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僕なら遺書は残さないけど
第21話
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一日入院を病院の朝食までで終えた僕は、やっぱり見張りの刑事さん二人に付き添われて覆面パトカーに乗せられた。うちに帰るのではなく、そのまま警察署行きと聞いていた。
車の中では例の男女の刑事さんたちに挟まれて後部座席に座っていたけれど、何かを訊かれるでもなく、誰もがひとことも発しないまま殆ど信号に引っ掛かりもせずに、朝の通勤ラッシュが終わった通りを走り抜けて所轄の警察署に着いてしまった。
けれども覆面パトカーから降りて促され、建物の裏口へと歩いて行くと、そこには朗らかな笑みを浮かべた藤村弁護士が使い込んだ革の鞄を提げて待ち受けていた。
「やあ、透君。顔色があまり良くないね。体調が悪いのなら素直に言ってもいいんだからね」
「あ、いえ。大丈夫です。わざわざすみません」
「私はこれが仕事だから気を遣う必要はないよ」
「はあ……」
ずっとくっついている男女の刑事二人といい、この弁護士といい、いったい超過労働をどれだけすれば安眠する気になるのだろう。藤村弁護士はともかくとして、警察官は割に合うのだろうか。年収は悪くないと何かで読んだことはあるけれど、女の刑事さんのすっぴんの顔色はおそらく僕より悪い。
そんなことを考えながら警察署に入る時も藤村弁護士は僕にピタリと歩幅まで合わせてくれる。昨夜、ヒモ男をガツンとやった後に慧さんにメールしたからこそ、今こうして弁護士という強力な楯が僕には就いたのだろうが、何も僕は慧さんに『助けてくれ』と頼んではいない。
《専属の約束を護れませんでした》
そう打って送信しただけだ。
ただ、あの場で僕が冷静にメールなんぞ打っていたと知れるのは、どう考えてもマイナスなので他人の耳目があるうちは、慧さんにも改めて謝ったり弁護士の礼を言ったりはしなかった。
慧さんもそんなことは解っていると目で言っていたように思う。でも僕が弁護士を必要とする事態になったとまで推測し、たぶん少なくはないカネを出してまで藤村弁護士を病院に同行させてくれたのは、有難いけれど何だか上手く嵌められたような気さえしてしまうのは仕方ないだろう。
そんな想像をしている僕が緊張で硬くなっていると思ったのか、藤村弁護士は『自分が同行しているから大丈夫だ』と強調するように弁護士なる付添人の必要性を淡々と説いていた。
「――48時間以内に検察に送致されて透君の不処分、つまり無罪であると決められる。私が保証するよ。これがヨンパチ、ああ、48時間の勝負といっても過言ではなくてね、勾留だって一度されてしまうと解くのは面倒になるんだよ。先手先手を打たないと、きみは被害者なのに加害者のように自分でも思えてくるからね」
長々と喋っているのは僕を安心させるためでもあり、一緒にいる担当刑事さんたちへの挑戦的科白でもあった。
いい加減にうんざりしたのか、女刑事さんが物言いをつける。
「我々は少年のプロと告げた筈です。決して自白を強要したり、粗略な扱いで精神的に追い詰めたりといった前時代的な事はしません。この水谷透くんの将来を一緒に考えるためにも事実を本人から訊く必要がありますし、自宅の方でも捜査を続けさせている訳で――」
「おい、もういい」
止めたのは寡黙な男の刑事だった。階級が上なのかも知れない。女刑事は素直に口を噤む。
そのメンバーで入った部屋は狭かったが、窓からの日差しが明るく観葉植物の葉に載った水滴を照らしていた。おまけに壁紙にも細かなパステル調の模様があって、けれども置いてあるのは事務机とパイプ椅子なる、ちぐはぐな部屋である。シニカルな慧さんなら『イメージの貧困さが浮き彫りですねえ』とでも評しそうだ。
なんてふざけたことを考えている暇はなかったんだった。集中すべきだろう。
事件に直接関係ある事も、まるで関係なさそうな事も、色々訊かれた。途中で何度か藤村弁護士が「ちょっと」と割り込んでは簡単に刑事の質問を撤回させるのには僕も驚いた。
合格率からしてみれば人生の何割もの時間を無駄にすると聞くのに、司法試験に挑む人間が絶えない理由が少し分かった気分だった。
二時間ほど経った頃、聴取を切り上げさせたのも藤村弁護士からだった。
「医師に依ると貧血も慢性的なものだろうとの診断です。依頼人を再度入院させるのは互いに不利益でしょう」
言い切って立ち上がったので僕も倣う。刑事たちはこういう客にも慣れているのか、もう嫌な顔もしなくなって全てを事務的に処理すると決めたらしい。
「午後からは……無理でしょうね。でも、あの家に帰すのは勧められません。それだけです。明日の朝には検察送致になると思いますので、そのおつもりで。お疲れさまでした」
余程、自分の方が疲れた表情で女刑事さんが言うと、藤村弁護士が大仰に首を傾げて訊く。
「こちらは被害者として民事で争う心づもりですが、加害者として検察送致ですか? まさか勾留請求はなさらないですよね?」
焚き付ける気なのだと僕が気付いた時には、女刑事が『少年を護る顔』をかなぐり捨ててヒュッと喉を鳴らし息を吸い込んでからキレて喚こうとし、男の刑事が事務机を思い切りこぶしで殴り付けた音が響いて皆がビクリとした。
