不自由ない檻

志賀雅基

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感情の通過儀礼と摘まんだ錘

第25話 

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 もし最悪ルートを辿っていたら検察から逆送で刑事裁判が決定していた日、僕は今回の件の最後のイヴェントである、病院へ怪我人の見舞いと付き添う母への挨拶に挑むことになった。
 それまで公式・非公式に関わらず、全ての事情聴取等に藤村先生が必ず同伴してくれて、僕自身は殆ど口を噤んだままで済んだくらいだった。

 ともかく見舞いは付け足しで、本当は僕、水谷透が拝島慧氏のお宅に厄介になる、つまりは慧さんの『週末里子』として既に認められた報告がメインだ。
 実際に警察関係者も含めて大人たちは僕を独りにするのを、どうしたって避けたがったし、藤村弁護士と慧さんが児童相談所その他の正式書類を携えた上で僕に頷かせたから、誰もが安堵したらしい。

 そこに『黒い大人の何か』が明らかに作用していると分かっていても、あの男女の刑事さんたちですら表情を晴れやかにしてみせた。

 そこまで僕という存在は今やとんでもなく厄介なモノになっているのだけれど、それは『殺人未遂犯・水谷透』であって、『強制性交の被害者・水谷透』は少年にとって一番良かれと思われる場所に落ち着くことができた。
 それも事件の翌日という、たぶん大人の世界でも大した荒業と思える速さで。

 荷物は本当に一抱えだったからランクルで待っていた慧さんがひとこと洩らしたほどだ。

「お前さん、世の中に執着が無さすぎじゃありませんかね?」
「本当に欲しくなった物は手に入れてきたんですけど」
「ふん。まあいい、乗れ」

 慧さんの自宅は僕の住んでいたマンションから車で四十分くらいかかった。着いてみて僕は少し驚いた。こんなことを言ったら悪いけれど、無精ひげを引き抜いている独身三十男が暮らしているとは思えないほどお洒落な、デザイナーズマンションというヤツだったから。

 本気で驚かせようとしたのか、オートロックの扉から入って乗ったエレベーターは、三基あるうちの一基だけ離れた所にあるもので、階数表示は四階建てなのに五階への直通になっている。

「ほらよ、ここが俺の巣だ。部屋は数ならあるから好きなのを使え。質問は?」
「ええと、ペントハウスっていうんでしたっけ、こういうの」
「そうらしいなあ。晴れてりゃ昼間に外に出て寝っ転がると気持ちいいぞ」
「あ、はあ……」

 結局、慧さんの種明かしに依れば土地・マンション自体が拝島氏の持ち物で、その賃貸収入だけでも暮らしていける身分なのだそうだ。余程、企業に貸した特許が当たりだったのだろう。化学の講師は暇潰しらしい。

「おっと、長話ししてる場合じゃねぇな」
「藤村先生は署の裏口で待っていると」
「荷物は取り敢えずその辺に置いとけ。行くぞ」

 こんな風に慧さんのうちと所轄署を幾度も往復し、その間に僕と慧さんに藤村先生の三人であちこちの定食屋巡りをして腹を満たし、児童相談所だの家庭裁判所だので書類と僕の現状のやり取りをし……やっと落ち着いて最後のイヴェントに漕ぎ着けたのだった。

 病院には里親となる慧さんは勿論、藤村先生も同行してくれた。

 母が付きっ切りの男はICUを出て一般病室に移っていた。何も状態が良くなったのではなく、これ以上の高度な医療を施しても変化が見込めないからという理由らしい。
 敢えて花だの菓子だのも持たず事務的に済ませる作戦をとった。藤村先生が病室のドアをノックして数秒だけ待ち、僕らはぞろぞろと入室した。

 あれから初めて見る母は憔悴していると思いきや全く逆で、僕はある種の女性の怖さを黙って噛み締めた。

 母は夜の店に出るときよりも気合の入った化粧をし、気に入っているブランドのスーツのうちの一着を隙もなく着こなしていたのだ。髪だって、やたらと複雑に結い上げて、上客から貰ったとか自慢していたジュエリー付きのかんざしみたいな棒を挿している。
 そんな母は殆ど唖然としてしまった僕を見返し、赤く塗った口の両端を吊り上げた。わらったのだ。

「透、ごめんなさいね。わたしはあんたを養わなきゃならないのに――」

 更に母は何か続けようとしたけれど、余計なことを言わせて用事が済まなくなると拙いと思ったのだろう、藤村弁護士が僕の処遇について説明した。
 既に拝島慧氏の自宅に僕の身柄は正式に移っていること、週末里親制度ではあるが実際には週末のみでなく、拝島氏が水谷透の保護者として社会的に通用することなどだ。

「むしろ、透くんを一人でご自宅に置くことは警察も了承しません。ネグレクトといい、水谷さん、貴女が透くんという未成年に対し保護責任者遺棄と――」
「――いいわ、分かってるから。では、そちらの拝島さん? 透を宜しくお願いします。当座のお金はこれで」

 言うなり母はベッドの落下防止柵に引っ掛けてあった、これもブランド物のバッグからピン札の万券、それも帯封をしたままだから百万円だろうカネを掴み出し、僕の足元に放り投げた。
 おそらく男の治療費などのために銀行でありったけ下ろしてきた一部だろう。

 言葉にならなかった僕の代わりに慧さんが札束を拾い、母から少し離れたパイプ椅子の座面にポイと置く。
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