どれだけ気まずい思いをしようが、同居人として喧嘩をしようが、僕のプライドを買った慧さんは僕を放り出す程、未だ飽きていないという僕の勝手な推測にしか過ぎない。
でも、その推測は間違いじゃなく、確信に近かった。
だって誰が何の意味もなくストーカーなんてする?
慧さんは自分のプライドに踏み込まれて不機嫌になった。
僕以外の他人が同じことを言っても、ここまで感情を露わにするタイプの人じゃないし。きっとヘラリと笑ってジョークのひとつでも吐き誤魔化すだけだろう。
溜息を吐きそうになって僕は呑み込む。最初から分かってたのに僕は僕の事情で精一杯どころか溢れてしまい、慧さんの助けで今、こうしている。
助け……契約した相手を失くさないように、水谷透を自分の手から引き離されないために、慧さんはあらゆる先手を打ちカネをバラ撒いて僕を護った。
僕から出した条件は嘘をつかない約束。慧さんからは『演技だと悟らせない』こと。
逆に云えば僕は『慧さんがストーカーしていた水谷透』を演じ続けなきゃならないのかな?
違う、幾ら何でもそんなの無理。慧さんだって分かってる筈。だけど僕は慧さんに『素の慧さんを見せて欲しい』イコール『仮面を剥がせ』と言ったも同然で、それは演技や嘘を吐かないとかいう契約の条件とはまるでベクトルの違う要求であり、僕の好奇心から出た言葉であり、きっと今までの慧さんが恃みにしてきたプライドを丸裸にして見てみたいと僕は何のためらいもなく口にしてしまったのだ。
どんな生まれ育ちをし、酷い仕打ちを受け、身体と心に消えない瑕を負っても、今、生きているのならドン底に居たって恃みになる何かを持っているんじゃないかと思う。そうして自分を捨てない理由を持ち続けていれば、どれだけ折られようと何度でも芽吹く。そういう人がサヴァイバーと呼ばれる大人なんじゃないかと僕は思ってる。
慧さんはサヴァイバーだけど、治らない傷跡を隠さず僕に話したし藤村先生も知っていた。
それって晒すことで他人の興味を満たし、未だ膿んでいる傷を本当は隠している気がする。
実際、両親が殺し合った事実を冗談めかして話し、その原因が慧さんの三千円抜き取りだったとしても、男として不能とまではジョークじゃ通じないだろうし。
その『ジョークじゃ通じない領域』に僕は安易に踏み込もうとした。いつだって軽く、身なりにも殆ど構わず、カネは唸るほど持っているらしいのに、使い方といったら全く以て独身三十男の典型。
かと思えば相当本気でストーカーしていた節もあり、結果としてその相手を手元に置き飼うためなら、おそらく七、八桁のカネを惜しまない。
黙ってそこまで考えたところで、やっと慧さんは一本吸い終えて声を発した。
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