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第7話・昼(刑事)

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 目を覚ました泉は咄嗟に腕時計を見て十一時三十二分という表示に一瞬焦った。遅刻したかと思ったのだ。だがすぐに自分は謹慎を言い渡された身だと思い出す。
 気の抜けたような思いで見回すと、見覚えのあるような無いような部屋だ。取り敢えずは起きてみる。

 手触りだけで判るほど髪はボサボサだが謹慎中で今更だ。何ら気にせず立ち上がるなり騒ぎ始めた腹の虫を宥めつつ、半ば忘れてしまった余所のお宅を再び探索する。その頃には大学射撃部の先輩で当時副部長だった『ジャック時宮』こと時宮恭介先輩のウチに泊まり込んだらしいのも思い出していた。

 刑事としても先輩だが同じ部署で一緒に仕事をしたことがなく、さっさと恭介は警察を辞めてしまった。

 憧れていなかったと言えば嘘になる。射撃部の時だってキングの名をほしいままにした部長より、恭介の方が確実に腕が上なのは誰もが認めるところだった。だが控えめに言っても俺様タイプの部長とは違い、恭介は副部長として補佐しながらも、決して目立たないことで俺様部長のプライドと部内の平穏を保っていた。

 だからといって時宮恭介が『平和主義者』なのはともかく『ことなかれ主義』と思っていた者はいなかっただろう。標的を撃ち抜く鋭い目はいつも自分自身のプライドに懸けて納得できる成績を叩き出すまで退こうとしなかった。

 それでも競技会では俺様な部長にあっさり王を譲り、自分は常にジャックに甘んじる恭介を不思議に思っていた部員は多い。泉もその一人だ。

 けれども今なら分かる気がする。
 吸血鬼という秘密を抱えていたのだ。目立たず、そして自身の誇りも枉げずに微妙なバランスを上手く取りながら過ごしていた結果、皆の目にはジャックに甘んじているように見えていたのだろう。

「本当は一番、怒らせたら怖いタイプなのかも。あの怪力だしなあ」

 呟きつつもグウグウ不満を洩らす腹を押さえながら一通り巡って寝室にお邪魔すると、広いベッドには煎餅の如く平らになってうつ伏せで寝ている男を発見する。時間も時間なので部屋の主であるその男を起こしてみた。

「あのう、時宮先輩、もうすぐお昼ですよ。先輩……おーい、吸血鬼!」

 しかし何度声を掛け、揺さぶっても恭介は起きようとしない。最初は死んでいるのかと思ったくらいで、けれどゆっくりと息はしている。十五分ほど頑張ったが粘り負けて泉は寝室から出た。吸血鬼だから昼間の明るい日差しは苦手なのかと単純に思うと諦めも付く。

 まずはキッチンの冷蔵庫まで進軍し、期待を込めて開けてみた。
 だが残念ながら冷蔵庫には腹の足しになりそうなものは入っていなかった。僅かにオリーブの瓶詰とショウガのチューブだけが鎮座していて、いったい恭介は何を食べているのかと不思議に思う。
 そこで昨日の自分の科白の『食事に困らないですね』を思い出した。

「この時間なら喫茶店は確実にやってるよな、うん」

 独り頷くと洗濯乾燥機の中から洗濯済みの下着と靴下にドレスシャツを引っ張り出して身に着ける。いつの間にか寝室のクローゼットの扉に移動され、風通しをされていたスーツを着るとリビングのロウテーブルに置かれていた手錠ホルダーと特殊警棒付き帯革をベルトの上から装着した。

 普通の刑事は拳銃など常時携帯していない。泉も失くしたときはガサ入れに行く前だったから持っていただけである。所属する組対、組織犯罪対策本部は全国的に高まった暴力団排除の風潮から、元々マル暴専門セクションの捜査四課を基にして作られた。その中でも薬物銃器対策課は危険なガサ入れが多く拳銃を携帯する機会も多かった。

 それが徒になった訳だが、今は謹慎を悲観するよりブランチにありつくことが泉の至上命題である。それでも放置したまま去ってしまうのは素っ気ないかと思って寝室に戻ると、うつ伏せの男を苦労して引っ繰り返し、その顔を暫し眺めてみた。

 非常に造作は整っている。眠っていると作り物に見えるほどだ。だが切れ長の目のまぶたを上下に強引に「びよ~ん」と、こじ開けて見たが血走った眼球が乾いてゆくばかりで、やはり起きる気配はない。目玉が乾燥して割れる前に悪戯は止めた。
 
「昨日は僕を投げ飛ばすほど元気だったのになあ」

 また独り呟いてみて昨夜のこの男の姿を脳裏に浮かばせる。眇められた鋭い目が自分を見つめ、匂い立つような男の色気が発散されていた。
 あの逞しい腕で折れそうなほど抱き締められたい。そして先輩にいるらしい彼氏の存在。やはり抱かれて血を啜られ甘く高い声を……ふるふると頭を振って余計に腹の減る妄想を追い出す。

 しかし吸血鬼の『荒技』とやらがここまで効果を発揮し、普段なら考えも及ばないのに逞しい胸がこんなに愛しくなるとは自分でも驚きだったが、この想いが一過性のものという方が驚きに値すると思う。胸が切なくギュッと締め付けられるようなこの想いが、あっさり溶ける日が来るのだろうか。

 我慢できなくなった泉は眠る恭介からソフトキスを奪って踵を返した。

 玄関ドアはオートロックではなかったので、リビングのロウテーブルにあったキィホルダーを手にして靴を履く。廊下に出てキィロックをしドアの新聞受けの中にキィを落とした。

 エレベーターで一階に降り、外に出てみるとカルミアなる喫茶店はちゃんと営業していた。軒先の僅かな土から生え出したツタが壁に絡んで、なかなかに雰囲気のある喫茶店は少々入りづらかった。
 だがこの近辺にランチの摂れる店が他にあるのかどうかも分からない。意を決してドアを開けるとチャリンと内側に取り付けられたベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

 低い男の声に昨夜の恭介を思い出しかけて溜息をついた。この感じ方は確かに異常かも知れない。カウンター内から声を掛けてきたマスターらしき男に会釈して店内を見渡す。

 カウンター席が八つ、四人掛けのテーブル席が六つある店だが、やはり入りづらいのか、常連めいたリラックス度の高いカップルがテーブルをふたつ埋めているだけだった。泉はカップルから距離を置いてカウンター席に腰掛ける。メニューを見ている間にお絞りと水のタンブラーが出された。

「ええと、本日のAランチとエビフライ盛り合わせにツナサラダのファミリーサイズ、コーンスープの大。それとカレー下さい」

 ヒゲを生やして赤いバンダナを頭に巻いたマスターは何か言おうとしてやめ、調理台に向かう。そのエプロンの背を眺めながら泉は煙草を咥えて火を点けた。
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