「――お帰り下さい、お気をつけて。お母さんに宜しく」
僕らは部屋から出て警官のエスコートも無く警察署をあとにすると、暫く裏通りを歩いてから表通りに出てタクシーを拾った。
車の中では例の男女の刑事さんたちに挟まれて後部座席に座っていたけれど、何かを訊かれるでもなく、誰もがひとことも発しないまま殆ど信号に引っ掛かりもせずに、朝の通勤ラッシュが終わった通りを走り抜けて所轄の警察署に着いてしまった。
けれども覆面パトカーから降りて促され、建物の裏口へと歩いて行くと、そこには朗らかな笑みを浮かべた藤村弁護士が使い込んだ革の鞄を提げて待ち受けていた。
「やあ、透君。顔色があまり良くないね。体調が悪いのなら素直に言ってもいいんだからね」
「あ、いえ。大丈夫です。わざわざすみません」
「私はこれが仕事だから気を遣う必要はないよ」
「はあ……」
ずっとくっついている男女の刑事二人といい、この弁護士といい、いったい超過労働をどれだけすれば安眠する気になるのだろう。藤村弁護士はともかくとして、警察官は割に合うのだろうか。年収は悪くないと何かで読んだことはあるけれど、女の刑事さんのすっぴんの顔色はおそらく僕より悪い。
そんなことを考えながら警察署に入る時も藤村弁護士は僕にピタリと歩幅まで合わせてくれる。昨夜、ヒモ男をガツンとやった後に慧さんにメールしたからこそ、今こうして弁護士という強力な楯が僕には就いたのだろうが、何も僕は慧さんに『助けてくれ』と頼んではいない。
《専属の約束を護れませんでした》
そう打って送信しただけだ。
ただ、あの場で僕が冷静にメールなんぞ打っていたと知れるのは、どう考えてもマイナスなので他人の耳目があるうちは、慧さんにも改めて謝ったり弁護士の礼を言ったりはしなかった。
慧さんもそんなことは解っていると目で言っていたように思う。でも僕が弁護士を必要とする事態になったとまで推測し、たぶん少なくはないカネを出してまで藤村弁護士を病院に同行させてくれたのは、有難いけれど何だか上手く嵌められたような気さえしてしまうのは仕方ないだろう。
そんな想像をしている僕が緊張で硬くなっていると思ったのか、藤村弁護士は『自分が同行しているから大丈夫だ』と強調するように弁護士なる付添人の必要性を淡々と説いていた。
「――48時間以内に検察に送致されて透君の不処分、つまり無罪であると決められる。私が保証するよ。これがヨンパチ、ああ、48時間の勝負といっても過言ではなくてね、勾留だって一度されてしまうと解くのは面倒になるんだよ。先手先手を打たないと、きみは被害者なのに加害者のように自分でも思えてくるからね」
長々と喋っているのは僕を安心させるためでもあり、一緒にいる担当刑事さんたちへの挑戦的科白でもあった。
いい加減にうんざりしたのか、女刑事さんが物言いをつける。
「我々は少年のプロと告げた筈です。決して自白を強要したり、粗略な扱いで精神的に追い詰めたりといった前時代的な事はしません。この水谷透くんの将来を一緒に考えるためにも事実を本人から訊く必要がありますし、自宅の方でも捜査を続けさせている訳で――」
「おい、もういい」
止めたのは寡黙な男の刑事だった。階級が上なのかも知れない。女刑事は素直に口を噤む。
そのメンバーで入った部屋は狭かったが、窓からの日差しが明るく観葉植物の葉に載った水滴を照らしていた。おまけに壁紙にも細かなパステル調の模様があって、けれども置いてあるのは事務机とパイプ椅子なる、ちぐはぐな部屋である。シニカルな慧さんなら『イメージの貧困さが浮き彫りですねえ』とでも評しそうだ。
なんてふざけたことを考えている暇はなかったんだった。集中すべきだろう。
事件に直接関係ある事も、まるで関係なさそうな事も、色々訊かれた。途中で何度か藤村弁護士が「ちょっと」と割り込んでは簡単に刑事の質問を撤回させるのには僕も驚いた。
合格率からしてみれば人生の何割もの時間を無駄にすると聞くのに、司法試験に挑む人間が絶えない理由が少し分かった気分だった。
二時間ほど経った頃、聴取を切り上げさせたのも藤村弁護士からだった。
「医師に依ると貧血も慢性的なものだろうとの診断です。依頼人を再度入院させるのは互いに不利益でしょう」
言い切って立ち上がったので僕も倣う。刑事たちはこういう客にも慣れているのか、もう嫌な顔もしなくなって全てを事務的に処理すると決めたらしい。
「午後からは……無理でしょうね。でも、あの家に帰すのは勧められません。それだけです。明日の朝には検察送致になると思いますので、そのおつもりで。お疲れさまでした」
余程、自分の方が疲れた表情で女刑事さんが言うと、藤村弁護士が大仰に首を傾げて訊く。
「こちらは被害者として民事で争う心づもりですが、加害者として検察送致ですか? まさか勾留請求はなさらないですよね?」
焚き付ける気なのだと僕が気付いた時には、女刑事が『少年を護る顔』をかなぐり捨ててヒュッと喉を鳴らし息を吸い込んでからキレて喚こうとし、男の刑事が事務机を思い切りこぶしで殴り付けた音が響いて皆がビクリとした。
「――お帰り下さい、お気をつけて。お母さんに宜しく」
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